運命の第一歩


きっかけはポストの隙間にねじ込まれた一色刷りの広告チラシだった。


伸び悩んだのは数学だ。躓いたのはUB、とくにB。
一番好きなのは世界史で、得意なのは英語。理科は生物Tと化学。物理がないだけマシだけど、典型的な文系である私にとって、化学にはしばしば死ぬ目に遭わされる。でも国立を望むなら少なくとも数学は避けられない。

模試は実力とセンスに対して正直だ。英語や世界史と違ってきちんと復習してこなかった数学は明らかに足を引っ張っていて、クラス順位はいつだって下から数えた方が早い。

他科目はこのペースの伸びで問題ないが、数学がこのままでは国立は危うい。言われずとも自覚のある事実を二年最後の二者面談にて担任に告げられ、私は閉口した。
数学の担当教師は評判は悪くないのだが、生粋の理系であるためか文系クラスとは相性が悪い。多分理解のプロセスとか躓くところが根本的に違うんだと思う。他に頼れる学校の数学教師は思い浮かばなかった。


そうこうするうちに迎えた春休み、新聞受けに挟まっていた薄っぺらいチラシを引っ張り出したのはまだ雪の残る三月の早朝のことだ。

見当のつく住所と聞いたことのない塾名。進学実績だの受講者の声だのの宣伝文句は見当たらず、あるのは簡潔で必要最低限の情報のみ。売り込む気があるのかないのかわからないブルーのチラシに、しかし私は早朝の凍えそうな外気の中、スウェット姿で釘付けになった。

一科目あたり週一、一か月に四講義で、ぽっきり8000円。週二なら同じ科目でも別科目でもプラス2000円の合計一万円。同じコマ数を取ろうものなら二万を超える他塾とのあまりの差に、まずもって疑ったのは詐欺の類だ。だってこれじゃ絶対採算が取れない。

だがありがちな体験談や数字による売り文句のないチラシはどうにも気になって、私は折り畳んだそれをポケットに忍ばせこっそりと部屋に持ち帰った。
数日悩み、見るだけ見てこようと決意したのは一週間後。思い立ったその勢いだけでアポも取らずに訪れた私を迎えたのは、予想よりずっと若い男性だった。

『入塾希望の方ですか?』

チラシを片手に話だけ聞きたいと告げた私の無礼に嫌な顔を見せるどころか、親の同伴の無い高校生を軽んじることもなく、男性は丁寧な口調だが気軽な調子で案内してくれた。小さなブースの椅子に私を座らせると、彼はまるで自宅に招いたかのように紅茶とクッキーを振る舞った。

受けた説明は簡潔で明瞭だった。講義は平日のみ、開講は夕方四時から十時まで、土日は月に数回、自習室のみ開放で、生徒の希望に応じ日時は変則的。巡回などはないが、講師スペースにて質問するのは自由。
一応全科目対応はするが、講師の数が少ないため指名制はなく、曜日も固定になりやすい。講師の専門でない科目になれば専門科目に比べ授業の質が劣ることもあり、料金の安さはそれゆえである。

破格の月謝の理由に一応の納得がいった私に、しかし男性はごく当然のように更なる好条件を追加した。テキストは不要なら買わずともよし、学校指定のワークや教科書の持ち込みにも対応する。入塾料は不要で、なんなら一週間ほど通ってみて入るかどうか決めても構わない。

大手の相場を知らないので何とも言えないが、いくらなんでも話がうますぎないか。思いはしたがその時点で、私の気持ちはかなり傾いていた。

『それは、仮入塾…ということですか』
『そうとも言えますし、単に見学とも呼べますね』
『授業を受けてもいいんですか?』
『もちろん。自習していって頂いても構いません』
『何か書類とか…』
『見学ですので結構ですよ。自由に出入りしてください』

何事も雰囲気は重要ですから。

労うような口調で微笑む彼を前にした時点で、私はほとんど心を決めた。雰囲気が大切だというのには同感だ。そしてそれならこの予備校しかない。もちろん一週間通ってみて問題があるならやめるが、そうはならないことが不思議なほど確信出来ていた。

ただ一つだけ、私には不安があった。

『あの、ただ。……親が』

忙しくて、いつ来れるか。

男性はぱちぱちと瞳を瞬かせた。じっと見詰められ緊張こそしたが、探る様な色のない眼差しに不快な思いや気まずさはあまり感じなかった。少しして彼は穏やかに笑むと、言葉を選ぶようにゆっくり言った。

『入塾にご両親の同伴は不可欠ではありません』
『!』
『ただし、保護者の許可は必要です』
『…それは、』
『今ご説明した内容をご自分でご両親にお伝えして、署名捺印を頂くことは出来ますか?』

柔らかなまなざしを前に一瞬意味を測りかね、理解して思わず大きく頷いた。言葉もなくただ首を振った私に、彼は必要な書類を渡し、『では明日以降、いつでも気軽においで下さい』と笑ってくれた。冷めた紅茶を飲み干し、礼を告げてビルを出た私の足取りは、久しぶりに力に満ちていた。
越えるべき壁の厚さと高さを思っても、絶対超えてやると意気込めるほどには十分に。



