しらぬがほとけ

「あっ姉ちゃん待って!宿題教えて!」
「シュン?今日サッカーは?」
「カントクの用事で休み!だから後でハッシーんち行くんだ」

夏休み開始と同時にスタートした夏期講習三日目、特別時間割で一時間90分を数える講習を四コマこなし帰宅。荷物だけ入れ替えて塾に行かんとかばんを背負って階段を下りてきたところ、リビングから飛び出してきた弟に捕まったのは四時過ぎのことだった。

地域クラブのサッカーに明け暮れる弟がこの時間に家にいるのは珍しい。けれどその貴重なオフをすぐさま遊びに行くのではなく、宿題をしてから遊びに行こうとするあたり、我が弟ながら素直でまっすぐ育ったものだと感心する。

ねー姉ちゃん、算数わかんないんだよ、とノート片手にせがむ弟に、時計を確認して考える。親が帰ってくるまでにはまだ一時間足らずある。食器と風呂洗いなら20分あればいい。

「いいよ。ただ30分くらいしか見てあげられないけど、それで平気?」
「ヨユー!」

目を輝かせた弟がリビングに駆け戻ってゆく。おやつでも出してやろう。冷蔵庫のプリンとスプーンを片手に、私もまたリビングに戻った。




年の離れた弟は、今年で小学四年になった。10歳の壁、と呼ばれる勉強の難易度の飛躍は、私より運動に特化した弟にももれなく立ちはだかりつつあるらしい。夏休みの宿題、と印字されたプリントの束と格闘する弟に手を貸してやりながら、まだ幼い顔つきと柔らかい髪のつむじをぼんやり眺める。

数えで八も年が違えば姉弟喧嘩をすることはほとんどない。特に弟は客観的に見ても素直で明るい男の子に育っていて、年相応の子どもっぽさはあるものの、基本的に手がかからない。顔立ちこそ両方母親似、手のかからないのは同じなのだろうが、それ以外はとんと似ていない姉弟だ。自分で思う。

「シュン、そういえば、今日の分の漢字の宿題は?」
「え、…えーと…」
「…、帰ってから出来る?」
「出来る!」
「そう、じゃあ算数だけしたら遊びに行きな」

せっかくお休みなんだし、でも帰ったらちゃんとするんだよ。口うるさい姉だと内心自分で苦笑しつつ付け加えるも、弟はもろ手を挙げて喜んでいた。しかし弟よ、まだプリントは半分も埋まってないぞ。思いつつ食器を洗い始めれば、鉛筆を握り直した弟が何の気なしに言う。

「姉ちゃんは母さんより優しいよなー」

母さんだったら絶対全部やるまで行かせてくんないもん。
つんととがった唇が悪気なくこぼした無邪気な不満に、私は食器を取る手を止めた。ゆっくりこみ上げてくる何かが、くしゃくしゃに丸めた紙のように喉に詰まって、言うべき言葉を見失わせる。

返答のないことに怪訝な顔をした弟が不審がる前になんとか探し出したのは、この場で言うべき最適の台詞で、その代わりにこれ以上ないほど月並みだった。

「…それ、母さんには絶対言わないでよ」
「あったりまえじゃん!超怒られる」

そう、ただ怒られるのはあんたでも、恨まれるのは私なんだけどね。
そんな台詞は飲み込んでおいた。

真意はきっと半分も伝わっていない。それは弟が無邪気に思うほど単純な感情でも構図でもないのだ。
きっとそれはこの先この弟がもう少し大人になって、大人の身勝手なモノサシに晒されている自覚を持った時、初めて牙を剥く現実なのだろう。


弟は母に似ている。私の知る今の母には見えない無邪気で明るい性格も、小さい頃から読書より外遊びが好きなことも―――何より、スポーツなら何だって人並み以上にこなす天性の運動能力も。

まだ何も知らない弟が、勉強よりスポーツに秀でていることがなんら恥ずべき汚点のように扱われない、そんな環境に生まれて良かったと心底思う。こつこつ努力することをいとわず、母の言いつけを守ってきちんと勉強に取り組んできた弟の成績は中の上。それはほとんど毎日夜近くまでサッカーに打ち込んでいることを考えれば、十分すぎる頑張りだ。

けれど世の中には、数字に表れる成績だけが人の価値を決めると信じて疑わない人種が存在する。


「出来た!姉ちゃん丸付けして!」
「先生に出すのに丸つけちゃダメでしょ。確認だけしてやるから」

遊びに行くのを待てない様子でそわそわしながらも、プリントの上の数字を追う私の指をじっと見つめて待つ弟をそっと盗み見る。姉の目による贔屓抜きにもかわいらしいと呼べる顔立ちに確かに見た母の面影が、同じ母がぽろりとこぼした温度のない言葉を思い出させた。


『名前は姉さんに似たのね』


いつか。

いつか、弟も、母と同じ目を私に向けるのだろうか。母が味わったのと同じ屈辱を、私のゆえに味わうことになるのだろうか。


もしそうなったら。それを思うたびに、まるでこれから犯すであろう未来の罪に対する罪滅ぼしのように、私は弟を可愛がらずにはいられない。
せめて何も知らずにいられるうちに、おまえが持って生まれたものは誇っていいものだと、おまえの価値を決める物差しは一つじゃないのだと理解させておいてやりたい。

その気持ちはきっと母が弟に対して抱くそれと同じだ。けれど私の存在が誰かを貶めるための比較材料に使われることを、どうしても避けたいという思いは、弟に対して抱き、母に対して気付くには遅すぎた、私だけの思いなのだ。





