- ナノ -


6.こうもりおとこと星のひとA 
※暴力表現が苦手な方はご注意ください。


「それでは……くれぐれも、ご内密にお願いします」

 こうもりおとこが指をパチンと鳴らした途端、視界の端に何かが映った。おそるおそる隣に目を遣ると、誰かが私を見下ろすように立っているのが分かった。
 魔法のように突然現れたその人は、今時珍しいブラウン管テレビを携えながら私を……いや、正確には私が持っていた林檎をじっと見ていた。

「……た、食べますか?」
「…………」

 すると、目よりも上の位置にある口が大きく開いて、私に向かって襲い掛かってきた。悲鳴を上げる前に、大きな口は林檎をまるごとバリバリと噛み砕いて、げふ、と満足そうに息を吐いた。た、食べられるかと思った。
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、突然テレビ画面に砂嵐がザーッと映った。情報処理が追いつかず呆然としていると、急に画面が切り替わって、今度は閑静な住宅街が映し出された。
 TV番組にしてはテロップもないし、軽快なBGMも流れてこない。街灯が辺りの道を照らしているのが見えるので、場面は夜なのだろう。

「ここは……?」
「まあ、とくとご覧なさいな」

 見知らぬ黒髪の男性が、道を歩いている。歩幅を狭めたり広げたり、歩く速度を調節しているようだ。その男性より数メートル先を、女性がふらふらと歩いていた。狭い道路を右へ左へ、まるで幽霊のように。
 どちらの顔も薄闇のせいでよく見えないけれど、少なくとも女性の正体を私は知っていた。これは――私だ。思わず息をひゅう、と呑む。

 テレビに映る私は、やがて一軒の家の前で足を止めた。うろうろとしている辺り、どうやら入るのをためらっているようだった。そして、どのくらい右往左往していただろうか―画面の中の私は小さく首を横に振ると、その場にしゃがみ込んでしまった。……重りを付けて心の奥底に沈ませた闇が、せり上がってくるような感触がした。

 これ以上、思い出してはいけない。
 頭の中で第六感が警鐘を鳴らす。それを嘲笑うかのように、隣の男は密やかに耳打ちした。一つ昔話をしましょうか、と。

「……あの家は、貴女様のかつての居場所でした。向こう側の見えない水槽のように酷く濁った環境の中で、貴女様は幼い頃から日常的に暴力を受けていたのです―実の母親から」
「や、めて……」
「人格を否定されるような言葉を吐かれる毎日。母親もどきが男を連れ込んだ日は家から締め出され、途方に暮れる日々……それは貴女様が大人になっても、変わることはなかった」
「違う……私は、」
「しかし、貴女様は決して家を離れようとはしなかった。母親が気まぐれに施す、ほんの一匙の愛情を喉から手が出るほど欲していたからです。……私に言わせれば、愛情と呼ぶには程遠いものですがね」
「お願い、それ以上言わないで!!」

 肺に泥水が溜まったみたいに呼吸が上手く出来なくて、胸の辺りを手で抑える。私の懇願が一切聞こえないかのように、男性は淡々と言葉を続けていく。

「そして、あの運命の日。その日は貴女様の誕生日でした。いじらしいことに母親から祝福の言葉を期待していたのでしょう、貴女様は花束と洋菓子を携えて帰宅した……何の日であるかを気づいてもらうために。……もう、察しがつくでしょう? この昔話の続きを」
「…………」

 男性は心底哀れむような表情で、テレビの方に視線を向けた。……テレビに映る私は、先程からずっとしゃがみ込んでいる。徐々に画面がズームアップすると、私の傍らに萎れた花束と潰れた白い箱が打ち捨てられているのが見えた。
 酷いノイズで声は聞こえないけれど、口の動きで「おかあさん、ごめんなさい」と呪文のように呟き続けているのが分かって、背筋に冷たいものが走った。

「……マスターは、一体どうしたいの? 私を監禁して、自由を奪って……その挙げ句に、こんなものまで、」
「いいえ、発想を変えるのです、なまえ。何故マスターが、貴女様をこうした形で『保護』しているのか、と……答えは至極、呆気ない程に簡単。貴女様を、何よりも大切に思っているからです」

 面識があるならまだしも、見ず知らずの人にここまでされても戸惑いの感情しか持てないし、無条件で受容する方が異常だと思う。それに、一番気になっていたことがまだ明らかになっていない。

「……私、全然、マスターの心当たりがない……」
「……それは、目の前のキネマで確かめてください。貴女様自身の意思で」

 男性が口にした途端、テレビ画面の視点は私から急に離れていった。
 次に映ったのは、私の後ろを歩いていた男性の背中だった。家の前から動かない私を、しばらく物陰から見ていたかと思うと、彼は私の元へ駆け寄った。そして――ブツッ、と画面が途切れた。

「おやおや、大事な所だったのに……星のひとが眠ってしまったようです」

 星のひとと呼ばれた人の目が、いつのまにかしっかりと閉じている。林檎を貪るように食べていた真赤な唇が、豪快ないびきをかいていることに、たった今気がついた。そして、私の手が尋常じゃない汗をかいていることにも。
 ……間違いなく、あの黒髪の男性がマスターだ。

「貴女様がすくわれる方法はただ一つ……マスターの全てを、受容れることです」
「…………後で、考えさせて。今は何も考えたくない……」
「分かりました。それでは一旦、お開きにいたしましょう」

 意外にも、こうもりおとこはすんなりと引き下がった。彼が再び指を鳴らすと、急に身体中の力が抜けて、私は地面に突っ伏した。そのまま全てを忘れてしまいたくて、きつく目を瞑ると、意識が段々遠のいていく。…………


「……おや、バレていましたか。いえいえ、そそのかすなんてとんでもない。指一本触れておりませんから、そんな怖いお顔をなさらないでくださいな。すべては貴方様のため、でございます。……いやはや、狂言回しも楽ではございませんね。私めの熱演、お気に召していただけましたでしょうか」

 なまえを見送ったこうもりおとこは、自前の傘をくるりと回転させた。
 そして、恭しく一礼すると、どこからともなく乾いた風が、こうもりおとこの頬を撫でつけた。

prev |top| next