そろそろ明日を迎えに行こうか


今日は多分、朝から調子が悪かった。

テスト期間が近づいていることもあって、夜更かしする日が続いていた。お腹は空くのにどうにも食欲が湧かなくて、いつもより適当に食事を済ませていた。何かに没頭していないと思考のほとんどをもっていかれそうで、普段以上に机に向かうことも増えていた。

ずっと考えることをやめられなかった。というより、やめてはいけないと思った。それはいっそ自虐的な独り善がりかもしれないけれど、実際思考を放棄して逃げたところで現状はいつまでも変わらない。
誠実に向き合ってくれる彼に対し、私の一方的な理由でいい加減な対応を取りたくはない。どんな答えをするにしても、図書館で吐いたような、卑怯な逃げはもう口にしたくなかった。

でも体は着実に根を上げつつあったらしい。自分ではまだいけると思っていたのだが、騙し騙し保たせていた体はやってきた生理によってトドメを刺された。
元々DNAレベルで血が足りない体質(つまりは単なる貧血である)なのも災いして、三限終了後完全にノックアウトされた私は、友人に引き摺られて保健室送りになった。
そこからの記憶が、どうもあやふやで仕方がない。





低く優しい声がする。

纏わりつくような暑さと重さに息が苦しくなる。身体が思うように動かない。
誰か。吸って吐く、それだけのことに恐ろしく体力を削られる錯覚。触れた先の優しい温度に縋り付いた。
耳元で呼ばれている。誰か。お願い。息ができない、


「名字さん、」


声が意味を持って脳に届いた瞬間、飛び起きた意識が閉じた目蓋をこじ開けた。

「っ…!?」

目元を覆う肌色。誰の。状況把握が追い付かなくてパニックになりそうになる。
けれど頬から頭へすべってゆく大きな手のぬくもりに、跳ね起きそうになった全身の緊張は吸い取られるように和らいだ。―――そうだ、私、保健室に。

酷く優しい手つきで髪を梳かれる。制服の手首が視界からズレて、天井の蛍光灯の眩しい光が一気に目を焼いた。
思わず固く瞑り直した瞼の向こうで、再び頭を撫でようとしてくれた手が動きを止めるのが分かった。

「あ…」

もう少し。くすぐるように耳裏へ髪をかけてくれる指先が名残惜しくて、思わず声が漏れる。
晴れた視界の向こう側で、軽いクセのある猫っ毛の下、軽く見開かれた理知的な瞳と目が合った。

赤葦くん。

「す、みません。その」

わずかに焦った声がしどろもどろに言葉を探す。私も私でびっくりし過ぎて声が出なかった。
どうして赤葦くんがここに。というかなんで私は、…ああ、確か貧血で。
浮かぶ疑問は一つも言葉にならないまま、私は呆然と枕元に座る彼を見上げた。

「昼に教室に行ったら、マネに保健室にいるって聞いて、それで…」

涼しげで落ち着いた瞳が焦ったような色を浮かべて、どこか慌ててベッドの上を泳ぐ。離れた手が途方に暮れたように宙をさまようのが見え、魘されたのは布団の重みと暑さのせいだったのだと気付いた。
不思議だ。赤葦くんはいつも涼しい顔をしていて、困ってばかりいるのは私の方だったはずなのに。

不意に、今何時だとか、なぜ彼が枕元にいるのかとか、そんなことの答えを探すより早く何かがすとんと心に落ちた。

なんだ。赤葦くんも、こんな顔するんだ。

「…私、赤葦くんの前で寝てばっかりだ」
「!」

大きく見開かれる瞳になおさら無性に可笑しくなって笑ってしまう。突然喉が腫れあがったように痛くなって酷い声になった。

知らなかった。私は彼がいつも冷静沈着で大人びていて、人の心を呆気なく見透かしてしまうと半ば本気で信じていた。そんな彼が少し羨ましくて、けれど酷く苦手だった。
実のところ赤葦くんは人より少し、いやかなり落ち着いていて、二年生で副主将を任されてしまうようなしっかり者で、努力家で、実はかなり負けず嫌いで、―――けれど初めから、一つ下の男子高校生でしかなかったのに。

ばかだなあ、私。
どうしてこんなに視界が狭くて、器が小さくて臆病なんだろう。

「…名字さん、俺」

淡々とした声音に滲む緊張が、今なら確かに感じられる。
名前を呼ばれて強張る肩はいつも通りなのに、あの粟立つような恐怖や冷たい緊張は襲ってこなかった。

「待ち直したくて、…それを言いたくて来ました」

手の中に握っているのは彼の長い指だった。セッターの大切な指。悪夢を見ていたのかもしれない私が縋り付いたのを、きっとそのままにしてくれたのだ。
あんな卑怯な逃げ方をした私を、このひとは振り払わなかった。

「…名字さんが彼氏と別れてたって聞いて、正直、チャンスだって思いました。俺のことが苦手だってのは薄々わかってたんスけど、三か月の空白があれば、振り向いてもらえるかもしれないって。
もちろん待つつもりでした。けど、…アンタを前にすると余裕なくて」

