陽炎に未来を見たのだ

塾だの予備校だの、そういった類に通おうと思ったことはついぞ一度もなかった。


私立青葉城西高等学校、通称青城は県内でも名の知れた私立校だ。偏差値は多分中の上、一流進学校と呼ぶには足りないようだが、それなりの実績に勝って両立される部活動実績は、掲げた「文武両道」を地で行くとして評判が高い。

かく言う俺が青城を選んだのも純粋にバレーのためであり、進学率だの偏差値だのといった細かいことは初めから度外視していた(制服に関しては後に若干後悔しなかったでもない)。

そこそこの成績があって普通に勉強して、専願で受ければ問題なく受かる。バレーで声のかかっていた及川のように内定ありではなかったが、受験に関してあれこれ難儀した覚えはない。むしろ覚えているのは息抜きと称して及川と公園に繰り出し、延々ボールに触れていたことくらいだ。

コンパスが必ず北を指すように、俺の人生の矢印はいつだってバレーを指針にしてきた。それは小学校の頃の生活リズムから、中学や高校の選択に至るまでずっと変わらない。俺にとって進路というのはバレーありきの単語だった。

そんな無鉄砲な自由さが許されるのが十代半ばの幼さの特権であったことを悟ったのは、及川と共に部を任されて臨み、そして敗退した二年の春高後。合同練習で訪れた近隣大学のコーチが立ち話をしているのを、全くの偶然で拾い聞きした時だ。

『このまま行けば、間違いなく引き抜かれるだろう』

並ぶは都内の強豪大学、上がったのは幼馴染の名。思わずはっとし、そんな自分にも驚いた。
チャラいしウザいし面倒くさいが、及川のバレーの実力に曇りはない。推薦の一つや二つ貰ったところで不思議じゃないし、となればバレーで大学に行くだろうというのは容易に想像できた。だが漠然と考えていたそんな認識が現実味を帯びたのはその時が初めてだ。

身体的にも技術的にも、自分は推薦を貰えるほどの選手ではない。悔しくないわけは当然ないが、自分に対する評価を甘くするつもりはもっとない。

ならこの三年を駆け抜けたあと、俺はどうするんだろう。進学するという一言は、大学名も学部学科も、あの三色のボールを追いかける日々の行く先も決めてはくれない。


『岩ちゃんはさ、大学どうするの』

いつもと変わらない帰り道の、今日の晩飯のメニューを聞くような軽い口調で尋ねられたそれに、俺は一瞬言葉に詰まった。多分話を漏れ聞いた数日後だったと思う。そういうお前はどうすんだ、と返せば、及川はなんとも言い難い顔をして黙った。

…また余計なことをごちゃごちゃ考えてんな。自分のことは一先ず棚に上げて胡乱な眼を向けてやれば、図星を突かれたらしい幼馴染は視線を投げつつ言葉をつづけた。

『監督が言うには、見る人が見てれば推薦もあるかもって話なんだけど』
『おう』
『…ていうかまあ、名前もちらっと聞いてて…東京のさ、インカレとか結構いいとこまで行ってるらしくて』
『ふうん』

東京。ニュースだなんだで聞かない日はない日本の首都を表すその固有名詞が妙な現実感を帯び、急に耳に馴染まなくなる。良かったじゃねーか、行けばいいだろ。口の中に入ったままのそんな言葉はどうにも声に乗せ難くて、代わりに核心に触れてこない幼馴染の胸中に踏み込んでみた。

『で、何ごちゃごちゃ考えてんだ』
『…あー…怒んないでよ?』
『内容による』
『そこは嘘でも怒んないって言ってよ!』

無駄に整った造形をゆがめた及川が不満たらたらに文句を投げてきた。うるせぇな、と一発蹴りを入れてやろうかと向き直ってふと足を止める。

見慣れた幼馴染は、雲の切れ間から差し込む斜陽に透ける程明るく照らされていた。黄昏時。及川は思っていたよりずっと真面目で、どこか緊張した顔していて、






「では今日の授業はここまでにします。宿題をお伝えしますね」

は、と顔を上げた瞬間、握るというより指に引っかかっていただけのシャーペンがノートの上に転がった。

じゃあ岩泉くんは、と口頭で告げられる宿題の内容を急いでノートの隅に書きとめる。人数の少なさから自由が利くのだろう、集団と言いつつほとんど個別指導に近い授業では、宿題の内容も生徒によってまちまちだ。課せられたのはワーク3頁と単語30個、文法書から一章分。初めは苦労したメニューも、習慣になった今は昔ほど苦ではない。

「…はい、以上です。何か質問があれば受け付けますのでご自由にどうぞ」

黙っていれば素っ気なく見える面持ちが穏やかな笑みと共に言う。ありがとうございました、と会釈と共に挨拶すれば、おつかれさまです、と同じく会釈を返された。
横に並べば思っているより小さい。同学年の女子がするよりずっと馴染んで見える化粧の下で、同学年の女子がするような目がくるりと俺を伺い見た。

