- ナノ -

 ずっしりと重いビニール袋を下げてスーパーを後にした独歩は、再び一二三から返信が来てないかを確認する。
 すると、自分が会計を済ませている間に一二三が電話を掛けてきていたようで、不在着信の文字がポップアップされていた。

 そのまま一二三の名前をタップして発信すると、数度のコール音の後、「独歩ちんまだあ?」と酒に呑まれたような声が聞こえてきて、独歩は眉をひそめた。

「返信がなかったから牛モモ買ったけど、大丈夫か?」
「お、さすが独歩ちん! ローストビーフ作ってちょんまげ〜! ダチも待ってるよん!」
「……やっぱり誰か来てるのか……」

 ああ、憂鬱だ。
 独歩が大げさにため息をついてみせても、一二三は全く堪えない様子で「今日も社畜生活お疲れちゃん」と大笑いしていた。不愉快な気持ちがそれほど起こらないのは、お互いの内面を理解し尽くしている幼馴染であるが故の奇跡だった。

 しかし一方で、仕事帰りから翌朝目覚めるまでの時間帯は他でもない、自分だけの時間が独歩は好きだった。そもそも時間は全て自分のものであるはずなのに、自由に使える時間は何故これ程に少ないのだろう。この世界は間違いなく狂っていると思った。

(でも、もしカミサマが家にいたとしたら、……ああ、そうしたら俺は……)

 嬉しさのあまり、その場で絶命するに違いない。
 ささくれた自分の心をあの笑顔で癒やしてほしい。抱きしめてほしい。利己的な欲望が限界まで擦り切れた自分の中に残っていたことに、一番驚いているのは他ならぬ独歩自身だった。
 でも、そんな都合のいい展開にもし巡り会えるような人生なら、そもそもこんなに苦労していないはずだ。独歩はがっくりと肩を落とした。
 話せなくても良いから、姿だけでももう一度遠くから拝めないだろうか。会いたい会いたい会いたい。

 独歩の中で、名も知らぬ男は確実に神格化されていた。


 もう、金輪際、コイツを出禁にしよう。
 独歩は心に強く決めてから、今日一番の溜息を吐き出した。

 僅かな期待を抱いて帰宅したものの、独歩を待っていたのはやはり知らない男と一二三だった。当然の結末とはいえ、勝手に裏切られたような気分になった独歩は唇の端を噛んだ。

 ローストビーフが出来るまでの間に自己紹介がてら酒盛りに加わったのだが、すでに2人は随分酒が回っており、会話らしい会話がままならなかったのも落ち込んだ一因だった。今となっては名前も思い出せないその男は、見た目も中身も軽薄な奴だった。

 初対面にもかかわらず「一二三のマブダチにしてはめっちゃ陰キャじゃん。ウケる」と失礼にも程がある発言をぶちかまされ、虚を突かれた独歩は愛想笑いで流すほかなかった。それも下に見られる一因だったのかもしれない。

 更にその男は、人の家の冷凍庫を勝手に漁ったあげく、独歩が買ってきたアイスを全て平らげていた。当の一二三はべろべろに酔っ払っていて注意してもらえるような状況ではなく、独歩は引きつった顔でその男を接待し続けた。

(自分の家だというのに、なぜここまで精神を削られないとならないのだろうか……少なくともコイツは、カミサマと同じ生き物ではない……いや、そうであってはならない……絶対に……)

 そして、2人とも酔い潰れて眠りこけた頃にはゆうに午前0時を回っていた。
 がしがしと頭を掻きながら、独歩はネクタイの結び目を緩める。窓の外から聞こえる鈴虫の音を煩わしく感じるほどに、独歩の精神は荒れていた。
 明日も仕事だというのに、独歩のベッドは例の男が大の字になって寝転がっている。自分には安心して休む権利すらないというのか。……注意できない自分が情けない。

 ああ、もう全部嫌だ。助けてカミサマ。
 死屍累々の惨状に独歩は目を背けて、神宮寺から処方された薬をビールで飲み下した。


 草木も眠る丑三つ時、玄関の鍵が回る。暗闇と静寂が支配する部屋の中に、一人の男が侵入した。酒臭い室内に思わず顔をしかめたが、男には確かめなければいけないことがあった。
 間もなくして、床に寝転がった独歩の存在を認めた男は、音を立てぬように膝をついて様子を窺った―低い呻き声を断続的に立てている。どうやら、悪い夢にうなされているようだ。

 男はミネラルウォーターを机の上に置いたあと、再び部屋を見回してから、静かに玄関の外へと消えた。

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