秋麗 / へしさに

開け放した障子の向こうに秋晴れの空を見た。咄嗟に、今日ならできる、と思った。何がなんだかわからないけれど、ただ、やっとこの日が来たと思った。何としてでも海に行かなければならないと思った。
畑に向かう用に出しっぱなしにしていたスニーカーをつっかけて、手合わせの音や短刀達が鬼ごっこをする声から逃げるように通用門に向かい、何かに追われるように本丸を出て、しばらく歩いて気がついた。今日は、海に沈める日。1人見上げた雲ひとつ無い遠い空と、さらりと服越しに撫でた冷気がたまらなく愛しかった。
数十分ほどただ急いで歩いた。脛の前側がひくりと痛んできた頃、とうとう海についた。久しぶりの海は青かった。目に染みるような青だった。人はあたし以外に誰もいない。あたしだけの海だった。
引っ張られるように砂浜から一歩、太陽のせいでちらちらと光る海の方へと足を踏み出した。同時に、ぬっと、黒い大きなかたまりが視界を覆った。驚いて避けようとしてつんのめったあたしを、それは慣れた様子で軽々と受け止めてみせた。
「はせべ?」
かたまりの腕のぬるさを感じながら名前を呼んだ。
「はい」
それはあたしを抱えたまま、律儀な返事をした。
「海に入られるんですか」
「うん」
「お風邪を召されますよ」
海藻やら潮やらの匂いが漂う中の長谷部の甘く涼し気な香りは酷くちぐはぐで、一瞬、ここがどこだかわからなくなった。未だ両肩を支える腕を押しのけて海へ向かった。長谷部は横にぴったりとくっついて、あたしと全く同じ速度で歩き出した。
海の音は殆ど規則的に、あたし達のあいだを吹き抜ける。
「どうしてここに来たの」
地平線を見据えて歩きながらあたしは尋ねた。
「今日だと思ったからです」
長谷部は当然のように答えた。足が止まる。あたしは長谷部の顔を見た。目が合う。細められた紫の瞳。いつも通りの胡散臭い微笑みだった。また、遠くに見える地平線を目指して歩き出す。
ずっと横についている長谷部が何だか急に鬱陶しく感じて、振り払うように歩くスピードを上げた。長谷部は横にぴったりとくっついて、歩く速度はそのままにあたしよりも大きい歩幅で歩き出した。意地が良くない。2人黙ったままで歩いた。
打ち寄せる波まであと数メートルになった時、長谷部が口を開いた。
「溺死は苦しいらしいですよ」
「そういうのじゃないから」
一際大きい波が浜に打ち寄せた。飛沫がいくらか、脚に飛んだ。
「どうしても、海に入りたいんですか」
「うん」
「どうしても」
「そうだよ」
「俺も一緒によろしいですか」
「なんで」
波が沢山の砂を攫っていった。1歩踏み出した足の下で、ぱきり、と貝の割れる音がした。
横目で様子を伺う。長谷部は海が嫌いだった。理由を訊いたことは無い。ただ、風呂は平気なくせに、海は嫌らしかった。だからこうして来たことが、実は随分不思議なことだった。
視界の端で、長谷部が刀の柄を強く握りしめたのが見えた。手袋と柄糸が擦れてぎち、と小さく軋んだ音が聞こえた。
少しの沈黙。意地の張り合い。
「好きにすれば」
重い口を渋々開けば長谷部は少し泣きそうな顔で、心底ほっとしたように笑った。何故だか無性に腹が立った。

