良く晴れた日のはずだった

「あなたから言ってもらえない?」

雷が鳴っている。急速に上がる湿度と不快度指数。潜められた母の声を届けたドアの前、動きを止めた足元へ血潮がゆっくり降下してゆくのを感じた。

「入学金だって2、30万はするし、私立なんて年間100万はかかるし…」
「…名前はなんて言ってるんだ」
「…何も。何も話さないから、あの子」

学校から帰り、ドアノブを捻った時点で、家の奥から普段はないはずの人の気配があることに気付いた。なるべく音を立てずに入った玄関、残された靴からそれが両親のものであることを理解して、気づかれないよう二回の自室に向かおうとしていた。そのはずだった足を縫い止めたのは、リビングから漏れる話し声に混じった自分の名前。

「どこに行きたいかもわからないのか」
「…私立ではないみたいだけど。でも模試の結果は良くないみたいだし」

父の返事はない。抉るようなため息が鼓膜に爪を立てる。色にするなら何色だろう。でも言葉に例えるならすぐわかる。

「うちにはそんな余裕ないのに」

そう、例えば、"忌々しい"。



がちゃん、玄関の方で音がする。ああまずい。思ったはずのそれはけれど、フリーズした反射神経では行動になって現れることはなかった。

「ただいま姉ちゃん!何してんの?」

駆けてきた弟の無邪気な声が、ドアの向こうを凍り付かせたのは容易に察することが出来た。
温度を見失った心臓は思う以上に落ち着いている。不思議そうにこちらを見上げる無垢な瞳を、私はじっと見下ろした。動かした表情筋はあっさり笑みをつくる。出した声は自分でも驚くほど穏やかだった。

「おかえり、シュン。今日は練習どうだった?」
「へっへー、勝ち点2!ゴールとアシスト決めてきた!」
「そう、…そりゃすごいや」

自慢げに胸を張る弟の、まだ細く柔らかい髪を撫でる。おやつは洗濯もの出して、手を洗ってからね。言い残し、踵を返す。「オッケー!」、返された元気のいい返事と、リビングのドアが開く音を背中で聞いた。「あっ、姉ちゃんはおやついいの?」という気遣いには、聞こえないふりをして階段を上った。

火傷しそうなほど熱いのに凍り付きそうなほど冷たい。さあちゃんと息しろよ心臓。丸ごとドライアイスに沈められた左心房を叱咤する。走り出すにはまだ早い。

自習用のノート類をまとめて一式詰め込み、階段を下りて玄関に向かった。廊下を踏む音がする。振り向かずに荷物を掴む。雷が近い。夕立になりそうだ。

「名前」

父に呼ばれる。振り向く。父の固い顔を真正面から捉えた途端、弟に向けたのと変わらぬ笑みを作れた。自分より動揺した相手を前にすれば、人間ってやつは存外冷静でいられるものなのだ。

「行ってきます」

ドアを閉める。大丈夫だとも。足の震えは気のせいだ。





飛び乗った自転車のペダルを力一杯踏み込んで数分、案の定大粒の雨が降り出したと思ったら一気にゲリラ豪雨と化した。大通りを避けて選んだ住宅街に雨宿りできる場所は無い。瞬く間にシャツが色を変え、一気に頭皮まで染み入った雨水が額を伝い落ちた。

息が苦しい。歯を食いしばる。明らかなる運動不足だ。筋肉が燃えてなくなりそ…いや無くなるも何も元から無かったか。アッ自分で言って悲しくなってきた。

見慣れた駅前、少し外れたくたびれたビルに辿り着いた時には下着までぐしょ濡れだった。どう考えたって椅子にも座れまい。でもここまで濡れたらもう何でも良い気がして、惰性でビルのエントランスを潜った。

どうにか中身は無事だった鞄を抱えて辿り着いた四階、浮かび上がるガラス戸を前に立ち止まる。…これじゃ本当に入れそうにないな。足元に出来た水溜り、髪から滴る水滴を見てため息をついた。
弱り目に祟り目か。嫌になるほど惨めが過ぎる。

この状態だ、帰れと言われたら帰るしかない。そしたらどうする、とりあえずファミレスか?
諦め半分にガラス戸の取っ手を掴む。いや、掴んだと思って、


ばつん。


「――――」

ブレーカーが落ちた。そう錯覚するだけの音がした。

鼓膜を引き絞る耳鳴り。瞬き以外の何かで視界が明滅する。木目、床、反響する打突音。無数の声の破片。
なんだこれは。網膜に映る視界に脳内の映像が一致しない。内側に割り込んでくる色彩に眩暈がする。

溢れる。本能的に思った瞬間跳ね上がった手が、弾かれたように取っ手を手放した。ぶつり、途切れる映像。見開いた目に映るガラス戸。

「……なんだ、今の」

瞬きで視界の、喉で声帯の正常を確かめる。手探りで見つけ出した現実の輪郭を必死で手繰り寄せた。
幻か。白昼夢?いいや、そうじゃない。そんな言葉で表すものより、もっとずっと生々しい、何か。

