潮騒と君と夕涼み


「あ、名前。今日も見てくのー?」
「ホントだ、名前ちゃーん!」

ゆったり間延びした声に続き、もう一人のマネさんからも言葉をかけられて、やや照れくさくなりながら手を振って応じる。
赤葦くんに告白されて以来1ヶ月、そこからさらに少し経った今、私は体育館に足を運ぶ習慣を再開しつつあった。

「最近また来てくれるようになったよね。忙しかったり?」
「あー、うん、ちょっとバタバタしてた」
「そっか、もう大丈夫なの?」
「う、ん。そうだな、大丈夫」

屈託なく尋ねてくれるそばかすの可愛い彼女に、やや詰まりつつ頷く。完全に大丈夫、というわけではない。
なんせ一ヶ月もの間遠回りと迂回を繰り返し、進んだというよりスタートラインに立ったばかりというのが現状だ。むしろここからが正念場と言える。

「今日は一緒に帰れる?」
「うん。なんか手伝い要る?」
「大丈夫、今日は普通の練習だし。それより赤葦のことちゃんと見てってよね」
「うん、今日はほとんどそのために来たから」
「え」

飛んできた感嘆音は目の前でにやっと笑った友人のものではなかった。振り向いた先にはタオルを手に突っ立つ猫っ毛のセッター。普段は気怠げな半眼が大きく見開かれ、私を見下ろしている。ついでに友人もぽかんとして私を見ていた。何を思うより早く体が動いて、私は彼に軽く頭を下げる。

「あっと、お邪魔します」
「え、あ、…はい」

彼には珍しい泳ぐ視線と煮え切らない返答に首を傾げつつ、元気よく体育館に駆け込んでゆく一年生を追う形で入り口付近に靴を揃える。
赤葦くんとはあの保健室の帰り、連絡先を交換した。最近では二日に一回のペースで、ぽつぽつと続くやり取りをおやすみの一言まで続ける日々が続いている。
バレー部にお邪魔するのを再開してから二週間ほど。何度か帰り道を一緒に歩いた時には、私は彼と他愛もない話を出来るようになった。歩幅を合わせてくれる優しさ、人一人分の間を挟み並んで歩き、何でもない会話をするその慣れないくすぐったさが、私は決して嫌いじゃない。

もっと赤葦くんを知らなければ。今日ここを訪れたのはそのためだ。
体育館は神聖不可侵。昔から胸にあるその信条に則り、一礼してから足を踏み入れるのは初めてここに来た時と何ら変わりない。

「お!?ヘイヘイヘーイ!名字じゃねーか!」
「うん、お邪魔します」
「おう!俺の格好いいところ見てけよな!」
「おお、楽しみにしてる」

彼の笑みは変わらず眩しい。けれど何のてらいもなく無条件で相手を受け入れるその笑顔を、息苦しく感じることはなかった。





「ちょっと赤葦っ、アレどういうことなの!?何、ついに付き合ったり!?」
「は、…いえ。そんな話は全く」
「え?何?わかんないけど落ち着きなって、赤葦ショートしそう」
「落ち着けないって、だって今の完全に赤葦のために来た、みたいな」

言い方。

言いかけて見上げた先、マネ二人は言葉を止めた。
引き結んだ唇をむずむずさせ、俯いた剥がれかけの無表情をじわじわと赤く染めてゆく、頼れる二年の副主将。
普段の大人びた空気からは想像し難く、かつこれまで彼が見せたことのなかった反応に、事情を察したそばかすの彼女は目を丸くし、玲の友人である彼女は盛大に吹き出した。





「…赤葦くんって」
「、はい」
「綺麗だね」
「は?」

赤葦くんと二人だけになった帰り道、沈黙を埋めるように呟けば、隣を歩く彼が面食らった様子で私を見下すのがわかった。
並ぶ歩調は私のもの。脚の長い彼が歩幅を合わせてくれているのは一目瞭然だ。

