- ナノ -


8.すくわれる

 身体の内側から叩かれるような頭痛で目が覚めた。ゆっくりと瞼を開くと、冷たいものが目尻から流れるような感触がして、慌てて目元を拭った。なんだか、今まで変な夢を見ていた気がする。

 ふと違和感を覚えて、右手を開いてみると、薄い和紙のようなもので包まれた飴が手のひらで沈黙していた。紙を広げると、達筆な文字で"いつかまた、どこかで"と書かれていた。夢じゃないことを思い知らされた気分になって、ぐしゃぐしゃに握りしめた。
 でも、ここにはゴミ箱もないし、このまま持っていてもあの子達がいずれ気がつくと後で大変そうだし……証拠隠滅しよう。食べちゃえ。
 一か八か包み紙を口に放り込むと、驚くことに舌の上ですぐに溶けてなくなった。オブラートのようなものだったのだろうか。もう無くなってしまったから、確かめる術はないけれど。残った飴も、まとめて口に放り込んだ。

 ここに閉じ込められてから、おそらく数ヶ月は経っている。誰も助けに来てくれないけれど、逆に誰かから危害を加えられることもなかったし、それに食べ物だって支給されるし……と、ここから逃げない理由を正当化し始めているあたり、私はこの生活に順応してしまっている。
 弐ノ丸さんの言うとおり、私も無自覚に、少しずつ狂い始めているのかもしれない。

 星のひとが映した、忘れたい過去の中で泣いていた私。数え切れないほど吐き出した謝罪の言葉。見えない心の血だまり。どうして、なんで私ばっかりって殻に閉じこもっていたことも、テレビで客観的に見せられるまで全く自覚していなかった。
 あの映像の続きを想像するに、家を追い出されて路頭に迷っていた私にマスターが声を掛けてくれて、色々あって今に至る、と考えるべきだろう。
 でも、その想像が正しかったとしても、どうしてマスターは私にそこまでしてくれるのだろう。そう考えたところで、先程まで見ていた夢がふっと頭に浮かんできた。

"何故マスターが、貴女様をこうした形で『保護』しているのか……答えは至極簡単。貴女様を、何よりも大切に思っているからです"

 夢の中の男性に言われた台詞を頭の中で反芻した途端、全身に温かいものが巡るような感覚が走った。私を必要としてくれる人がいるなんて、本当に、ここに来る前まで考えたこともなかった。
 ベッドシーツの肌触りを堪能しながら、夢の中の出来事をもう一度思い返す。

"貴女様がすくわれる方法はただ一つ……マスターの全てを受容れることです"

 今度は甘い毒を呑んだみたいに、心臓のあたりが柔らかく痛んだ。このまま監禁されていた方が楽になれるんじゃないか、過去と決別できるんじゃないかと現実逃避したのも、一度や二度の話ではなかった。
 ……私を大切にしてくれる人が、外の世界に誰もいないのだとしたら―そう思ったところで、あることに気がついた私は、急いでベッドから立ち上がった。


「…………ドアが、開いてる」

 ぽっかりと空間を切り取ったように、渇望していた出口がそこにあった。
 しばらく誰かが来ないか身構えていたけれど、一向にその気配はない。これが予期せぬ事態なら、逃げられる最後のチャンスかもしれないのに……どうして足が動かないんだろう。

 そこでようやく、気づいてしまったのだ。
 この部屋から出たいと思ったことはあっても、元の家に戻りたいと願ったことは一度も無かったことに。

 元の生活に戻ったら、私はまた母親に怯えて暮らさなければいけない。独立したくても、給料は母親に取り上げられていたから、全く元手がないも同然だった。それに、職場は欠勤続きでとっくに解雇されているはずで、ここを出た途端に本当の意味で私はひとりぼっちになってしまう。家に戻ったところで生活が安定する保証はどこにもないことは、あの夢で嫌というほど思い知らされた。
 マスターに固執されることよりも、元の世界に戻ることの方が……今は、怖い。

 ここから脱出できたとしても、私は何を取り戻すことができるんだろう―とても大事なことなのに、何も答えが出なかった。
 それは結局、選択肢が一つに絞られたも同然だった。

 誰もいない部屋の中、出来る限り声を張り上げる。おそらく一部始終をどこかで見ている、あの人に向かって。
 支離滅裂になりながらも、自分なりに言葉を一生懸命紡いだ。

「もう、逃げません。最初は知らない所に連れてこられて、凄く怖かったけど……ここにいる人たちは、みんな優しくしてくれた。現実とは違う。私を外から守ろうとしてくれていたのに、気づかなくてごめんなさい。悪いのは、逃げようとした私です。………私は、ずっとここにいたいです。すべてを受け入れます、マスター。私を地獄から救ってくれて、ありがとうございました」

 どこからともなく、沢山の笑い声が聞こえてくる。漣のように広がっていくその声は、たしかにあの子達のものだった。その場に立ち尽くしたままでいると、やがて一人の男性が音も無く、この部屋に足を踏み入れた。狐のお面で顔は隠れていたけれど、真っ直ぐに私を見据えているのが分かった。

 マスターだ。

 そう脳が理解した瞬間、私の目から涙が溢れだした。やっと会えた、どちらが先に発した言葉なのか、そんなことはどうでもよかった。淡く滲む視界の中、私の身体を包む温かい人肌が、見えない鎖のように私をこの部屋に縛り付けていく。
 彼の身体に纏う、重たい愛のような懐かしい香りは、何ていう名前の香水だったっけ……そんなことを思いながら、私はマスターの背中に腕を回した。
 私を理解してくれるのは、幸せにしてくれるのは、世界にたった一人、この人だけだと分かったから。

end