- ナノ -

「今、私のお尻触りましたよね!」

 電車内が一瞬にして緊迫した雰囲気に変わる。いかにも気の強そうな女子高生に指をさされた男―観音坂独歩は一筋の冷や汗を垂らした。

 思えば今朝からついていなかった。
 寝る前に何回も確認したはずの目覚まし時計は電池が切れており、朝になっても鳴らなかったのだ。しかし奇跡的に体内時計は覚えていたのか、出発時刻になってぱちりと目を覚ました独歩はベッドから飛び上がった。
 アラームアプリもセットしておいたはずなのに、と泣きそうになりながらスマートフォンの電源を入れるも、画面は真っ暗のままだった。ケーブルの先に素早く視線を移すと、昨夜たしかに差したはずのUSB端子がコンセントの前で息絶えていて、代わりに一二三の携帯が繋がっていた。

(一二三ィィ……勝手にケーブルを付け替えたんだな……俺が寝てる間に!)

 やり場のない怒りを抱えながらも、急いで支度をしてから家を出て、全速力で最寄り駅まで駆け抜ける。携帯の充電器を忘れたことに途中で気がついたが、昼休憩中にコンビニで買うことにした。家に戻っている時間などありはしない。

 必死の思いで階段を駆け下りた独歩は、ドアが閉まろうとしている電車に間一髪で乗り込むことができた。「駆け込み乗車はおやめください」というもっともなアナウンスに心の中で土下座しつつ、荒い呼吸を整えていた独歩は、車内の電光掲示板を見て心臓が縮み上がる―この電車は、降車駅を通過する通勤快速だったのだ。

(ああ……ただでさえ満員電車に飛び込んで周りの人に迷惑を掛けているのに、目的の電車じゃなかったなんて……どうして俺は失敗を活かせないクズ人間なのだろう……俺なんか、いっそホームに飛び込んでしまえば良かったのだろうか……)

 気分が落ち込んでしまい、ビジネスバッグを抱えながら深い溜め息をつき終わったところで、冒頭の女子高生にあらぬ疑いを掛けられたというわけだ。

 めまぐるしく変わる展開に、頭がフリーズして言葉が上手く出てこない。

「あ……お、俺が……?」
「次の駅で降りてください!」

 涙を浮かべている女子高生に、独歩はごくりと喉を鳴らす。周囲の乗客達が発する嫌なさざめきが鼓膜を揺らして、頭痛が酷くなる。

 独歩には当然身に覚えがない。遅刻によって上司に怒られる恐怖の方が、一時の性欲よりも圧倒的に上回っているからだ。
 しかしそれを正直に伝えたところで、有利になるわけではない。
 それに、いつものようにその場しのぎで謝ってしまったら、更に大変なことになると独歩は本能で理解していた。ただでさえ朝から散々な目に遭っているというのに、あまつさえ身に覚えのない濡れ衣を着せられてこっちが泣きたい……と唇を噛みしめていると。


「ごめんね、ちょっといい?」

 独歩のすぐ隣にいた同年代の男性が、真剣な表情で女子高生を見据えていた。この場を上手く切り抜ける手段が思いつかなかった独歩は、縋るような視線を男性に注いだ。

「彼、両手にカバンを抱えているからさ。痴漢は難しいんじゃないかな」
「で、でも! 私は本当に……」
「大丈夫、君の目を見れば嘘じゃないってことくらいわかるよ。でも少なくとも、彼ではないってことは分かったでしょ。間違いは誰にでもあるからさ。……ね?」
「…………ご、ごめんなさい……」

 蚊の鳴くような声で彼女が謝罪の言葉を呟いた時、独歩ははらはらと涙を落とした。
 何故自分が泣いているか独歩自身も理解できず、慌ててごしごしと目を擦った。

 電車は我関せずといったふうに、徐々に速度を落として次の駅に停車した。
 男性は独歩に目もくれず、開いた出口に吸い込まれるように電車から出て行った。男性の姿がどんどん遠くなっていく。
 慌てて独歩も電車を降りた後、男性を追いかけて肩を叩いた―まだ自分は、お礼すら言えていない。

「あ、あ、あの……! さっきは、ありがとうございました。その……助けて、くれて」
「君も災難だったね。でも、彼女も涙目だったし、痴漢に遭ってたのは本当だと思うよ。その子も助けてあげられなかったのは悔しいけど、真犯人には報いがあるはずだからさ」
「でっ、でも、何かお礼を……」
「いいって。その代わり、君のような人をもし見かけたら、今度は君が助けてあげてね」

 男性はにっこりと微笑んでから、独歩に背を向けて改札口へと歩き出した。

 何とも言えない温かな感情が、独歩の心を久々に潤した。


top | next