浅い呼吸が唇から漏れる。せわしく瞬く視界に映る景色はさっきと何も変わらない。まるで何事もなかったかのように。

不意にガチャリ、ガラス戸が音を立てて開く。身を固くした私の前に現れたのは、英語の先生の顔だった。

「あら、名前ちゃんだったか」

息をつくような声が言った。いつもの快活さとも、落ち着いた微笑みとも違う、初めて見る静かな笑み。
戸惑ったのは束の間だった。私のナリを見た先生は、目を大きくして頭からつま先まで視線を走らせ声を上げた。

「やれまあ、ずぶ濡れじゃないですか!どうしよう着替え着替え、」
「あ、の。先生、」

引き止めたところでどう説明して何を聞けばいいのかわからない。それでも投げ込まれた混乱の渦で藁にも縋らずにはいられず、ばたばた引っ込もうとする先生を追いかけるように足を踏み入れる。

そこで気づく。戸口のすぐ脇に佇む、白とミントブルーのジャージ。

「!」

ばちり。ぶつかる視線に思わず足が止まった。鉢合わせに驚いたというより、亡霊でも見たかのような。私が覚えた感覚はそうで、私を凝視する彼は、信じられないものを見る表情をしていた。

「…えっ、と」

意味なく漏れた一言はしかし、場を解凍するだけの役目は果たしてくれた。鋭い瞳がはたと瞬き、私のナリを一瞥する。自分の現状を思い出して突沸した気まずさに割り込んできたのは、講師スペースから戻ってきたスリッパの足音だった。

「どうしようか、タオルはあるんですけどさすがに着替えまでは」
「あ…いえ、あの、大丈夫です。夏だしそのうち乾くんで」
「そのうちじゃ駄目でしょう、クーラーも利かせてますから風邪引くわ。一度家に帰って着替えた方が」
「いいえ」

飛び出した拒絶を制せなかった。一瞬の間、それから口を閉じた先生はきっと次の一言を探している。それを待つのが最善だとわかっているのに、先を封じるように話し出していた。

「このくらい何とも。今日徒歩で、家まで結構かかるんで」

嘘だ。本当は自転車で来ている。後ろめたさが一瞬過ぎる。口を開かんとした先生を遮ったのはジッパーを引く音だった。
反射的に首を捻じる。肘まで捲ったジャージの腕は迷うことなくエナメルに突っ込まれ、ものの二秒で現れた白い塊が私の目の前へ突き出された。

「これ、練習着。今日着てねーから」
「へ?」
「あと下も使うか」
「え、ちょっと、」

使うか、と尋ねるわりに選択権はないらしい。押し付けられて落とすわけにいかず、惰性で受け取った白の上へ続けざまに紺色が追加される。これはすぐ見当がついた。体操着によくあるハーフパンツ。

そんな、借りられない。言いかけた反駁を封じるように、上げた顔にはミントブルーのタオルが降ってきた。早々とジッパーの閉まる音がする。ちょっとちょっと待ってくれ!

「いや、悪いですよ、そんな…!」
「?袖通してねぇからキレイだぞ」
「そういう話じゃなくて、」
「けど、家帰るのはヤなんだろ」
「!」

図星だった。口をつぐんだ私に、男の子は畳みかけるように話を結んだ。

「減るもんじゃねーし、替えもあるから、気にすんな」

くるり、背を向けた彼は下駄箱で靴を履き替える。未だ外靴のまま立ち尽くす私を置いて、彼はまっすぐ講義室へと消えていった。呆然と見送る私を見ていた先生が、諭すような調子で言った。

「面談室で着替えておいで。そのままだと本当に風邪をひきますから」

腕に抱えた服の持ち主がこの場を去ってしまった以上、私に選択権は残されていなかった。諦めてタオルを受け取り、無人の面談室に入る。濡れて張り付くシャツを苦労して脱ぎ、借りたタオルで体を拭いた。受け取った白い塊を広げる。

練習着、と言っていたか。頭から被ったそれは夏場にはやや厚い長袖のトレーナーだった。まずもっての感想は「大きい」。肩も裾も胴回りも布が余り、袖口は大きく二折り上げた。見た目はともあれ、だぼだぼする分たっぷり含んだ空気が冷えた身体を包み込み、自然とほっと息が漏れる。次いでハーフパンツを取り上げたところではたと気づいた。名前を聞いていない。

「着替え終わりましたー?」
「!先生、さっきの人って―――」

ドアの向こうから掛けられた声に振り向きざまに問おうとして気付いた。これもまた胴回りを余らせるに違いない紺色の裾、白く刺繍された二文字の漢字に私は言葉を失った。
岩泉。

「……うわあ」

おい誰だノートコミュニケーション展開を青春映画だ少女漫画だなんて言ったのは。濡れ鼠でボーイミーツガールって何のクサい演出だ。

「脚本家出て来いや…!」
「ヤダ、面談室から軽い怨嗟を感じる…!」

若干慄いたようなドア越しの声を聞きつつ、私は羞恥で頭を抱えながらハーフパンツに脚を通した。どうする、すでに今から来るべき再会が気まずくて仕方ない。

171105
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