絡まった指に力が籠められる。微かな震えが伝わってくる。思わず握り返して応えたくなるのを堪えた。私にはまだその資格がないように思えた。

指先を触れ合わせるだけでこんなに伝わる感情に、私は今の今まで盲目だった。深く知りもしないうちに、勝手に作り上げたイメージで彼を測りだしていた。

「名字さんの気持ちを考えずに、俺の一方的な感情で返事を迫りました。すみませんでした。でも、図書館で言ったことは全部本音です。だから、」


―――名字さんも俺を見てください。

俺を避けずに、見て、話して、どんな人間なのか、あなたの目で確かめて下さい。
知らないまま切り捨てないでください。


「もう一度、待ち直させてもらえませんか」


きっと何度も傷つけた。なのに彼はそれを態度にも表情にも一つも見せず、何事もなかったように接し続けてくれた。私なら、それが私なら、どんな思いがしただろう。
似たような痛みは十分味わってきたはずなのに、どうして他人の痛みにはこんなに鈍感になれるのだろう。

「…名字さん?」

視界が霞む。喉の奥が熱い。目の奥が痛くて息が苦しくなる。
もうずっと、ずっと前から、私は彼を傷つけてきた。なのに、彼はまだ待ちたいと言ってくれる。

恋愛なんてもう十分だと思っていた。正直今だってそう思う。
けれど、何の落ち度もないこの人の誠実さを、向けられた想いを、私の勝手な一存で無碍にしたくない。そんな卑怯なことはもうやめたい。

「名字さ…」
「ごめんね」
「っ、」

嗚咽が漏れる。限界だった。堪えた涙が堰を切ったように溢れて、あとはもうただ流れるしかなくなった。体調不良で弱っていると言っても、笑ったり泣いたり情緒不安定にも程がある。

骨ばった指に縋って、祈るように大きな手の甲に額を押し当てて、震える息を吐き出した。行き場なくさまよっていたはずの彼の片手が、躊躇うように私の肩を包む。その優しいぬくもりが痛くて苦しくなるのを、無理やり開いて言葉を探した。

「もうずっと、酷いことしてたのに。ずっと待ってもらって、知ろうともしないまま、勝手に思い込んで、傷つけてばっかりで」

きつく目を瞑っても溢れる涙が、彼の手を濡らしてゆく。
頭でまとまる前に出てゆく言葉のつたなさに嫌になる。それでも今伝える全てが真実だった。

「話せばこんなに伝わるのに、私、逃げてばっかだ。赤葦くんは、っ、ずっと真っ直ぐ、向き合ってくれてたのに。ごめんね私、ホント卑怯で、今も卑怯で、」

本当は、本当は、もう待たなくていいよって言える勇気があればどんなにいいだろう。
待つと言ってくれるこのひとの優しさにこれ以上甘えずに済んだら、どんなに。


「待たなくていいって言えなくて、ごめんね、」


息を飲む音がして、一拍おいた次の瞬間、何かが覆い被さる気配がした。

肩に置かれていた手が動き、布団の中に入って私の肩を抱いた。反応する間もなく身体を起こされ、布団が肩口からずり落ちる。そのまま指が解かれ、長い腕が背に回されて、息が詰まるほどきつく抱きすくめられた。

「あか、」
「すみません、今だけ」
「っ」

今だけですから。切羽詰まった、それでいて懇願するような短い言葉。耳元でくぐもる彼の声を拾った刹那、体がぴたりと動きを止めた。触れ合う胸から、背から、じわりと滲んで伝わる温度。心臓が痛いほど脈打つのがわかる。

迷って迷って、中途半端に浮いたままだった両腕をやっとの思いで彼の腰に添えると、一瞬跳ねた彼の腕にますます強く抱き締められた。
耳元に落ちる、押し殺していたものをゆっくり吐き出すような深い溜息で沈黙が霧散する。それに伴って、彼の体から緊張が解けるのがわかった。

「…好きです」
「え、あ、はい」
「待てるだけでこんなに嬉しいとか…あーもう有り得ない…」
「い、あの、ご、ごめん…」
「じゃあずっとこうしてていいですか」
「エッ、それはちょっと、心拍停止になりかねないのであの、」
「……ああもういいです黙っててください」
「ええええ理不尽…!」

赤葦くんが耳元に鼻先を埋めて拗ねたように言う。甘えるような仕草と強く香るシャンプーの匂いに、一周回って心筋梗塞になりそうな予感がする。いや頭がショートする方が先か。どっちにしろ死ぬしかない。

「もうしないんで、今日だけ」

そっと腕を解いて私を放した彼は、屈みこむように顔を寄せて言うと、涙で酷いことになっているであろう私の目元を酷く優しく拭ってくれる。
そうして私の髪を掬うと、彼は目の前でそれに口づけた。

「!?」

上目遣いにこちらを伺った彼が、言葉もなく凍り付いた私を見て優しく微笑む。その瞳が帯びる甘い色とぞくりとするような色気に当てられ、全身の血が沸騰する気がした。

コレする人現実に存在したのかとか、どんな気障なんだとか、そんな気障が似合うってこのひと一体何なんだとか、怒涛のように溢れた言葉は結局一つも言葉にならず。

「名字さん、」
「頼むからそんな甘ったるい声で呼ばないでくれないかな…!」
「え、イヤです」
「……っ」
「っくく、」

思わず睨み付けようとして顔を上げた先、けれど赤葦くんが酷く嬉しそうな淡い笑みを浮かべるものだから、私は思わず言葉を失う。

これは私とんでもないライフカードを引き抜いたんじゃなかろうか。これじゃ結局明日からもどんな顔して会えばいいかわからない毎日が続くじゃないか。私は結局何も言えないまま、真っ赤であろう顔で頭を抱えた。

141106
少し前進。
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