久々にバレー部さんとご一緒した帰りがけ、一人曲がろうと差し掛かった曲がり角で、一緒に帰っていた友人は「赤葦、名前送ってってやってよ」と口にした。部活帰りで疲れてる子になんて無理を言うんだ(私のメンタル的にも無茶である)と声を上げれば、友人は赤葦くんに、「だってこっから名前んち結構歩くじゃん。もう暗いし危ないでしょ?ほら、赤葦の出番じゃない」などとのたまった。何が「ほら」だ、何が。
だが一瞬固まった赤葦くんがすぐに解凍し、まるで当然のように了承するものだから、私に選択肢はなかった。近くにいた木葉くんが何も言わずににやにや笑っていたのが居たたまれない。どうやら赤葦くんが私を好きだという話は、徐々にバレー部に浸透しつつあるらしい。何だそれ恥ずかしい。これが公開処刑か。

とは言え久しぶりにお邪魔して練習を見学したこと自体に後悔はない。もちろんこうして彼に送ってもらうのも、申し訳なく思うが決して嫌なわけではない。

「プレーを見てて思ったんだけど、すごく綺麗だった。こう、すって伸びた指が、柔らかく動く時とか、目線とか。この人バレー好きなんだなって実感した」
「それは……ありがとうございます」
「あの木兎くんだって、赤葦くんのトスが無いとスパイクが打てないんだよね。それって何か、素敵だ」

綺麗だった。
あの日、夕陽を見て漠然と零した心からの感想をなぞるように思う。天才という存在を語るならきっと木兎くんの名が一番に挙げられるのだろうけれど、彼の輝くような力強い躍動と圧倒的な存在感は、赤葦くんのものとはまた質が違う。

セッター。ボールを、チームをセットするポジション。それがバレーにおいてどんな存在なのか、半端な知識で語りたくはない。
ただ、弓なりに上がったボールを狙ってすっと宙に伸びる、その長く綺麗な指、空へ注がれる真っ直ぐな眼差しに目を奪われる。三色のボールにふれる刹那、柔らかく弾んだ指先がボールを送り出すその繊細な一瞬に、心を奪われる。

木兎くんが動なら、赤葦くんは間違いなく静だ。けれど、秘めた熱は、視線の先は、彼ら二人のみならずチーム全員皆同じだ。その一体感は周りにいる人まで高揚させる。

彼が普段表に出さない熱情はどんな瞬間に姿を現すのだろう。その時彼はどんな顔をして、どんな声で何を口にするのだろう。
赤葦くんのプレーは驚くほど静かで、けれど薄く発露される確かな覇気が、その静寂の下に息づく秘められた熱を物語る。

魅了される。真っ直ぐ目を向けようと決めたその時から、私の中の赤葦京治という人は刻一刻と更新され続けてゆく。
それは少しの緊張感を、それに勝る言いようのない期待と喜びを運んでくることに、私はつい最近気付いたばかりだ。

「今日は最初に、最後まで赤葦くんのこと見るって決めててさ。そしたらホントに、私赤葦くん個人をクローズアップしたの初めてなんだなって思って。や、まだ全然わかってないし理解も出来てないんだと思うけど、でも新鮮だった。格好良かった」
「…そうですか」
「うん。…」

頷く。沈黙。赤葦くんの反応の薄さに気まずさがむくむく頭をもたげてくる。
何かヘマっただろうか。喋りすぎたとか?それか今更馴れ馴れしく話しかけてくんな的な?…それ一番あり得るぞ。
アスファルトを睨みつけながら真っ青になった。うわだめだ、下手したら歩き方すら忘れそうだ。

深刻に恐怖しつつも、居たたまれなくて恐る恐る斜め上の赤葦くんを伺った。しかし彼の顔、正確にはその下半分は見えなかった。大きな右手が口元を隠し、その瞳は反対側の道路へ視線を投げている。

「…えーと、」
「はああ……」
「えっあのごめん、駄目なんだ私こういう、その」

盛大に溜め息を吐かれて謝り倒す。どうしたらいい、いつもそうなのだ。肝心な時に大事な人ほど考えていることがわからない。
男の子の感覚や思考の向きなんて特に私には未知の領域だ。前だって、…そう、前に付き合っていたあの人の時だって、そうだった。

思考が冷える。脳味噌を直に圧迫される錯覚。氷のような深海に沈むように、心臓がぎりりと軋んで、

「あんまり不用意に、期待させないでください」
「ごめん、その、…うん?」
「待つって言いましたけど、余裕があるわけじゃないし、だから」
「え、あの」
「…名字さんが結局振り向いてくれなかったらとか、いろいろ考えるんですよ。あーだから、…いや、名字さんは何も悪くなくて、単に俺が勝手に舞い上がりそうっていうか」
「…」
「あーくそ、超格好悪い…」