無邪気な弟にあてられて、ずいぶんブルーな気持ちになってしまった。振り切るようにして家を出て、結局いつもと変わらない時間に塾についた。こんもりと盛り上がった入道雲は夏本番ばりの貫録だ。まぶしく輝く白いそれを見て目を細めつつ、細い階段を四階まで上がる。

扉を前に不意に立ち止まったのは反射だった。相変わらず光を反射するガラス戸の向こう側は見えない。

ゆっくりと、注意深く、ドアの取っ手に指を伸ばす。中指の先につるりとした金属が触れて、…それ以上を感じない取っ手を握った。
そうして押しあけた扉の向こうは、いつもと変わらず、程よく冷房のきいた明るい室内。何も、ない。

「…夢、」

だったんだろうか。――――本当に?
足を踏み入れ、靴を履き替える。ひょこり、カウンターから覗いた顔が、私を見つけて邪気なく笑った。

「いらっしゃい名前ちゃん、今日ちょっと太陽頑張り過ぎだと思いません?」
「…擬音をつけるなら『にこっ』ていうか『ぺかっ』て感じですね」
「おっと、珍しく名前ちゃんの言ってることがわかんないぞ?」

目を瞬かせながらもしっかり突っ込んできたいつも通りの先生に、曖昧に笑い返す。なんとなくこちらを観察するような、けれど別に不躾でも嫌な感じでもない視線を感じながら靴を履き替えると、先生はおもむろにからりと笑い、パソコンのほうに向きなおっていった。

一瞬迷う。それから決めて、パソコンを挟んで先生の前に立った。

「先生、あの」
「うん?添削かい?」
「いえ、いや、それもあるんですけど」
「?」
「…岩泉、くんの来る曜日って、いつか聞いてもいいですか」

この前、迷惑かけたお詫びを言いたくて。
事実変な意味はないのに、ぱちくり、見開かれた瞳を前にするとじわじわと焦りが湧いてくる。沈黙に耐えかね口を開いた。

「…個人情報とかで駄目だったらいいんですけど、」
「ああいや、その心配はないんですけど」

ぷはっと吹き出した先生が、可笑しそうに私を見上げて笑う。けど、なんだ。そう思って眉根を寄せれば、先生は笑みを噛み殺すようにして応じた。

「君たちふたりとも、全く同じことを言うものだから」
「え?」
「水曜の八時ですよ。自習に来るのが多いのは月曜ですかね」
「、」

呆気にとられるのも束の間、言われた台詞の意味を噛み砕く間もなく急いで日時を脳みそに刻み込んだ。
水曜八時、自習は月曜。どうりで会わないわけだ。六限終わりの月曜、私は学校の図書室で自習して帰る。それ以外はほぼ毎日塾に足を運んでいるが、運動部の彼はそう頻繁にやっては来れまい。

思い返せばこれまで戸口で鉢合わせた時も、二回とも授業開始数分前だった。ジャージ姿であることから学校から直帰で来ている可能性もあるし、そうでないとしても早めに来て自習室で時間を潰す暇はないだろう。

…ゆっくり話すなら月曜か。でもどうする、そんな長いこと顔を合わせて会話を保たせられるほど私はコミュ力お化けじゃない。それに今日は金曜、月曜まで時間は無いし、お礼に何をするかも決めないとだし、

「…ちゃん、名前ちゃーん、聞いてる?」
「あ、すみません、何でした?」
「うん、だからね、彼多分、今日来ますよ」
「……ん?」

先生を見詰める。常と変わらぬ温厚な笑顔がにこにことこちらを見詰めている。

「いや、でも今日金曜ですよね」
「ええ、金曜ですね」
「彼、授業、水曜なんですよね」
「ええ、水曜ですねえ」

でも私、名前ちゃんの授業は金曜日ですよって、岩泉くんに伝えちゃったんで。

「さっき言ったじゃないですか、君たち同じこと聞くんですねって」

いたって人畜無害な笑顔がしれっと落としに来たとんでもない爆弾の着弾、コンマ数秒で私の思考を吹っ飛ばした。

「聞ッ…いてないんですけどそんな話」
「今言いましたもの」
「なんで昨日言ってくれなかったんですか!」
「聞かれませんでしたから」
「…先生楽しんでますよね、完全に面白がってますよね」
「やだなあそんなことないですよ。でも名前ちゃん、その紙袋、彼の体操着でしょう?」
「!」

いつの間に。かさり、手元に提げた袋が音を鳴らして返事する。カウンターからじゃ絶対見えないはずなのに、この人一体いつ確認したんだ。

「…先生、目ん玉片方、壁にでも埋め込んでるんですか」
「おっとついにバレてしまいましたか。この右目は義眼でね、本物は下駄箱に設置してるんです」
「〜〜ッ!」

想像を絶する口の減らなさに絶句した。もともと話の上手い人だとは思っていたがここまでとは。言い返す言葉も失う手札の数に、しかし一矢報いねば気が済まない、思って言葉を探して二秒、しかしガチャリ、ガラス戸を押し開ける音に今度こそ思考を切り断たれた。

「大丈夫よ、名前ちゃん」

飄々とした食えなさを仕舞った優しい声が鼓膜を撫でる。向こう側の見えないガラス戸を潜るようにして現れた利発な猫目が、こちらを捉えてはたと足を止めた。
瞬き二つ、後ろ手に戸を閉めた彼はきっと、思ったことを素直に言ったに違いない。

「今日は濡れてねぇな」

顔が火を噴く。煮上がった自覚はあった。悪意がないのがわかる分、腹を抱えて笑い出した先生より性質が悪い。
なんとなくわかった。彼はノートで接するより、ずっとデリカシーに欠けている。


171114
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