- ナノ -

 この僕としたことが、忘れ物をしてしまったよ。
 悪いが持ってきてくれないか。
 君の永久不滅の友・一二三より


(ああ……一分一秒でも、いや、一瞬でも早く帰りたい……)

 何度目かも分からない溜め息を吐き終えた独歩は、一二三の勤める新宿のホストクラブに向かっていた。
 断る、と一言返信すればそれで済む話なのだが、メールの文調から察するに、一二三が仕事モードに入っている可能性が高いので、何を言っても無意味だと判断したが故に引き受けたのだ。
 店前に到着する数分前に一二三宛にメールを入れたのだが、返信がないので店前をうろうろする羽目になってしまった。

 そうしているうちにキャッチに捕まり、ここの関係者だということを何度説明しても聞き入れて貰えず、間接照明が怪しく照らす端席に案内されて今に至る。
 折悪く一二三は接客で不在にしているようで、ヘルプのホストが入れ替わり立ち替わりでドリンクのオーダーを聞きに来るのだが、独歩が必死で首を横に振ると、何をしに来たんだとでもいうような表情を残して席を離れていく。

 いたたまれなくなった独歩は、心を無にして天井を見上げる。シャンデリアの反射光が眩暈がするほどに眩しくて、慌てて足下に視線を落とす。

「ひっふみー! 会いに来たよお!」

 聞き慣れた男の名前に反応して、独歩は顔を上げた。若い女性客と一二三が、腕を組みながら此方へ近づいてくるではないか。一二三は独歩が睨みつけているのに気づいたのか、軽やかなウィンクを一つ飛ばしたが、歯ぎしりする独歩を通り過ぎて隣のテーブルに座った。
 一二三がようやく気づいたので後少しで帰れるかと思い、もう数十分ほど待ってみたが、話が盛り上がっているのか中々来ない。精神的にも限界が近づいてきていた独歩は再び下を向いた。

 この際、近くのボーイを呼び止めて、一二三の忘れ物を押しつけてしまえばいいのだと思い至った。次に通りかかった人に声を掛けて、渡してもらおう。そろそろメンタルが爆発しそうだから。

 綺麗に磨かれた大理石の床に、さっそく影が映ったのをみてとった独歩は、ありったけの勇気を出して声を掛けた。

「す、すみませ……え、」
「はい、何でしょうか」

 独歩は雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 物腰の柔らかい所作、焦がれていた微笑み。間違いなくその男性は、カミサマその人だった。

「あ……ああああっ!!」


 今度こそ細い糸のような関係を繋ぎ止めておきたくて、本気のシャウトをかましてしまったが、いかんせん場所がまずかった。
 わいわいと盛り上がっていた煌やかな雰囲気が、一瞬にして沈黙する。スピーカーから流れるアップテンポな曲が、いっそ清々しい程に不釣り合いだ。

 身を固まらせた男性と目がかち合ったまま独歩が動けずにいると、隣のテーブルについていた一二三が血相を変えて駆け寄ってきた。

「チーフ! どうかしましたか?」
「……いや、大丈夫。とにかく放送入れるわ」

 カミサマがジャケットに取り付けていたピンマイクに向けて、穏やかな口調で「お楽しみの中、雰囲気を乱してしまい申し訳ございませんでした。私共より後程ワンドリンクをサービスいたしますので、引き続き夢の時間をお楽しみください」とアナウンスすると、徐々に雰囲気が修復されていく。
 カミサマは一通り場内を見回して、先程と同じ微笑みを湛えながら独歩と一二三のいる方に向き直った。
「説明してもらえるかな」と一言添えて。

「名字チーフ、本当に申し訳ありませんでした。僕が友人にもっと声を早く掛けていたら、ご迷惑をおかけすることはありませんでした。この落とし前は僕がつけます」
「……ああ、このお客さん、ずっと死んだ顔してるなと思ってたら。待ち人は一二三だったんだね」
「はい。彼は僕の永久不滅の友です」
「ひ、一二三……」

 呆然とした独歩は、一二三に返事を返すのがやっとだった。自分はなんということをしでかしたのだ。カミサマにこの場を救ってもらっただけではなく、多大な迷惑を掛けてしまったことは、どんなに現実逃避しても逃れられない事実だった。
 悔しくて情けなくて、独歩の視界が涙で滲む。

「ぜ、全部俺のせいです……本当に、本当に申し訳ございませんでした……俺の貯金を全額お渡ししますので、どうか迷惑料としてお納めください……」
「……うーん……一二三の友達から、お金取るわけにはいかないしなあ……じゃ、今回は一二三のカケってことでよろしく。友達、待たせてたんだろう?」

 カミサマはにやりと笑った。
 一二三は真剣な表情で「元よりそのつもりです、チーフ!」と頷いてみせた後、今度は独歩に向き直り、深々と頭を下げた。

「……独歩くん、本当にすまなかった!」
「え、あ、いや……別に、もう……いいけど」

 自分の知っている一二三とはやはり別人で、いつもの軽薄さは露ほども感じられない。それは逆に独歩を冷静にさせた。とっくに怒りは鎮まっているので、今となっては気まずさが残るばかりだ。

「よし、まとまった話を広げても時間の無駄だ。一二三、お客様をこれ以上お待たせしないように。きっちり仕事で返してくれ」
「……はい!」

 威勢良く返事した後、一二三は先程のテーブルに戻っていった。女性客も今までの様子を見ていたのだろう、「おつかれさまぁ」と甘ったるい声が聞こえたので、一二三の方も事なきを得たみたいだ。

「それで、君はどうする?」
「え、っは、はい、俺は、アナタを指名したいです……あ」
「…………あっはははは! はは、っははは」

 ソファー越しから「今度は何をしたのだ」と目配せする一二三に、独歩はふるふると首を横に振った。もう何が起こっているのか、脳の処理が追いつかない。
 焦がれていたカミサマと自分が、今こうして会話を交わしている。これを運命的な再会と言わずして何と言うのか。嘘のような奇跡に、独歩は心身共に打ち震えていた。

「はあ、笑った笑った。本当はもっとお喋りしたいんだけど、これから系列を回らないといけなくてさ。……申し遅れたね。このクラブのチーフ、名字です。だから僕のことは、指名できないんだ」

 笑いを耐えたような表情でカミサマから差し出された名刺は、まさに自分が渇望している情報が記載されていた。氏名だけではなく、仕事用の可能性が高いがメールアドレスや電話番号まで―自分は夢でも見ているのだろうか。もはや指名どころの話ではない。

「名字、名前さん……」

 そう言い返すのがやっとで、独歩は恭しく名刺を受け取る。
 上質な紙だと一目で分かる名前の名刺は、きらきらと輝く宝箱のように思えた。

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