…困った。すごく困った。
私は一体、何から言えばいいんだ。

口元から目元を覆いに移った右手の下から、への字に曲げられた唇が見える。足を止めてうなだれる赤葦くんを見上げて、私は言葉になる間もなく怒濤のように溢れる感情を両手一杯に握り締めた。

柔らかい黒髪から覗く耳が朱い。末っ子主将と名高い木兎くんを前にあれほど冷静な赤葦くんが、苛立ち紛れの弱った声を出している。目は合わせてくれないし何時になくよく喋るし、…困った。私、このひとにこんな好かれてるのか。振り向いてくれなかったらだなんて、思ってもらってるのか。

その実感がどうしようもなく心を満たすのに、どうしてこんなに言葉が不自由で、どうしてこんなに私は臆病なんだろう。
このひとのことを好きになる気がする、そんな予感はもうずっと前から確信に、そしてゆっくり事実へと変わりつつあるのに。

「あー、その…」
「…何ですか」
「…ゴメンナサイ。アリガトウゴザイマス」
「何でカタコトですか。ていうかどういう意味ですか」
「……もう十分振り向かされているといいますか」
「…は?」

違う、こんな誤魔化した物言いじゃ駄目だ。お約束みたいな綺麗な答えにしなくていい、誠実に向き合え。思ったことをきちんと伝えるんだ。

「…流れとか勢いじゃなくて、こう、ちゃんと向き合っていろいろ考えたいんだ。だから、もう少しだけこの距離でいてもらえたらと、思う。それと、」

もう十分惹かれてますというか。

赤葦くんの足が止まる。つられて私も立ち止まる。夕闇に染まる紫紺の空を背に、そっと伺い見た彼は、酷く真剣な瞳で私を見下ろしていた。

「……期待しますけど、俺」

静かな声音が言う。ひっそりと息を潜める黄昏時の過ぎた住宅街に、薄氷のような緊張感が張る音を聞いた気がした。
胸の下で暴れる心臓を押さえつける。喉が詰まる。やっとのことで頷けば、彼が一歩距離を詰めてきた。ふわり、香るシトラスの匂い、…近い。

「取り消すなら今ですよ」

試すような眼差しに首を振る。全てを見透かすような凪いだ瞳の奥に、あの日と同じ甘い熱が見え隠れして息苦しい。耐えきれずに視線を逸らす。

「…じゃあ、ご褒美ください」
「…。んっ?」

このシリアス最高峰の空気を叩き割る大変可愛らしい台詞が聞こえたのは気のせいだろうか。否、彼は至って真剣なままだ。…ただ距離が。明らかなるパーソナルスペースの侵略。

「ち、近…」
「待ちぼうけ食らってる俺に、アメ、下さいよ」
「待、…すみません…」
「いいっすから。待つって言ったの俺ですし。だから、ご褒美」
「や、でも何も持ってな」

言いかけて言葉が止まる。掴まれた腕。迫る夕闇。風が強く吹いて乱れた髪を、もう片方の大きな手、その温かな指先に繊細に整えられる。
薄闇の中、ぞくりとするような色気を醸す赤葦くんの眼差しに捕らわれ、身動きが取れない。

屈み込んで来た彼がくいっと首を傾げるのがわかってとっさに目を瞑る。強くなる彼の匂い、髪を梳かれて露わにされた耳裏に柔らかいものが触れる感触。

「…あの日、今日だけって言いましたけど、一回すると欲が出るっていうか」

ちゅ、と音がして、そのまま直に流し込まれる低音が、秘めた甘さを醸して聴覚を支配する。顔が燃えるように熱い。
長い指が惜しむように私の頭の輪郭をたどり、親指に唇をなぞられる。もう一度、次は頬の傍に口づけられ、背筋が粟立った。
そっと離れてゆく温度、目を開けられない私の前で彼は、次には確信犯的な台詞を紡ぐのだ。

「やっぱり足りない。名前さんが欲しい」

間違いない。このひとは多分、この心臓を締め付けるような緊張と幸福で、私をじわじわと殺す気なのだ。

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