呼吸だけなら一人で出来る

「そういやアレ、解けたの?数列」
「おう。ヒント貰ってすぐ解いた。サンキュな」
「そ」

軽くスパイク。綺麗にレシーブされたそれをオーバーで捕まえる。同じくオーバーで返されたボールをアンダーで繋げば、少々意地悪い方向へと流された。二歩分移動し片腕で返せば、軽く笑ってまたアンダーで受けられる。高三にもなりながら、ふとした瞬間に見せる顔に少年の無邪気さを覗かせるところが、この逞しい副将のずるいところだ。とりわけ大人びて見られる松川はそう思う。そんな少々の妬みから、少しばかり仕返しのつもりで聞いてみた。

「それって例の交換ノートの子のため?」
「は?」

綺麗に返された三色のボールを捉える。軽く打ち下ろしてやれば、ぽかんとしていた岩泉ははっとした様子で一瞬出遅れながらもなんとか返してきた。どうやらこれはビンゴらしい。

「へえ、図星なんだ」
「…、そりゃ、任されといてわかりませんでしたじゃ無責任だろ」
「まあそうだけど。それにしても及川が『岩ちゃんがガリ勉とか死ぬほど似合わないよね!』って心配してたぞ」
「台詞の内容と動詞が合ってねぇんだよ」

アイツ後でぶっ飛ばす。いいながら打ち下ろされたスパイクの威力は四割増しだった。割と本気で痛かったので後で及川のケツにサーブでも入れてやろうと決める(後頭部は首に危ないので却下)。

「けどまあ、この時期から予備校って、そんなベンキョーやばかったっけ?」
「英語が結構。数学とかは大丈夫なんだけどな」

そんなもんか。間を置かず返ってきた返答にふうんと相槌を打つ。

このままメシでも行かないか。いつものノリでかけられたその言葉に、至極何でもない口調でこの副主将が告げたのは、「悪い、この後予備校あんだよ」なんて言葉だった。

発言者とその内容を一瞬疑ったのは自分だけではなかっただろう。馬鹿にしているわけじゃないが、岩泉に予備校なんて単語が似合うと考えるヤツはうちの部には一人もいない。

『から、また今度参加すっわ』

呆然とする俺たちを置いてあっさり去ってゆく岩泉を見送り、こちらを見た及川は、「やっぱそんなカオになるよねえ」とへらりと笑った。さすがに幼馴染、岩泉が予備校なるモノに通い始めたことはすでに知っていたようだが、その真意に関しては測りかねている節があるようだった。

俺もついこないだ聞いたばっかなんだよ、と肩をすくめた及川は、「まあ今まで家でしてた勉強を別でするってだけに近いみたいだから。バレーに支障もないみたいだし」とフォローするように付け加えた。

『まあ…俺らも三年だしな』

ぽつり、呟いた花巻の一言に、先ほどとは質の違う沈黙が皆を包んだ。

インターハイを控える初夏、卒業や進路の二文字はまだ遠く、けれど目の前の三色のボールを追いかける最後の一年から少し視線をずらせば、その分岐点が確実に近付きつつあることは見えている。

「岩泉は進路どうすんの」
「あー…まあ、一応考えてるとこはあるけど」
「けど?」
「正直結構厳しい、なっ」

打ち込まれるスパイクを、咄嗟に伸ばした片手でなんとか拾った。斜めに鋭く飛んでゆくボールを、素早く真下へ潜り込んだ敏捷な体がオーバーで捕まえる。綺麗に上がった三色は放物線を描いて俺の真上へ戻ってきた。見事だ。


岩泉は大学でもバレーを続けるだろう。それはほとんど疑いなく、息するように確信できる。そしてきっと続ける以上、それをサークルなんかの遊びには収めず、競技として続けるのだろうとも。

けれどその隣に彼の相棒が―――周囲をもって阿吽と呼ばしめるその幼馴染の姿があるかどうかは、松川にはとんと予測ができなかった。


固い絆で結ばれながらも互いに依存しているわけではない。チームメイトのひいき目を抜きにしても、きっと各々単独で十分優秀な選手としてやっていける。あの二人がネットを挟んで対峙する未来はきっと、想像のつかない無二の結果を生むだろう。

(けどまあ、チームメイトとして欲を言うなら)

幼馴染として、セッターとスパイカーとして、心と体の両方で積み上げてきた絆の結晶とも言える彼らのバレーを、この先もまだずっと見ていたい。そう思うのも本当だ。


及川はきっとバレーで大学に行く。県内トップの実力は折り紙付き、いよいよ始まる最後のインハイとその先の春高がどうなるかはこの先次第だが、現在も下されたその評価は変わらない。上手くいけばそれなりの大学から推薦も舞い込むだろう。

では岩泉はどうだろう。我らが誇る絶対のエース、その信頼と確信に揺らぎはない。だが例えばウシワカのような全国区スパイカーに並ぶかと言われれば、岩泉自身がそれを否定するだろう。

その岩泉がこの時期、シーズン本番を迎えんとする今、週一のオフ時とは言え受験勉強の代名詞のような予備校に通い始めた。

それは周囲にとってそうであったように、松川自身の心にも小石を投げ込まれた水面にも似た波紋を広げている。


「…ま、あんま詰めすぎんなよ」
「心配すんな。オーバーワークはクソ川だけで十分だ」

すげなく言い返す岩泉にいつもなら笑うところを、松川はただじっと岩泉を見詰めた。その口調も顔もいつもと相違なく、何かを隠している素振りは伺えない。そうでなくとも部内でも人一倍熱心に練習し、インハイに向けて万全の状態を整えるべく日々の研鑽を怠らない岩泉の姿勢は、ここ最近も至って一貫している。

