気づいた頃には終わってた

このまま一年が過ぎて、卒業して、何かの機会にクラス会でも開いたそこで、笑って普通に話せるようになれたらいい。本気でそう思っていた。

私のささやかな願いは自分に甘いトンデモ長期日程であり、間違いなく彼に対する未練を隠し持っていた。けれどそれが私の導き出した最善の結論で、それ以外に望むことはなかったのに。

「―――、」

目一杯の虚勢を張っていた心臓が、呆気なくぐしゃりと握り潰される音を聞いた。

「!…あーっと…帰り?」

放課後、帰り支度を済ませて鞄を肩にかけ、教室に残る友人たちに手を降り、いつもどおり何気なくドアを引いた。ただそれだけだった。なのに、全く同じタイミングにドアを引いたのは、当分顔を合わせたくない、それが故に彼の存在する空間では徹底して自分を空気にしてきた相手だった。

「…う、ん」
「…そか」

辛うじて応じる。大丈夫、教室の友人たちは事情を知らない。マネの友人を含む数少ない親友だけにしか話していない。この人と私は、単なるクラスメート同士だ。

軋む胸に繰り返し言い聞かせる。心臓が冷たく脈打って、走馬灯のように駆け巡る記憶が、私を惨めと嘲笑う。息を吸う音がした。聞きたくない。この人の声を聞きたくない。

「……あのさ、」
「じゃあ」

遮った。無理矢理踏み出し、擦れ違う。掠める制服、感じる体温。気づけば体の芯が冷え切っていた。
自分の足取りが軽いのか重いのかよくわからない。真っ直ぐ歩けている気がしない。
敗北感、屈辱、羞恥、無価値感の濁流になすすべも無く襲われて、神経が焼き切れるような錯覚がする。

背筋を伸ばして真っ直ぐ歩いて、角を曲がって踊場に差し掛かった瞬間、張り詰めていた全てを切った。弾かれたように走り出し、飛ぶように階段を駆け下りた。

全て忘れてしまえたらどんなにいいだろう。なかったことにしてしまえたらどんなに簡単だろう。

走って走って図書室について、息も絶え絶えのまま一番奥の机の隅の席に鞄を下ろした。誰もいない。それを確認したら涙が出てきた。
意地でノートと教科書を出す。途方にくれて指が止まった。結局ぶるぶる震える手を体育服の鞄に突っ込んで、汗を拭くのに使ったタオルを引っ張り出す。机に伏せて目を閉じた。漏れ出る嗚咽を殺そうと、タオルの端を目一杯噛み締めた。

傷口が開く。塞がりかけては瘡蓋を剥がされ、やっと乾いては爪で引っかかれ、ゆっくりゆっくり消えない痕に変わってゆく。
こんなに立ち直りたいのに、こんなに前を向きたいのに、どうして私はこんなに弱い。

嫌いになったわけじゃなかった。失望したわけでもない。ただ終わったのだ、あの関係は。
それは思い出を綺麗なまま保たせる優しい結末であり、諦めをつけさせてくれない残酷な終焉でもあった。

きっとあの子が主人公なら彼はヒーローで、私は物語の半ばでフェードアウトする惨めな噛ませ犬。
思い出すたび焼け付くような苦しさが襲うことに、私は疲れきっていた。







ふ、と目を覚ました時、自分が眠り込んでいたことに気づいた。
まだ眠い。もう少し寝ていたい。腕に顔を埋めたまま、ぼんやりしながら英語のノートを眺めた。
窓から淡く差し込む夕方の薄闇が美しい。日が暮れている…下校時間は。ぼんやり思って、そして不意に気づいた。
肩に何かかけられている。

「…?」

体を起こす。ずるり、滑り落ちようとしたそれを掴んで見た。ジャージ。黒と白の、見覚えのあるデザイン。

「起きましたか」
「っ!?」

余りに吃驚しすぎて声も出なかった。がたん、盛大に体が跳ね、足がぶつかり机が音を立てる。がばりと体を捻ったそこには、一つ飛ばして隣の席に腰掛ける人影があった。―――赤葦くん。

