隣の芝生のないものねだり

模試の結果が返ってきたのは週明け、月曜の朝だった。

「ヤバイどうしよ、私英語の偏差値55切りそうなんだけど」
「えーいいじゃん私なんて数学74点だよ?二流私立で判定Cとか、親にまたいろいろ言われるわ…」

一気に騒がしくなる教室の中、手渡された結果用紙をそっと開く。この前のセンター模試ではなく、記述模試。各々200満点中のスコアは英語が121、国語が132、数学が91。センター模試とのドッキング判定はD寄りのC。

春先は浪人生が平均点を上げに来る季節、模試の結果が思わしくないのはよくあること。担任が淡々と告げるそんな言葉は右から左に流れる中、私は重くなる心臓を叱咤して指先に力を込めた。

前回はB寄りのCだった。それにスコアそのものも下がってる。平均点が上がって偏差値が下がるのは仕方ないとしても、模試そのものの難度が急激に上がったわけじゃない。スコアが下がる原因は、純粋に自分の実力だ。

「ねーねー名前は?」
「うん?」
「結果!どうだった?」

斜め後ろからかかった声に肩越しに振り返る。好奇心以外の何かを含ませた視線に、丸めた用紙を何気なく折りたたみながら肩をすくめた。

「あんまりかな。判定も良くないし」
「ええー嘘、そんなこと言って普通にBとかでしょ?」
「やあ、そんな良くないよ」
「えっ、じゃあC?」

躱しが利かない。明確な返答を引き出すまで食い下がる気だろう。ぼかした返事をめくり上げるような眼差しに、ざらつく舌へ言葉を乗せた。

「うん、そう。D寄りのね」

視線は外さない。言葉を急いではいけないし、口元の笑みを崩してもいけない。努めて何でもないように言えば、きっとそれが気に入らなかったんだろう、友好的に見せただけのクラスメートの笑みが崩れた。

「ふうん、そっかあ。残念だったね?」

でもいいじゃん、名前、頭良いんだし。

こういうタイプの子は、人の成績を聞いても自分のそれを明かすことは絶対しない。でも聞いた相手と比べてどうだったかはその後の態度から丸わかりだから詰めが甘いと思う。

「どこでも選べる人っていいよね」
「……」

捨て台詞と呼んでいいだろう。いちいち傷ついてやるだけの価値も無い、そんなこともわかっている。
ただ頭でわかっていることに心が追いつくかと言えば、私はまだそう人間が出来上がっていない。悔しいのはそれだけだ。

私を勝ち組のように扱うこの子のような受験生は多分どこにでもいる。でも実際のところ、『頭が良ければ』『どこにでも』行けるほど世の中も現実も単純でない。それを知らずにいられる彼らの方が、彼らが気づいていないだけで、私にとっては勝ち組そのものなのだ。




学校が終わったその足で予備校に行くことができればいいのに。今日はとりわけ一分でも早く、英単語と古文単語でルーズリーフごと頭も一緒に埋めてしまいたい。けれど自分で決めたルーティンを崩すわけにはいかないという意地だけで、今日も家に一時帰宅する。

朝の一件などなかったように挨拶してきた友人らに同じようにいつも通りの挨拶を帰して教室を出、目一杯の速度で漕いだ自転車で家に帰る。
一日最低二つ家事をする。そう決めたのは二年の終わりで、今のところ熱を出したり模試で一日家にいなかった時を除けば、達成できなかった日は殆ど無い。

正直体力的に堪える時もある。でも普通科に通う運動部の友人は毎日きつい練習をこなしながら、進学科でやっていけるだけの成績を維持しているのだ。
「んなん人それぞれだろ」、なんて興味なさげに言ってのけるゆるいスタンスは、知り合ってからずっと私の目標で憧れだ。そう言うと彼女はいつも、「それ担任に言うなよ。あたしが余計な影響与えたみたいに言われるだろ」と顔をしかめるので、公言はしていない。

名字はアレだな、生きるの大変そう。

馬鹿にするでも憐れむでもない、傷んだ前髪の下で呆れたように笑って言われたそんな台詞は、腹が立つどころかすとんと胃に収まった。むしろ確かにそうだなあなんて頷いたくらいだ。随分前に言われたそれで、なぜだか何か許されたような気持ちになったのをよく覚えている。

ルーティンが決まっている分、いつもより効率が悪く無駄が多いのは自分で嫌というほどわかった。自己分析は苦手じゃない。雑念が多いのは心と頭が落ち着いていないからだ。鞄の中身を詰め終えた時刻はいつもより10分遅かった。

