在る / へしさに

蛙が鳴いた。三回鳴いた。
それからぱっと、聞こえなくなった。

なんだってきっかけになり得る。
たまたま聞こえた誰かに宛てた一言だったり、庭の葉を照らした生ぬるい夕日の影だったり、ニュースサイトを気取ってまとめられてた適当な意見だったり、意識の狭間で見た微睡みだったり、お前の言葉の端に浮かんだ遠いおもいでの欠片だったり。
こころは簡単に、伝線したストッキングみたいにぢりぢり破られる。とめどなく、遠慮なく。ほつれていくのはいつだって突然だ。気が付いても止める術は無く、いやだいやだと喚きながら、皮の下で脈打つ柔らかく腐臭を帯びた肉をさらすことになる。
醜いのはいつだって私。そんなこと、とっくのとうに知っている。

「出てって」
まるで自分のものだみたいな顔して部屋に入ってきた長谷部を突っぱねた。間の悪いやつだといつも思う。
一人になりたかったから、執務室の環境から逃げてわざわざ自室に戻ったのに。剥きだしのこころの繊維に触れる空気が動くだけで、じくじくと痛みが疼く気がした。
長谷部は静止の言葉を一切聞こえないふりをして、床に座る私の横に腰をおろした。
目を睨む気にもなれなくて、まっすぐであろう藤色を見るのが怖くて、でも怯えを伝えるのは嫌で、ゆっくり強がるように背を向けた。
急になまあたたかな塊が両肩に触れる。びくりと震えると後ろから静かに、しかし強い力で包まれる。両肩に重みが落ちる。まさか触られるなんて考えていなくて、嫌だ離せと上体を捩れば抵抗を押さえつけるように、背中にゆっくり重みが乗った。ぴたりと肩から腕へ這わせながら降りた長谷部の両手が私の手をそれぞれ掴んで、甲からぎゅうと握る。後ろから抱きこまれれば圧迫感に息が詰まった。
嫌がらなきゃいけない。そう感じると同時に、背中に乗った重みが増した。柔らかいくせっけが目元を撫でる。頬に流れたかもしれないこころの血痕を見られたくなくて顔を伏せれば、同じだけ、数センチ分だけ頬が寄せられた。

「主」
「離れて」
「大丈夫」
「今すぐ出てって」
「大丈夫ですから」
「だから」

大丈夫じゃない。大丈夫なはずがない。そもそも全部お前のせいだ。私がここまでいらない涙を目に溜めて、いらない心配をして、いらない幸せを願って、いらない気持ちを感じてるのは全部全部お前のせいで、だからお前がいたところで何も解決しない。


付喪神が歴史あってこその存在だなんて馬鹿でもわかる。だからその歴史を否定するのは彼らの存在を否定することだっていうのも、過去があっての今があるなんて私含め万物共通であることも、過去を手にすることはできないということも。
付喪神は人間より如実に、過去に基づいて出来上がる。物の意識。歴史の意識。彼らの存在は過去の存在。
お前の中の「主」が私だけになればいいと何度も思った。子供みたいな独占欲だ。過去も全部私のものになればいい。全部全部、死すらも私の影響だけを受けていればいい。こころがだめなら形だけでも。例えばお前の歯が私の骨からできればいいし、お前の涙は私の唾液になればいいし、お前の腹を割いて臓器を全部私の血で洗えたらいい。
私のものにならないのなら。
お前の口から「主」の名前が出るたび、存在を感じるたび、人知れず欲を募らせた。何度願ったかわからない、でも願うだけでいつも終わる仕方ないことを幾度も考えた。

限界まで積み上げられたそれは、爪先で触れただけで簡単に崩れる。
何気ない日常。執務室。
頭は真っ白で真っ赤で、どんな光景だったかろくに覚えてはいない。長谷部は驚いていたのかもしれないし、悲しそうに眉を下げていたのかもしれない。記憶は見事にピンボケしていて、その表情は測れなかった。
何がきっかけだったのかもわからない、覚えていない。それだけ些細な、でも限界を超えるには十分な一言。前の主の存在か、前の前の主のことか。恐らく後者。
覚えているのはただひたすら叫んだことだけだ。気狂いみたいに、何度も。
「折れてしまえ」と、自ら喉を裂くように、何度も何度も叫んだことだけ。妙にざらざらしている喉が今もそれを証明してくれている。

折れろ。今ここで折れろ。折ってやる。死んでしまえ。

繰り返したフレーズが、私を置いてぐるぐる回る。眉間のあたりに痛みが走る。胃のあたりから液体が、食道目掛けてじわりと滲む。見つめていた畳の目が虹色にばちばちとはじけだす。
独りよがりが成したその言葉が本当は誰に向けられていたのか、そんなこと、とっくのとうに知っている気がした。醜いのはいつだって、

途端。
首筋がごり、と音を立てた。
遅れて喉に、ゴム球が潰されたような抑圧感と鈍く刺されたような痛さ。
背筋を冷たい空気が駆け抜ける。訳もなく涙が膜を張った。
壊れたロボットのようにぎこちなく痛みの方を向けば、私の首から口を離して楽しそうに笑う長谷部と目が合った。

「やっと見た」

一瞬きゅうと目を細めて笑った長谷部は、口元に笑みを浮かべたまま再度首に顔を近づける。思わず身構え、力んでしまう。

「そうすると筋が浮かびますよ」

力の抜き方なんて分からない。あからさまに視線が泳いだことを感じていると、長谷部は吐息交じりに笑いながら表面に歯を立てるだけの甘噛みをして頭を離した。

「殺されるって思ったでしょう」
「……うん」

素直に返事をするとはは、と声を上げて笑われた。いつにも増してよく笑う。今まで、どれだけ褒めてもどうにかこらえていた様子だったのに。

「主、俺ね、嬉しいですよ」

胴体を挟むようにしていて置かれていた脚が締まる。
肩に顔を置かれて、そっと避けようとすれば顎でぐり、と骨をえぐられた。痛さに顔をしかめれば、満足気な顔で抱え直される。

「俺がいます、大丈夫」
「いないよ」
「いいえ、います。あなたの長谷部はここに」
「違う」
「どうして認めないんです? 怖いんですか」
「違うってば」
「怖いんですね」
「嫌だ」
「我儘だなぁ、あなたを救えるのは俺だけですよ」
「やめて」
「主が今そうして欲しがってるもの、全部俺が持ってるから」

横目で長谷部を見た。長谷部も私を見て、楽しそうに、歌うように悠々と続ける。

「必要なものも、全部」
「……」
「全てが大丈夫になります」

少しの沈黙と同時に、彼はようやく今日初めて、自信なさげに目を伏せた。

「だから、どうか、」
ぎゅぅと指の股を通された骨ばった指の先が手のひらに食い込んだことで、初めて長谷部が素手であったことを知った。

「あなたは俺の主だ、そうでしょう?」

あぁ。本当に求めていたのは、私ではなく、




長谷部の言葉に笑えば、彼は繰り返し小さく、主と叫ぶ。
みみたぶを擽って、幾度となく告げられる一文字一文字の熱が、肋骨の向こうに伝導していく。
つられて身体の力を抜いていくと、引き留めるように唇が合わせられた。私のそれで食んで応えれば彼は泣きそうな顔をしてゆっくり息を零し、甘やかな生殺与奪は続く。

私より一回り大きな手に握られた両手は白く色を変え、そっと包むように触れられた今もじんじんと痺れを残していた。






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