「…なんで、」
「帰りにマネが下駄箱を見て、名字さんがまだ学校にいるとわかりました。マネは用事があるらしくて、…木兎さんが、俺に名字さんを送るよう言いました」

おい木兎何てことをしてくれた。思わず内心呼び捨てながら、私は完全に顔が強張るのを隠せなかった。
そもそもこの時期は十分明るい。私に送りなど無用だし、厳しい練習を終えた彼に負担をかけたくない。何より今の私は彼とタイマンを張れるような精神状態じゃない。

「これ…ジャージ、ありがとう」
「いえ」

手の中で持て余していた大きなジャージを差し出す。伸びて来た綺麗な手に運ばれてゆくそれを目で見送り、居たたまれずに俯いた。片付けなければ。もう図書館も閉まる。
横から突き刺さる視線から逃げながら思っていれば、不意に彼が前を向き、私から視線を外すのがわかった。

「……名字さんは」
「、」
「俺が嫌いですか」
「!」

肩が揺れた。思わず彼を見た。何を考えているのか少しも読み取れない、眠たげで、けれど静かに凪いだ横顔。平淡な声に滲む温度の意味はやはり私にはわからない。
言葉に迷う。それ以前に自分の感情がどこを向いているのかもわからないのに、何を言えばいいのだろう。
―――いや、今はただ質問に答えよう。沈黙の期限が切れ肯定に変わる前に。

「…嫌いじゃないよ」
「でも、苦手ですよね」
「……うん」

素直な返答だった。私は彼が苦手だ。だが嫌いなわけじゃない。
冷静沈着、知的で礼儀正しく、言葉数は少ないが発言は的を得ている。手のかかる主将に振り回されつつも、巧みに手綱を引き自分のペースを守る器用さもある。ドライに見えて予想以上に負けず嫌いで、バレーに対しては素人目から見てもストイックだ。
苦手でも完全に接触を断っていたわけではない。若干17歳で、実によく出来た人だと思う。

けれど私は、だからこそと言うべきか、彼に親しみやすさを感じることが出来ない。
彼の沈黙に促され、私は途方に暮れそうになりながら言葉を探した。「私は…赤葦くんが何を考えているのか、ほとんど読み取れない。それに、赤葦くんは後輩と思えないほど落ち着いてて、冷静で、だからすごく…萎縮する」

彼の年不相応な落ち着きがもたらす、居心地の悪さと誤魔化せない劣等感。出来た人を前にするといつも、相手にそんな気は一切ないはずなのに、自分が価値が低くて取るに足らない存在に思えてしまう。
謙虚なんて綺麗な言葉をとうに通り越した卑屈な自己否定。自分に対する自信と信用の欠落は、それ自体が私の欠陥だ。

赤葦くんの観察眼の鋭さは他の人のそれに遥かに勝る。けれど綺麗な顔立ちとやや眠たげでアンニュイな表情は感情を読ませず、何を考えているのか殆どわからない。相手にどう思われているのか、相手が何を思っているのか、私はそれを人並み以上に気にするきらいがある。他人に対し臆病で閉鎖的な私にとって、目に見えて「出来る人」であり、その上わかりづらいタイプでもある彼はドンピシャで苦手だった。

気怠げに見えて静かに凪いだ双眸は全てを見透かし、心の奥底に隠した醜さや汚さを容易く暴いてしまう。そんな被害妄想じみた話なんて考えすぎだと思うのに、私は決まって逃げ出したくなるのだ。


そんなあれやこれやをなるべくオブラードに包んで、慎重に曖昧に、短く満遍なく語った私は、酷い心労を感じて口を噤んだ。
本当ならこんな情けなく失礼な話はしたくない。そう思いながらも、つい先程古傷を抉られ、既にくたくたになっていた心には、苛立ちを孕む余裕もないらしかった。その心の狭量さが尚更、私を惨めにさせる。

