- ナノ -

 あの後、会社には当然遅刻した。
 予想通り待っていたのは課長のねちねちした小言で、通勤快速も止まらないくらいのローカル駅に会社を建てる方が悪いと、いつもなら心の中で毒づくところなのだが。今日は適当なタイミングですみません、と相槌を打つロボットと化していた。

 やっと課長から解放され、自席に戻ってメールをチェックしていても、内容が全く頭に入ってこない。原因は紛れもなく、朝の出来事だった。

(あの人、格好良かったな……また会えるかな……)

 今日の出来事は、一歩間違えていたら示談と言う名の慰謝料を尻の毛までむしり取られる運命に違いなかった。それに、こういった事案は男性の立場が特に弱いと聞く。麻天狼の名にも泥を塗ることなく、いつも通り電車を降りることが出来たのは他ならぬあの人のお陰だ。
 カミサマと呼んでも何ら差し支えないくらい、今朝の男性は独歩にとって命の恩人だった。

 男性が降りた駅は独歩が本来降りる駅よりも二駅先だった。通勤快速を普段利用しない独歩は、待ち伏せでもしない限り彼と会えることはない。
 仮に待ち伏せたとしても、時間帯が毎日同じとは限らない。無理にでも連絡先を聞き出さなかった自分に嫌気が差した。イケブクロの三兄弟に依頼すれば、調べて貰えるのだろうか。

 彼からは謝礼も丁重に辞退されてしまったけれど、やっぱり菓子折りとか持って行った方がいいのではないかと思い至ったところで、課長にガクガクと椅子を揺らされた。

「観音坂くぅん、ぼーっとしている暇があったらアポの一つでも取ったらどうなんだい?」
「う、あ……はい、スミマセン……」

 くすくすと忍び笑いを漏らす周りの同僚達にも、もう慣れた。震える手で受話器を取り、社内で配られた医療機関一覧の電話番号を、もう片方の手でピ、ピ、と押してコール音に耳を澄ませる。いつも通りのやりがいのない仕事だ。
 陰気で根暗な自分に転職が上手くいくとは思えないし、我慢さえしていれば毎月給料が入るのだ。金は生きるために必要な手段だ。
 だから、自分の精神を削ってでも、今の仕事を続けるしかなかった。

(ああ、カミサマにもう一度会いたい……)

 今朝会った名前も知らぬ男性を、独歩はカミサマと呼ぶことにした。


 カミサマと運命的な出会いを果たしたその日、独歩は一二三からメールで夕飯の買い物を頼まれていた。今朝の出来事に対する謝罪が何もなかったことに青筋を立てつつも、珍しく悪いことばかりではなかったと、独歩は頬を緩ませながらスーパーのカゴに手を掛けた。

「ええと……何を買うんだったか……”牛肉1kg”……い、い、いちきろ……誰か来るのか!?」

 思わず大きな声を出してしまい、独歩の横を通り過ぎた女性が「ひい」と引きつった声を上げた。
 平身低頭で謝り倒したあと、スマートフォンの画面を今一度見返したが、やはりそこには「牛肉1kgと猫缶買ってきてちょんまげ!ビールはあるから!」という文字とともに、あざとい表情をした猫の画像がおまけに送られていた。

「誰か来てるのか?」と返信したが、一向に返事が返ってこないので、独歩は言われたとおりの容量が入った牛モモ肉のパックをカゴに入れた。たとえ部位が一二三の希望通りでなかったとしても、自分の少ないレパートリーの一つであるローストビーフに使えるので、あまり支障はないだろうと思ったのだ。

 しかし、猫を飼っていないのに猫缶を買う理由は皆目見当がつかないので、とりあえず目についた猫缶を1つだけ投げ込んだ。猫缶の代金はあとで一二三に請求しようと独りごちながら。

 とはいえ、食事はいつも一二三が用意してくれるので、たまには感謝の印としてアイスでも買ってやるかという気分になってきた。
 冷凍庫からアイスを2つ取り出したところで、もし誰か来ていたら気まずいなと思い直した独歩は、保険でもう2つ、同じものを追加でカゴに投げ入れた。

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