黄昏る蝉の声

「おー赤葦!」
「おー、じゃないです。また部室の鍵返し忘れたでしょう」

手のひらに汗がじっとり滲む。速く冷たく脈打つ鼓動が訴える気まずさと居心地の悪さ。

「あッ、そういやそうだった…悪い赤葦!」
「次は気をつけてくださいよ」
「おう、任しとけ!」
「あんたホント赤葦いないとダメだよねぇ」
「なにをう!?俺は赤葦の先輩で主将だぞ!」

わいわい騒ぎ始めた木兎さんをあしらう友人を盾に、私はなけなしの平静を装い階段へ足を早めた。私は空気だ。空気になれ。簡単なことだ、今まで培った全ての地味スキルを総動員させれば―――

「名字さん」
「っ、」

地味スキル敗れたり。いやふざけている場合じゃない。何故止まった私の足よ…!
背後からかかった声、そのまま聞こえないふりをして階段を駆け上れば辿り着いたはずの教室。もう遅い。

「おはようございます」
「…おはよう」

ここは全力の気まずさを醸して引かせるべきか?いや、彼は控えめに見えて存外押しの強いところがある(木兎くんを扱う様子から見るにしてだが)。ならば何事も無かったように振る舞うべきだろうか。…それも無理だ、私が彼相手に平静を保ちきれるとは少しも思えない。

これが何でもない相手なら勝算はある。だが私はこの後輩の男子生徒が、赤葦京冶という人物が、出逢った時から得意じゃないのだ。

「これ、落とされましたよ」
「、あ…」

差し出されたのは自転車の鍵。反射的にシャツの胸ポケットに触れれば、彼の手の中にあるのだから当然なのだが、そこに鍵はなかった。
多分、靴を履き替えようと屈んだとき落ちたんだろう。

「ごめん、ありがとう」
「いえ。俺がしたくてしたんで」
「…う、うす…」

恐る恐る手を伸ばした。彼は自然に私の手のひらに鍵を落とす。わずかに触れた指先に思わず手を引き、そして息を詰めた。今のは駄目だ。人としてアウトだ。
はっとして彼を見る。反射的に謝罪を紡ごうと唇を開いた。だが言葉は出なかった。

何を考えているのか全くわからない、静かに薙いだ猫目。
心の底まで見透かすような、無機質で、底知れない瞳と視線が交わる。

映像が一気にフラッシュバックする。
閉館間際の体育館の入り口、階段の前。差し込む西陽に伸びる影と、腕に伝わる手のひらの大きさと熱さ。

普段の理知的に薙いだ静かな眼差しが、夕陽だけでは理由のつかない確かな熱を孕んで私を貫き、そして。


(……だから、私は)

この目が苦手なんだ。


「名字さん、」
「ごめん」

遮る。思ったより大きな声が出て、視線がはずれた。
上擦る声を必死でいつものトーンになるよう試みる。通りすがりの生徒たちがちらちらとこちらを見て行く。息苦しい。早く立ち去りたい。

…ここをあの人に見られたら、どうすればいいんだろう。
わかってる。どうもしない。だってもう無関係だ。…そうわかっていても、心が過剰反応する以上は無視できないことが悔しくて苦しい。

「そろそろ行かなきゃいけない。今日…小テストの準備をしてないんだ」
「……そうですか」
「…うん。…鍵、ありがとう」
「いえ」

自転車の鍵を握り込み、上履きの踵を返す。背を向け階段を足早に上る。
何事もなかった顔を取り繕って席につく。それでも胸にこびりつく後味の悪さはそう簡単に拭い去れるものじゃない。

結局凄まじい罪悪感に耐えきれず、机へ突っ伏し唇を噛み締めた。ああちくしょうだから学校なんて来たくなかったんだ。

赤葦くんは何一つ悪くない。私が一方的に彼を苦手にしていて、私が一人で大したことのないことでトラウマなんか抱えていて、それを理由に全く無関係の彼の想いから逃げようとしている。

―――名字さん

蘇る声に強く目を瞑る。思い出したって仕方ないのに。
教室の入り口の方から聞こえる幾つもの声のうち、たった一つだけが耳を捉えて離さない。突き刺さるような痛みにますます強く唇を噛む。今だけでいいから放っておいてくれたらいいのに。

―――俺、ずっとあなたが好きでした

ずるいのはわかっている。中途半端な優しさが残酷なのは十分経験済みのはずだ。それを誰かに対してするのは道理に適わない。

それでも言い訳をしたい。
事実として私は、これだけのことに手早く決着を着けられるような、器用で前向きな性格をしていないのだ。


―――俺と付き合ってくれませんか


返すべき答えは決まっていた。それは誰に対してだって変わらない。この先当分変えるつもりはない方針は自分の中で固め終わっている。
あとはゆっくりゆっくり進んで、立ち直るだけでよかったのに。


「…誰と付き合うとか、そういうのはもう御免なんだ」


確認するように呟いた声の情けなさに、いっそ窓から身投げしたい衝動すら沸いた。

140906
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