- ナノ -


5.育江と鬼-BE

「わあ、可愛いですね」
「ふふ、そうでしょう。なまえの指を、この子の目の前に出してごらんなさい」

 育江さんに言われるまま、人差し指を赤ちゃんの目の前に恐る恐る差し出す。すると、赤ちゃんは蕨餅みたいな柔らかい手で、ふにゃりと握り返してくれた。心のオアシスだ。
 一日の大半を孤独に過ごす私にとって、誰かとコミュニケーションを取ることは何よりも楽しみだった。
 もう一人の見張り役―鬼-BEは人間ではないけれど、いつも自動ドアの近くをふわふわと浮いている。たまにお菓子をお裾分けすると、嬉しそうにくるくると空中で回転した。

「この子が大きくなったら、親孝行な子になりそうですね」
「ふふ……この子が生きていることが、何よりの親孝行よ……でも、そんな風に優しい子に育ってくれるのなら、とても嬉しいわね。この子には幸せの風がずっと吹きますようにって、毎日願っているの」

 育江さんが赤ちゃんの頬を優しく撫でると、赤ちゃんはくすぐったそうに口元を緩ませた。
 陽だまりのように暖かい愛を浴びているこの子を見ていると、穏やかな気持ちになれる。こういうのを母性本能っていうのかな。

「私のお母さんは……どんな感じだったっけ」

 思わず言葉が出てしまって、慌てて口を噤む。育江さんはさして気にした様子もなく、ただ私をじっと見ている。私の次の言葉を待っているようだった。

 それなのに、私は……母の顔を、母と過ごした記憶を、思い出すことができなかった。

「え? あ、あれ……? どうしよう、育江さん、私、」
「大丈夫。大丈夫よ、なまえ」

 小さな子どもを落ち着かせるように、育江さんは優しい声で私を宥めた。
 ここに来る前、私はどこで生活していて、誰と暮らしていて、どんな交友関係を築いていたのか……記憶の入口を塞ぐ何かによって、思考がフリーズする。真っ白になった頭の中で、育江さんの声が木霊した。

「この部屋は貴女の命を守る、唯一の場所。危害を加えようとする人間は誰ひとりいないわ。苦しい過去と向き合う必要なんて、どこにもない……貴女がここにいる限り、永遠に」


 ―意識の外で、誰かの泣き声が聞こえる。ずっとずっと泣いている。
 うるさい、だまって、しずかにして―負の感情が増幅する。自分でも分かっているのに、どうしても止められない。
 すると、どこからか鬼火が無数に飛んできて、私を取り囲むと時計回りに動き始めた。不思議と熱くないその鬼火が肥大化していくのとは対照的に、爆発寸前だった感情はゆるやかに鎮まっていく。鬼火は回るスピードを弱めないまま、やがて上空にすうっと消えていった。 見慣れた天井をぼうっと見続けていると、視界をゆっくりと鬼-BEが横切って、心配そうに私の顔を覗き込んだ。


「……ごめんね、ありがとう」

 鬼-BEはふるふると首を横に振ると、慌てたように自動ドアへと戻っていった。育江さんは、「お茶にしましょうか。壱ノ妙を呼んできますね」と微笑んだ。育江さんの腕に抱かれた赤ちゃんに視線を移すと、幸せそうにぐっすりと眠っている。

「……育江さん、この子、さっきまで泣いてました?」
「いいえ、ずっと眠っていたけれど……」

 だとすると、あの泣き声は……ああ、嫌なことを思い出してしまった。
 これもマスターの作戦か、と毒づくと、育江さんは意味深に微笑んだ。

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