しばし落ちた静寂を破ったのは、彼の小さなため息だった。

「…俺、そんな大層な人間じゃないですよ」
「いや、私からすれば、十分大層と言いますか…」

淡々とした、しかしやや拗ねたようにも聞こえる声音で返され、私は返答に窮する。そもそもここで納得できれば初めから苦手になんかならないという話である。

「だから、うん、…いや、だからじゃないかもだけど、……赤葦くんには、私みたいなのじゃなくて、もっと素直で可愛い子が似合うと思う」

彼がこちらを見るのがわかった。私は頑なに窓の向こうの電灯を見詰めた。
我ながら狡い返事だと思う。それでも察して欲しいと願う私の弱さを許してほしい。聡い彼なら、きっと拾ってくれる。

そんな私の狡い読みは外れていなかった。だが彼は決して、私が望んだ展開にはしなかった。


「似合うとか似合わないとか、そんな話で俺の気持ちを測らないで下さい」


体の右側に感じる感情の発露。ああもしかしてこれは地雷だったかもしれない。一抹の怒りすら滲む真っ直ぐな視線に、もはや顔を逸らしているのも辛くなる。
耐えかねて目を合わせた。痛いほど突き刺さる視線で眼球が焦げ付きそうになった。

「名字さんが望むなら、俺はもっと自分の考えを口に出します。表情が余り変わらない分、あなたを不安にさせないよう努力します。
だから、名字さんも俺を見て下さい。俺を避けずに、見て、話して、どんな人間なのか、あなたの目で確かめて下さい。知らないまま切り捨てないで下さい」

正論だ。誠実な言葉だ。真剣な声音が彼の心根を語る。彼は本当に私に向き合ってくれようとしている。
私がそれに応えるのが筋なのは明白だ。そして――――だからこそ、息が出来ない。

向き合わないと。逃げ出したい。向き合わないと。耳を塞ぎたい。
追い詰められた心が思い出したように、やり場の無い苛立ちを沸々と呼び覚まし始める。
何一つ悪くない彼を責めて楽になりたがる自分を力ずくでねじ伏せる。頼むからそんな非道い真似だけは起こしてくれるな。

それでも彼の想いが真っ直ぐであれば真っ直ぐであるほど、卑怯な言葉で躱そうとする臆病な私の首は締め上げられてゆく。

「それで好きになれないと言うなら、…そのときは諦めます。あなたが望むなら、」

優しい声。甘い眼差し。繋いだ手の感触。
今となっては全て幻想だ。幸せな記憶は心臓に爪痕をつける枷と成り果てた。

私はそこから抜け出せない。一日も早く抜け出したい。好きになるのも飽きられるのも惨めさも、堪え忍ぶことも虚勢を張るのももう全て十分だ。

言葉と思いが繋がろうとする。―――だめだ、黙るんだ。


「俺は、」


それを言っちゃいけない。わかっていたのに、次に来る言葉が見えてしまった刹那、私の唇は動いていた。


「それならもう、放っといてくれないか」


放った声が、唇が震えている。
もう言うなと叫ぶ頭の奥を無視して、ずたずたになった心が訴えるままに言葉を吐いていた。

「他に望みなんて無い。ただ放っておいてくれればそれでいい。そうすれば、…全部勝手に完結できる」

彼は何一つ悪くないのに。
悪いのは私の臆病さで、弱さで、彼の真っ直ぐな思いに耐えきれない意気地の無さなのに。
酷い自己嫌悪。惨めな自分の情けなさと申し訳なさで押し潰されそうになる。


「…ごめんね。赤葦くんには何一つ責任なんてないのに」

やっと紡いだ謝罪に視界が揺れた。残った全ての意地をかき集めて涙を堪え、目一杯食いしばった歯で嗚咽を噛み殺した。

ごめん。

言い残して鞄を掴み、図書館を足早に出た。彼は追って来なかった。

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