気にしすぎか。自分の杞憂を思い、松川は小さく息をつき差し込む陽光に目を眇めた。

願わくば、彼らがこの先、卒業という節目を超えても同じコートに立つ未来があると良い。そう願うのは自分の勝手なのだけれど。









「あ」
「、よう、名字じゃん」
「あれ、部活、今日ないの」
「ヒーローは遅れてやってくんだよ」
「とんだ似非ヒーローだな」

紙パックのストローを咥え、廊下に出てきた気だるげな猫背を預けた友人に出逢ったのは、放課後の開始を告げるチャイムが鳴って随分経った頃合いだった。インターハイを控える運動部の最高学年という肩書きをすがすがしいまでに一切無視するその物言いに肩をすくめる。

「そういう名字は何してんの」
「進路希望調査出しに行く」
「吐きそうな放課後だな」
「気持ちの上ではもう吐いた」
「ふっは!」

すらりとした体躯を仰け反らせ、天を仰ぐように吹き出す友人につられて笑う。無駄のない筋肉に包まれた手足の肌はよく日に焼けている。私も中学時代は運動部だったが、随分と筋肉を失った体は現役の彼女に比べれば大層頼りない。

「どこ?」
「ん」
「へえ、やっぱ国立か」
「一応はね。そっちは?」
「上手くいけば推薦」
「そりゃすごいな」
「国立のが上だろ」
「比べるものじゃないでしょ。プロセスが全く違う」

顔をしかめて見せると、胡散臭い一瞥をくれた友人が傷んだ前髪の下でニヤリと笑う。私が返す言葉をわかっていて、国立のが上だなんて思ってもない世辞を言ったのだろう。この性悪の笑みは私がそれに気づいているのもわかっている証拠だ。相変わらず性格がねじれている。

「名字こそ、相変わらず叩き出してるって?絞めるねぇ」
「…時たまだよ。いつもじゃない」

絞める、という動詞の目的語が私自身の首を指すことは、私とこいつの会話では暗黙の了解になっている。模試やテストで良い結果を出すたび、自分の首を絞めている。友人が私の様子をそう評したのは一年の頃で、三年になる今も、私はその状態から抜け出せていない。

「いいじゃん、努力の賜物だろ。知らぬ存ぜぬでドヤ顔してれば」
「…生憎そこまで図太くないんだよ」
「相変わらず面倒で小心だな」
「辛辣過ぎない?泣いていい?」

ハンッと鼻で笑われ苦笑する。入学当初、この友人と私は同じクラスだった。三年間クラスの変わらない進学科に所属する私と彼女が今現在クラスを違えているのは、彼女が一年の三学期を迎える時、普通科への移籍を決めたためだ。

もともと部活をしに来たのだと話していた彼女は、土日返上が基本の運動部に属す傍ら、都内でも名の知れたうちの進学科の授業に問題なくついてゆく素質を備えていた。
勉強一本に絞れば学年トップも夢じゃない。そんな担任の期待や圧力をのらりくらりと躱しながら、最後には入試倍率3.5倍を潜って入った進学科をあっさり辞めていった。

天才肌とも呼ぶべき要領の良さと、それでいて周囲の妬みも期待も評価も捨て置き貫かれるマイペース。余計な雑音で気を散らしはしない、その姿勢は当時から私の憧れだった。

後でわかったことだが、彼女が普通科に移籍するのを事前に聞いたのは進学科では私だけだったという。理由はやはり部活のためだったらしいが、それを私に語った理由は今も知らない。

「そろそろ行かなくていいの」
「そうだな…阿呆が調子に乗る前に戻るかね」
「阿呆?」
「上が愚図だと下が苦労するって話だよ」

放り投げるような口調に思わず口を噤んだ。ぞんざいな物言いに被さる、薄い刃に似た侮蔑。軽々しく触れてはならないものを感じてただ頷けば、肩をすくめた友人はいつもの調子に戻って言った。

「ま、名字もあんま頑張りすぎんなよ」
「…うん」
「煩え輩は何したって煩えんだ。好きに喋らせとけ」
「相変わらず言う事が過激だなあ…」

当然のように、深刻でも軽薄でもなく。ただ受け取るのに丁度の好い加減な調子の言葉に、ひとつしっかり頷いた。

一年の頃から私はこいつのこういうところがすごく好きだった。ドライで辛辣で皮肉屋で、でもなんでもない一言が心の紐をそっと緩めて、ふっと息をつかせてくれる。
彼女には間違いなく学才があった。予習も復習も必要ない、授業で一度聞けば人並み以上にこなしてしまう。でも、いや、だからだろうか、彼女はいつも退屈そうだった。

進学科を辞めた彼女が、部活関連で全校集会の壇上にて賞状を受け取る姿はまだ見たことがない。部活に打ち込む決定を下しながら目立った結果を出していないことを、無言の視線でうっすら嘲る連中が―――主に私のクラスに、彼女にとっては捨てた古巣に多くいることは知っている。

でも彼女は進学科をやめてから、あの酷く退屈そうな顔をしなくなった。それが私は勝手に嬉しい。

気怠げに去ってゆく背の名字を呼ぶ。名前で呼ぶのやめてくんない。一年の初め、クラスの女子全員を敵に回さんばかりに吐かれたそんな台詞に、彼女を名字で呼び捨てるようになったのは、結局私だけだった。

あの頃と変わらない不遜な横顔がぞんざいに振り返る。

「部活、頑張れ」

ひらり、振った手を返事の代わりにして、傷んだ茶髪は日誌片手に職員室へ向かってゆく。
四つ折りにした進路希望調査に目を落とし、私もまた進路指導室へ爪先を向けた。


171016
傷んだ茶髪。
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