「否定表現はもう大丈夫ですか?」
「、あー…部分否定が、まだちょっと」
「ああ、ややこしいところだね」

また困ったら何でも聞いてください。告げられた申し出に頭を下げ、講義室を出る。そのまま突き当りの自習室へ足を向けた。最終講義が終わってからも一時間ほど開けておいてもらえるここで、俺は大抵出されたばかりの宿題か、学校の提出課題を終わらせる。基礎トレなんかもそうだが、なんでも習慣にさえできてしまえば後は楽に感じるタイプでよかった。

うちの教室の半分ほどの空間、パーテーションで仕切られた自習スペースに身を滑り込ませる。エナメルを置いたその体制から机の中を覗きこんだ。これも習慣になった一つ。右端にきちんと収められたノートの位置は、それが一度取り出され、また戻されたことを示す証拠だ。



月曜のオフの夜八時から90分、週に1コマだけ受講する講義は英文法。つまづいたのは高1の終わり、完全に置いて行かれたのは高2に入ってからだ。

理系科目を中心に平均をキープする中、英語だけが二歩後ろを低空飛行するようになった。なんせ勉強なんて部活に支障が出ないレベルでする程度、少々苦手な科目があっても大して気にしなかったし、大抵は自分で復習すればなんとかなる。
だが直近の模試、試しに選んだ志望校のブロック体の横についた判定はE寄りのD。他科目はともかく、英語は早めに本腰入れねぇと、と思っていたある日、いつもなら確認しない郵便受けの蓋からはみ出ていた青いチラシが、どういうわけか酷く目に付いた。それが今ここにいるきっかけ。


「…すげぇな」

めくったノートに落としたのは純粋な感嘆だった。今回頼んだのは四択問題と並べ替えの解説。付属解答の説明が簡潔過ぎて、自分の答えがなんで間違っているのかさえわからず手詰まりになった問題を複数写したその横に、俺の字と全く違う筆跡が解答プロセスがノート一杯に綴っていた。

お手本のような見やすいノートは少々神経質な印象で、けれどやや丸みのある斜め上がりのクセ字が親しみを感じさせる。及川のに似ている字だ。でもノートは松川に近い。レギュラー陣の中で一番要領のいい松川のノートは無駄がなく、テスト前にはあちこちで引っ張りだこになるのだ。

ただ地頭の良さから理解が早く、基本事項や途中式なんかを結構省く松川と違い、このノートはいつも解法を基本から積み上げてゆく。学力レベルだけ見れば俺より上だと思うが、失礼を承知で言うと、理解のプロセスは凡人型のそれに近い。

特に数学なんかはそうで、一を聞いて十を察すると言うより、一を聞いて三まで察し、あとは反復でモノにしてきたような印象だ。それはしばしばクセ字以上に、別の親しみを感じさせる。


一通りノートに目を通してから、解説を頼んだ問題を解き直す。理解したことはその直後に少なくとも一度は適用しておきたい。
それから次のページをめくる。今日任されたのはなんだろうか。思って見たそこには、これまたノート半分を占めるほどの数式が記されていた。階差数列。

「…あー…」

…なかなか困った。頭を掻く。実を言うと、数Bは数学の中で一番得意じゃない。
顔も知らないノートの相手は恐らく、青城の普通科よりレベルの高い高校ないしコースに通っている。というのも解説を頼まれる問題は中級かそれより上のレベル、理系の俺でも解き甲斐のあるものが大半だ。例によってこの階差数列もなかなかの難問。

学校でも使っている参考書を引っ張ってくる。途中までは理解が追いつくのだが、中間を省いた数式が飛躍を見せるとお手上げだった。

講師に聞こうか。今日は確か、数学担当の男性講師がいたはず。
思って顔を上げようとするも、目に入ったノート一杯の数式に動きが止まる。書いては消してを繰り返したのだろう、試行錯誤の残る黒ずんだ紙面。とうとう行き詰ったらしい最後の数式の末尾にあるaの字が、力尽きたようにひょろりと伸びていた。

視線を流したその下には筆圧の失せたシャーペンが、解説を入れる際にはあったトメハネを放り出し、実に情けない様子でこう綴っている。「もうむり」。
次いでその幾分斜め下には、打って変わって勇ましい筆跡が癇癪を起していた。「数列が!嫌いだ!」。

「っ…くく、」

噴き出しそうになる笑いを噛み殺す。俺もBは好きじゃない。そう下に書き加えてから、ふと思い立って、もう一言付け加えた。それから任された問題をルーズリーフに書き写してノートを閉じる。
明日松川あたりにヒントを貰おう。そうして自力で解くのだ。このノートは多分、教えてもらっただけの答えを書くべきところじゃない。


170925
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