***



「…増えた」

一週間ぶりに出現した机の中のノートの最新ページ、書き記されていたのは二行に渡るかなり長めの英文が二つだった。単元解説ではなく英文解釈を求められるのも初だが、何より問題はそのうちの一つが私の知るトメハネのきちんとした威勢のいい文字ではなく、やや丸文字気味の見覚えのない筆跡だったことである。

英文の下には可愛らしい絵文字と、「ついでにお願いします」の一言。本ノート初の個人的なメッセージは他でもないノートの彼ではなく、初登場の第三者からもらうこととなったらしい。


遡った見開きには私の書いたページ一杯の仮定法の解説。説明直後に実践してみせてくれたのか、練習問題の正答率は七割ほど。いつも以上にキレのいい赤マルが何となく誇らしげで、相変わらず素直なペン先に笑ってしまったのはお約束だ。

自習スペース後ろから二番目、この奇妙なノートコミュニケーションの回数はすでに両手で数えるほどになっている。

授業用ノートを置き去りにして帰るわけにも、彼のノートを勝手に持ち帰るわけにもいかない。そう思い準備した真新しいノートは、交換ノート宜しく交互に書き込まれながら、すでに三分の一を消費されようとしていた。

この丸文字の主は彼のご友人だろうか。もしかして同じ塾生なら、岩泉くんの特定はぐっと容易になってくる。この塾で同じ制服を来た塾生を見るのは稀なのだ。否、あるいは彼女さんだったりして。この丸文字なら女の子という可能性も十分ありうる。

それはさておき、和訳かそれとも文構造の解釈か。親切なのは両方だろう。見たところ倒置と挿入を組み合わせた厄介なつくりになっている。恐らく単語も多義語を使用し、文脈で意味が変わるタイプだ。
文構造の解説を入れ、重要イディオムと構文をまとめる。さてそれじゃあ訳してみるか、と思ったところでふとシャーペンを止めた。

「……、」

数学のノートを取り出す。完全にお手上げの問題で丸写しした解答の、それでもよくわからない点にクエスチョンマークを入れておけば、角ばったシャーペンはいつもその横に、解説が省いた数式を書き込んでくれる。だが途中まで解いて投げ出した問題であれば、ミスしたところから軌道修正をかけ、使うべき公式を記してくれるだけだ。答えまで導き出されていたことは、思えば一度も経験がない。


私はシャーペンを置き、定規を取り出して、解説の下の空白に四角い箱を作った。矢印と一緒に「解答」を書き込む。ちょっと迷ったが、ついでに丸文字の下に初めてメッセージを加えることにした。とりあえず顔文字と一緒に、「もしかして彼女さんですか?」とする。

…しかしこれで岩泉くんないし岩くんが「くん」じゃなかったらどうしよう。イチちゃんとかだったらとんでもない勘違いかつあらぬ疑惑をかけていることになるんじゃないか。いやでもこの豪快な字は男の子にしか見えないし。…いや、もう書いてしまったんだ。なるようになれ。

しかしそう思って机に突っ込んだノートがその翌々日、過去最高記録の速度で返却されるとは、この時の私は夢にも思っていなかった。



「…あれ?」

いつもの癖で覗きこんだ引き出しの中、明らかに位置を変えたノートに、私は眼を瞬かせた。もう返却されたんだろうか。それか別の人が気づいて取り出し、戻したせいで位置が変わったとか?
怪訝に思いつつ開いたページにはしかし、やや走り書き気味の筆跡で枠をはみ出た解答と、欄内にきちんと収まった小ぶりの丸文字の和訳が一つずつ書き込まれていた。間違いない、返却されている。だが何より目を引いたのはその和訳ではなかった。

私が加えたメッセージの真ん中、「彼女さん」の文字を勢いよく横切る、赤ペンの豪快なバツ印。
その下には同じ赤ペンでそのまま書き加えたのだろう、過去最高に不機嫌な筆跡でたった一文字こうあった。

「男」。

あ、やってしまった。思った途端笑いを堪えられなかった。

「ふっはは…!」

心なしよれて皺が出来てページと、二割増しの筆圧で疾駆した赤ペンが語る猛烈な憤慨。それだけだったら間違いなくこの失態にヒヤッとしたかもしれないが、なんせその下の無数の「w」が完全にシリアスを相殺しているのである。

言わずもがなの大爆笑。壮大に広がる大草原。その真ん中あたり、wの羅列に埋まるようにして、実に楽しそうな丸文字が「幼なじみです」と綴っている。少し下にはボールペンでぐちゃぐちゃに消された文字があり、何とかして読み解けば、あの丸文字が「ちなみにフリーだからご安心を」とのたまっていた。ご丁寧にハート付きである(しかも見たところ無駄に書き慣れている)。

最後の数文字がひしゃげているのは妨害を受けながら書いたからだろうか。なんとまあ、…この可愛らしい文字を書く幼馴染さん(男)とやらはとんだ愉快犯らしい。


160919
読み返せば名前変換箇所がございませんでした。すみません。
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