いふもさらなり

名前、なんていうんだ。

そうか、私言ってなかったのか。見下ろす紙面、私が書き散らした数式の残骸の下に、罫線を無視した男の子の字が私の名を尋ねているのを見つけた時、私はふとその事実に気が付いた。

一方的に名を知っていたものだから失念していたが、確かに私は彼に名乗った覚えがない。とは言え私の方も彼の名の正確な読みは知らないし、もっと言えば彼は私が彼の名を知っていることを知らないだろう。

名字名前です。そっちは確か、岩泉一くん?
何で知ってるんだ?
ノートに書いてあった。でも読みはちゃんと知らないな。
そんな難しい名前じゃないぞ。
いわいずみ いち?いわ せんいち?
ハズレ。上がいわいずみで、

「…『下が、はじめ』」

ゆっくりと口にし、音にする。ようやっと知れた名前を何度か舌の上で繰り返した。岩泉でいい、と加えられた文字の上、トメハネのきちんとしたひらがなを刻み込む。
はじめ。そうか、一と書いてはじめか。考えてみればそうとも読めるのに、てんで思いつかなかった。何とも言えない感動に浸っていれば、その少し下に追加の走り書きを見つける。

つーか泉一って、昭和かよ!

仰る通りだ。苦笑して返答する。『申し訳ございませんでした』。でも横には全く反省していない顔文字をつけておいた。反応が楽しみだ。




ノートのやりとりが始まって、気付けばもう随分経った。カレンダーの日付は夏休みも半ばに差し掛かることを示している。

私宛に記してくれるそれがいつも、英語の問題を解くときよりも心なし丁寧な筆跡であることに気付けるようになったのはつい最近のことだ。
読みやすいよう気を遣って書いてくれている。その物言わぬ親切は見つける毎度ほんわり私を温める。

こちらで書き込むのが私だけなのに対し、彼の側からは時折付箋や別のノートの切れ端なんかに、彼のものとは別の筆跡によるメモが貼り付けられてくる時がある。それは大抵彼の部活仲間の人たちからで、内容は大抵英語や、時に古典なんかの読解だったり内容はまちまちだ。

そんな依頼を挟むときは大抵岩泉からの申し訳なさそうな添え書きがあって、別にかまわないのにと思いながらもその気遣いがいつも嬉しい。

しかしみんな随分マジメなんだな。思ってそれを書けば、んなわけあるかと一蹴された。なんならちょっとスキを見せればすぐ余計な落書きをしようとするので、学校にはノートをもっていかないことにしたほどだという。それで直接の書き込みではなく付箋やメモなのか、と納得した。

楽しそうでいいけどな、と返せば、次のノートには幼馴染さんの字と古典を聞いてきた字、次いで英語の和訳を頼んできた人の字が実に自由に書き込んで来てくれた。ノートのあちこちに散らばる筆跡からして、机に広げたそれを囲んで方々から書いたのだろう。

端っこにホッチキスで留められた飴玉の袋には思わず噴き出した。矢印を辿れば「今週のオススメ!」との一言。横には別の字で「女子力(笑)」とあり、さらには岩泉くんの字で「甘党」の文字。スイーツ男子ってやつかあ、と思ってお礼と共に別の飴玉を五つほどホッチキスで留めて返せば、可愛いウサギが歓喜しているイラストが返ってきた。なんでも別の部員さんにお願いして書いてもらったらしい。一つ余った飴玉を報酬にしたらしいので、「低賃金労働…」と返して飴玉三つを追加すれば、感涙したウサギが返ってきた。実に愉快な人たちである。


名字はなんか部活してんのか?
いや、帰宅部だよ。岩泉は?
バレー!小学校からしてる。(俺と岩ちゃんは超絶信頼関係なんだよ!)←寝言
それはすごいな。じゃあもう10年近くとか?
だいたいそんなもん。及川に関しちゃ不本意だけどな。(←ツンデレ!)うるせえ
じゃあたまに書き込んでくれる人たちも?
おう、ほとんど部員ばっか。騒がしくて悪いな。
とんでもない。楽しそうで羨ましいよ。
部活入らなかったのか?
うん、奨学生で入っちゃったから、成績落とせなくてね。


…余計なことを書いた。何気なく書いたシャーペンが止まる。蛇足だった。でも消し跡を残す方が変に気を遣わせるかもしれない。
数分迷い、結局下に、「運動も人並みだからどこ入ってもって感じなんだけど」と茶化したように付け加えた。

うちの高校は私立でも有数の奨学金制度がある。無論その枠は広くはないが、免除は最大全額、公立に行くより経済的だと判断して受験した。

そういえば、数少ない友人の一人も半分ほど免除されていたっけ。進学科をやめた今となってはすでに奨学生資格を失っているかもしれないが―――もちろん彼女がそんなことを気に掛ける性質だとは思わないけれど。

思いつつ過ごし、ノートが戻ってきたのはその二日後。開いたそこに浮かんだ短い返事が目に刺さった。

そうか、すげぇ頑張ってんだな。

「……、」

何と返されるか想像していたわけじゃない。真っ直ぐな文字と同じくらい真っ直ぐな言葉をつづる彼が、心無い言葉を吐くとはむろん思っていなかった。けれど、返された言葉がこうも刺さるとも思ってもいなかった。

例えば、大変だなとか、そんな類の感想が返ってくるなら、それ以上望めはしないと思っていた。なんなら嫌味に取られても仕方ないと思っていたほどで、でも。

文字をなぞる。シャー芯の鉛を滲ませないように、力を加減するのは難しかった。

「……うん」

頑張ってる。――――頑張ってるんだ、これでも。

噛み締めるように思う。羨まれるような学才や僻まれるほどの天賦の才など何もない。自分の頭のつくりが限りなく凡才のそれであることは自分が一番わかっている。

何一つ努力せずに出した点数でも、褒めて欲しくて出した結果でもない。予習も復習も精一杯で、真夜中まで粘らないと課題も終わらない要領の悪さで、それでやっと出している結果だ。そのギリギリの努力のどれか一つでもやめてしまえば、全部崩れて粉々になりそうなほど、頼りなくて不安定で、「才能」とは程遠い形ばかりの「実力」。

でも私にはそれしかない。それ以外に誇れるものもない。


シャーペンの一文をじっと見つめる。
他人事の距離で、でも水平に、真っ直ぐに。頷くように綴られた字を、瞼の裏に焼き付けた。


171003
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