- ナノ -

「……兄ちゃん、本当に独歩に言うのか?」

 二郎は表情を強張らせて、一郎に問いかけた。
 一郎は「依頼は依頼だしな。報告する義務はあるだろ」と低い声で吐き捨てて、調査結果記録を睨みつける。
 にわかには信じがたい結果に、一郎自身も現実を受け入れられないでいた―独歩から依頼を受けた、探し人の素性を。

「ターゲットの名前は名字名前。職業は……中王区内閣府所属の諜報部職員、か」
「諜報部って……スパイってことですよね」
「ああ、三郎。ディビジョン代表グループの監視業務を主とする、極めて卑怯な連中だ」
「でも、どうしてそんな奴が……?」
「……俺の推測の域を出ねェが、おそらく麻天狼の品格―商品価値を守る為だろうな」

 テリトリーバトルの優勝経歴もある麻天狼は特に中王区女性の人気が高く、行動の一つ一つが経済効果に甚大な影響を及ぼしかねない。
 そこで、高い商品価値を保つための監視役として、中王区諜報部の名前が派遣されたという算段だ。麻天狼の名に傷が付かないよう、アクシデントを未然に防止することが名前の任務だとしたら―……

「こう考えちまうと、独歩を痴漢冤罪から助けたのも―決して好意からくるものではなく、あくまでも「任務」の一つにすぎないってワケだな。……あいつのカミサマは、少なくとも『神様』なんかじゃないみたいだぜ」

 どさ、とドアの向こうから物音が聞こえ、室内が静まりかえる。近くにいた二郎が急いでドアを開けたが、訪問者はすでに姿を消していた。
 床には踏み潰されたカプセル錠剤が物寂しげに転がっていて、二郎はチッと舌打ちした。

「……聞いてたのかよ、独歩……」


 同時刻、煌びやかな装飾が施された内閣府の執務室で、飴村乱数は楽しげに足をぷらぷらと揺らしていた。此処は訪れる度に高価な調度品が増えているので、見飽きることがない。
 まあ、その出所は他でもない、自分達の税金な訳だが。

 無花果との打ち合わせが短時間で終わったので、ロリポップを舐めながら寛いでいると、「勘解由小路局長、面談中失礼いたします」という声とともに、応接室の扉をノックする音が聞こえた。

「入れ」
「失礼いたします」

 入室したのは、中王区記章のバッジを左胸に付けた一人の冴えない男だった。
 男は早足で無花果の執務机に向かうと、書類の束を差し出した。仕事以外の楽しみがなさそうな奴だな、と乱数は心の中で笑った。

「本日分の調査報告をお持ちしました」
「ご苦労。下がっていいぞ」

 男は無花果に深々と一礼し、乱数に目を合わせることなく静かに退室した。
 中王区に出入りを許される男など、テリトリーバトルを除き滅多にいない。興味を惹かれた乱数は、毒気を抜いた笑顔で無花果に尋ねた。

「ねえねえ、無花果おねーさん、今の人はだれ?」
「お前が知る必要はない」
「ぶー、おねーさんのケチ!」

 頬を膨らませた乱数に、無花果は蔑むように冷たく視線を投げたが、「女性のスパイだと色々目立つからな」と再び書類に目を落とした。
 それを聞いた乱数の目が、きらりと光る。

 ビジネスライクな関係であることは十分承知しているが、こうも威圧的な態度を取られるとやはり気分の良いものではない。ボロ雑巾になるまで利用し尽くして捨ててやろうと考えているのは、きっとお互い様なのだろうが。

 乱数は潜めた殺意をひた隠しにして、「そっかあ、なるほどね」と微笑んだ。
 何かに利用できるかもしれないと、男の名札に記された「名字」の名字を頭の隅に留めて。


 呆然としながら、独歩はふらふらと街中を歩く。車のクラクションや自転車のベルをどれだけ鳴らされても、どこか遠い国の出来事のように思えた。萬屋によって暴かれたカミサマ―名前のこと以外、もう今は何も浮かばない。

 決して相容れることのない立場の自分達が、まるでロミオとジュリエットのようだと、この境遇に酔いしれることができたらどんなに楽だろう。しかし自分がそんな性格でないことは、自問自答するまでもなく分かっていた。
 一つだけ言えるのは、この恋が決して報われないということだ。自分は生涯孤独を抱えて、この先ずっと誰かと戦い続けなければならないのだろうか。

 たしかに、戦いに勝つことは麻天狼のため、そして自分がこの世を生き抜くための手段だった。
 しかし、自身の命を削って得られるものが一時的な幸福のみならば、戦うことに一体何の意味が?

 独歩は黒く渦巻いた思考を巡らせ、やがて一つの結論に辿り着いた。
 幸福は待ち受けるものではなく、他者が運んでくるものでもない。能動的に掴み取ることが不可欠なのだ。自分が身を堕とし、どんな手段を使うことになったとしても。

 何とも自分らしい答えに、独歩は乾いた笑いで自嘲した。

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