マジックアワーの憂鬱


「名字さん」
「ん?」
「名字さんって、朝比奈くんと親しかったりする?」

どくり、心臓を掴み取られたような気がした。

七月中旬、高く昇った朝日でうっすら滲んだ汗が、嫌な冷や汗に変わる錯覚。登校早々かけられた言葉に、まるで無防備だった脳味噌が麻痺したように動きを止めた。
言葉を取り落とした唇が上下でぴったり張り付いている。―――それは私の、元彼の名だ。
どうして。誰が。なんで。

「…っ?」

思ってわずかにブレた視線が、目の前のそれほど親しくないクラスメートの向こう側、女子が数人固まっている席を捉えた。
そこで顔を伏せて座る女の子と、周りを囲む友人であろう子たちを見たとき、頭がすっと冷えた。
舞い戻る冷静と宙に浮いたままの現実感。ゆっくり首を傾げ、考えるフリを装いながら、慎重に平静を装って口を開いた。

「…いや?席が近かった頃はよく話したけど…今は全然」
「…そうなの?」
「うん。朝比奈くんがどうかした?」
「あ、ううん。ちょっと気になっただけ。ほら、名字さん朝比奈くんとよく喋ってたのに、最近そういうの見ないなーって」
「そっか、でも特に何もないから大丈夫だよ」

驚きから変わった疑念を抱くような色を隠し損ねた表情、聞き返してみれば一瞬たじろいだものの逆に踏み込んできた反応。私の色恋沙汰に興味など抱くはずのないクラスメートの突然の接近から弾き出された予測に、心臓がざわりと波立った。

何事もなかった様子を装い、クラスの親しい友人の元に向かう。ちらり、私を伺った友人が何か言おうとするのを素早く遮った。

「はよ。ごめん、昨日のノート借りれる?英語さ、最後の方で寝てた」
「、おはよ、オッケーいいよ、待って」

席について授業の支度をする。右側から感じる視線には気付かないフリをして、書き漏らしてもいないノートを広げた。
ノートを開き差し出してきた友人は、私の意図を完全に把握し、何でもない雑談口調で言う。

「名前、単刀直入に聞くけど」
「うん」
「朝比奈と復縁した?」
「…そんな話になってんの?」

予想を越える事態に愕然とした。咄嗟に脳裏を過ぎったのは一つ下の彼の顔。
有り得ない。当人同士で終わったことが何故、当人以外によって蒸し返される?
聞いた私に、友人は顔をしかめた。

「いや、これはただの私の万一の確認。やっぱその様子じゃ違うんだね」
「当たり前だよ。そもそも別れるのだって向こうからだったのに?」
「アンタと朝比奈が付き合ってたってことと別れたってことが、今になって情報漏洩したらしくてさ」
「…単刀直入に言うと?」
「美紀が朝比奈に告ってフられた。フった理由は『忘れられない人がいる』」

じわり、心臓がざわめく。これが未練なのか怒りなのか後悔なのか戸惑いなのか、私にはまだ見当が付かなかった。彼の声がそんな台詞を紡ぐ様がどうしても想像できないし、その言葉の意味だって理解どころか予測もつかない。

ただ、彼の。赤葦くんの顔が、浮かんだまま消えてくれない。

「……それはまた、随分ドラマチックな断り文句だね」
「言ってる場合?朝比奈は名前と別れてから付き合った子なんていないし、仲良くなった女子は美紀くらい。忘れられない、なんて言ったら該当者は一名だよ」

ノートに無意味なラインを引きながら、友人は上目に私を見た。心配の色が滲む瞳に映った自分が酷く強張った顔をしているのに気付いて、私は急いで表情を戻した。

「…まさか。有り得ない。あの人は完全にあの子に惹かれてたはずだ。だから私と」
「あたしもそう思ってた。朝比奈は多分美紀と付き合うって思ってたよ」

あの子は私よりずっと可愛らしくて利発な子だ。男子にも人気があると聞いた。私が負けたって、否、勝負にすらならなくたって何ら不思議じゃない。それは間違いじゃなくて、確かに事実だ。
私と彼が付き合っていることを彼女が知らないとわかっていながら、「女の子の顔」で彼と話す彼女を見るたびに、私が確かに傷ついたのが、嘘じゃないとしても。

「名前、今日からしばらくは、移動教室もトイレもみんなあたしたちの誰かと一緒にいた方がいいと思う。マンガみたいな展開はないだろうけど向こうは取り巻きも多いし、何だかんだで絡まれるかもしれないよ」
「……うん。うん、そうだね」