つま先に波がかかる。海の冷たさが顔に立ち上った。いざ対面すると海は果てがなかった。知っているよりも、知っていたよりもうんと果てがなかった。どこまでも続く海と空に焦点を合わせる場所を見失って目眩がした。母なるそれらはあたしを絶対に包んでくれると確信した。拒絶されない安堵と少しの畏怖。同時に肺が何かで塞がれ潰されにじられるような気持ちが迫った。喉より下にうまく息が飲み込めなくなる。あたしはこの感覚をよく知っていた。このきもちの名前を知っていた。今日の海と空ならこのどうしようもない さみしさ を忘れさせてくれると信じていた。
あたしの気持ちを他所に無邪気に揺れる水面は、刀身を彷彿とさせた。美しい刀。美しい付喪神。どれだけ思い出を共にしてどれだけ仲良くしてどれだけ彼らと同じフリをしたところでこの気持ちが満たされることは決してない。同じ世界には立てず、同じ景色を見ることはできない。主と臣なんて言葉じゃ言い表せない、もっと根っからの、静かで、強かで、高潔で、明確な線引きだった。それが彼らの意図的なものでないと知っていても、退けようの無い線引きはどこまでも冷たかった。絶対的な孤独だった。あたしはそれに気付かないふりをして、ただ1人の人間として在るしかない。
海に沈めたら、空に溶けられたら。今日の青ならさせてくれる気がした。冷たい海と冷たい風が、この身体の境界を良い具合に消してくれる気がした。のに。
海も空も彼らも、きっとあたしがさみしいのだと言えば一も二もなく頷いて包んでくれるのだろう。でもそれは溝を深める行為でしかなくて、この虚しさはどこにもいく訳がなくて、彼らの鋭い優しさにかまけているうちに見ないふりをしたさみしさは肥大して。

半歩後ろから、長谷部の視線を感じた。あたしは、長谷部の方を向けなかった。
波に左足を差し出した。じゃれるようにまとわりついた水は靴を、靴下を、素足を刺した。海は今まで知っている中で一番冷たかった。冷たくて、気持ち悪かった。右足を踏み出そうかと考えた時には、左足は既に引っ込めてしまっていた。これ以上前には進めなかった。けれど下がる勇気もなかった。

大きな手がそっとあたしの腕を掴んだ。そのまま腕を引かれると、身体は呆気ないぐらいに引き戻された。背中越しに人のような温度を感じた。
「お身体が冷えますよ」
長谷部はそれだけ言うと、無遠慮に腕を引っ張ってさっさと海から遠ざけ、浜にあった岩に座らせ、左の靴と靴下を脱がせ、小綺麗な真っ白のハンカチであたしの足を拭うと、濡れた靴下をハンカチと一緒にスラックスのポケットに突っ込んで、靴を持って、気づけばあたしは長谷部におぶわれて、元きた道を戻っていた。準備していたような段取りだ、と広い背中の上で揺られながらぼんやりと考えた。
「...結局長谷部、海入らなかった」
「ええ、嫌いですから」

「どうでした」
話すことも見当たらずに小道の脇の名も知らぬ草を眺めながら運ばれていると、急に長谷部が口を開いた。表情を知ることができないまま答える。
「冷たかった、刀とおなじぐらい」
そうですか、とだけ返された。再び訪れる沈黙に、数週間前はあれだけ鬱陶しかった夏の虫たちの鳴き声が恋しくなった。長谷部が少し身じろいで、あたしを背負いなおした。
「主」
「なに」
「寂しいんですか」
「別に」
「寂しいんですね」
「そう見える?」

「ええ、とても」
背中にある姿なんて見えないくせによくも飄々と言う。分かっているなら訊くなと思った。寂しそうな人だと思われても惨めなだけで、嬉しいことはひとつもなかった。
「貴方は一人だ」
「しってる」
「一人だから、俺たちを置いていける。誰も連れずに。今日みたいに」
「でも、今だってこうして帰ってるじゃない」
「俺のおかげでしょう」
いつになくはっきりとした言葉に口を閉じる。否定も肯定もしたくなかった。
「さみしいもん同士かなぁ」
秋のぬるい風に晒された左足は、すっかり乾いているというのにまだ刺すような痛みが残っている気がした。



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