しっかりしなね。
ノートを閉じた友人が私をじっと見て言った。励まされている。心配そうな眼差しに未だ痺れる頭で頷いた。

なぜだか無性に赤葦くんに会いたくなった。会って何でもない話をして、そして。

自分はもうあの頃から歩き始めたのだと、私が好きなのは別れた彼ではないのだという、確かな確信が欲しかった。








そのメールが届いたのは、帰り道のことだった。

「名前ー?どうかしたー?」
「…」
「…名前?」
「…、え?」

ふ、と帰ってきた聴覚が脳を叩き起こした。ぐるりと首を回せば、マネの友人が怪訝な顔で私を見つめているのが見える。

「…どしたの、ぼーっとして」
「あ……いや」

遅効性の毒薬が脳味噌で回っているようだ。メールなんて帰ってから確認すればよかった。
腹の底で冷たい不穏が、蜷局を巻いて重くうずくまる。押し出すように深く息を吐き出しても楽になったのは一瞬で、鉛のような不安が気道を締め上げた。

「…なんかあった?」
「……これ」

迷って迷って、思い切って手の中のケータイを画面そのままに友人に手渡した。
文面に目を通した彼女の顔がみるみる険しくなる。別に私が悪いわけではないはずなのに気まずい思いがして、視線をアスファルトに投げた。

「…何これ。朝比奈?」
「うん」
「でも名前、あの人確か違う子と」
「…の、はずだったんだけど」

ケータイを返され、私は先日の一件を洗いざらい友人に話した。友人は私の話の間に両手に持っていた肉まん二つをぺろりと平らげ、食べ終わってからはずっと黙っていた。

数歩先を歩く背の高い彼の姿を見て、得も言われぬ恐れに駆られた。今日は木葉くん達と話しながら歩く赤葦くんが、隣で歩いていなくてよかったと思う反面、隣にいてくれていたらとも思う二律背反。

「名前は…会いに行くの?」
「…決めかねてる。メール見てないとは言えないし」

正直な答えだった。ポケット越しにケータイに触れる。液晶画面に浮かんだ文字の羅列が頭から消えてくれない。

『いきなりごめん。会って話したいことがあるんだ』

誰からかなど言うまでもない。元彼の名が礫となって心に波紋を広げてゆく。

きっと何でもない話だと思いたい。けれど朝の一件とクラスの友人からの忠告の後ともなれば、雑談相手に指名されたのだろうと呑気に言えるほど楽観的にはなれなかった。

話なんて終わったはずだ。いや、始まりすらしなかった。私と彼の終わりに会話なんてなかったからだ。
あの恋はもう枯れた。大きな喧嘩も小さな諍いも、互いの長所も不満も口にしあうことなく、あの恋は死んだんだ。


―――好きです


耳元に蘇る声。前を歩く彼の背中を、柔らかそうなくせっ毛の髪を見詰める。

(…ああ、でも)

でも彼だって普通の男の子で、私より可愛い子なんてたくさんいる。

十代そこらの未熟な子供でしかない私たちに永遠の愛だなんて話は冗談もいいところで、続く保証も何も無い。所詮すべてが不確かで不安定で、幼さが語る“絶対”がいかに脆いものか私は拙いながらも知っているはずだ。

足元が重くなる。ああ嫌だ、やっと前を向いて顔を上げたばかりなのに。


『来週の月曜の放課後、教室に来てくれると嬉しい。返信待ってる』


「…今更何なんだ、」

苛立ち紛れで出したつもりの声が、思った以上に弱っていてまた情けない。唇を目一杯噛み締めていたら、隣を黙々と歩いていた友人が突然私の腕を掴んだ。

「来週の月曜、職員会議があってさ」
「は?」
「部活は自主練だけになるの」

いきなり何だ?唐突すぎる友人の台詞に取り残され私は目を白黒させた。話の脈絡が全く掴めない。

「だから、教室に彼が来たらメールして。で、話終わったらまたメールして」
「ちょっ待って、それ何の"だから"?意図が全く読めないんだけど」
「月曜、一緒に帰ろ」

いつもの声じゃない彼女に、思わずぴたり、足が止まった。
彼女は真剣な面もちで私を見下ろしていた。一瞬、彼との話が終わったら詳細を話せということだろうかと考えたが、すぐにそれを打ち消した。それにしては空気が違う。
彼女の意図するところはわからない。けれど差し向けられる真摯な眼差しは、信じるに足りて余るものだ。

「わかった。帰ろう」

夕方の風が吹く。濃い夏の匂いがした。
何を言うにも言葉が出てこなくて、そんな名前のつかない目一杯の思いを込めて私はしっかり頷いた。

「ん。待たせてる」
「…うん?待ってる、じゃなくて?」

妙な言い回しに首をひねるも、彼女はいつも通りの気の抜けるような笑みでへらりと笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。

「おーいお前ら、どうしたー?」

少し前で木兎くんが手をメガホンにして呼びかけてくれる。その隣で怪訝そうにこちらを見る赤葦くんと目が合い、私は一瞬強張る肩を深呼吸でいなした。それから小さく笑い、冗談ぽく手を振ってみせる。

笑って手を振れること、驚いたような顔をした彼が、ちょっと嬉しそうにはにかんで小さく手を振り返してくれることに、心の底から感謝した。

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