「、!」

がちゃん。ドアの錠が解かれる音がする。おにぎりを握りつつ振り向けば、買い物袋を抱えた母さんが玄関から姿を現したところだった。

「おかえり」
「ああ…ただいま」

ラップに包んだ混ぜご飯を固く握る。手早くシンクを空にしてキッチンから立ち退けば、母さんは何も言わずに冷蔵庫に食材を片づけ始めた。それを横目に、鞄を背負って玄関へ向かう。

「何時に帰るの」

ローファーにつま先を押し込んだその時、後頭部にぶつかった平淡な声に足が止まった。振り向いた母さんは、最近ずっと同じの、どこか硬いままの表情をしていた。私は努めていつもと同じ声で応じた。

「いつもと同じくらいかな」
「ご飯はどうするの」
「適当に食べるからいいよ」

母さんにはシュンの迎えもあるし。
ついでに出てきそうになったそんな一言を寸でのところで呑み込んだ。そんなつもりはないにしろ嫌味と取られるには十分だろう。

会話には力が要る。喧嘩になってしまえばもっと力が要る。力どころか心すら削り取る。なら黙って呑み込む方がいい。上手な消化の仕方は目下絶賛模索中だ。

「行ってきます」

返答は求めていない。待つ間もなくドアを閉め、私は今度こそ走って自転車置き場まで向かい、カゴに鞄を投げ入れるようにしてペダルを踏み込んだ。






「あらこんにちは名前ちゃん。今日も自習ですか?」
「、はい。こんにちは」

ガラス戸を押し開ければ、いつも通り蛍光灯の白と静寂に包まれた空間、そして講師スペースに腰掛けた先生の姿があった。邪気なく柔らかく笑まれ、不意に息が抜ける。スリッパに履き替える私をじいっと見ていた先生が、試すような口ぶりで尋ねた。

「コーヒーでも飲みますか?」
「あー…すみません、じゃあ、頂きます」

気持ちがささくれている自覚はあった。恐らくそれを見抜かれたのだろうという認識も。でもまさにその通り、このまま自習しても集中できないのは目に見えている。思って、いつもならもう少し遠慮するところを言われるがまま腰掛けた。ケトルが音を立て、しばらくすると引き立ての豆の良い香りが広がった。

「ミルクと砂糖はどうします?」
「お願いします」
「心得た」

時折抜ける敬語と軽快な口調は多分、こちらがこの人の素なんだろうと思わせる。冬場は肩まであった髪が男並みに短くなったのは春先のことだ。私も真似してみようか。思いながら渡されたマグに口をつけると、ほうっと息がこぼれ出た。

「お疲れですか」
「いえ、…いえ、少しだけ」

反射で否定したのを、濁して結局取り消した。先生はマグを傾け、ふっと息をつくように笑い、少し間をおいて話し出す。

「この時期から真剣に取り組む子は、時たま人より苦労するみたいでね。周りはまだ受験一色ってわけじゃないから、『流れ』が出来てないって言うんでしょうか」
「、…」
「何をするにも、名前ちゃん、流れに逆らうのは大変なことですね」
「……そうですね」

多分向けられている眼差しは温かいもので、だからこそ目を合わせられず、私はじっと講師スペースの白いテーブルの隅っこの茶色い染みを見詰めていた。先生の言ったことは多分当たっていて、でも全部を知っての台詞じゃない。それが当たり前で、だからこそ有難い。

先生はそれ以上を語らず、この前買った輸入チョコが砂糖の塊みたいだったと愚痴をこぼして、にも拘わらずそのチョコを私にくれた。本当にびっくりするほど甘くて顔をゆがめたら、先生は呵々と笑ってさっきより苦めにコーヒーを継ぎ足してくれた。
講師としての落ち着いた佇まいを時に突如放り投げ、近所のお姉さんのような気安さで遠慮なく笑うこの人の緩急激しいスイッチの切り替えが、私はそんなに嫌いじゃない。

なみなみとつがれたマグを持って自習スペースに入る。今日もいつものお気に入りのスペースは空いていて、見覚えはあるが学校は知らない制服姿の塾生さんもいつものスペースに腰掛けていた。
みんな各々気に入りの席があるんだろう。思いながら椅子に座って、いつも通り鞄から単語帳を取り出す。折り曲げた身体を戻そうとして、気づいた。引き出しの中にまたノートが残されている。

「!」

取り出してみてさらに気づく。この前のものではなく、私自身のノートだ。しかも学校用ときた。鞄は毎日整理してるのに、持って帰ってないことにどうして気づかなかったんだろう。
ぱらぱらとページをめくれば、不意に最後当たりのページの端が折れているのに気づく。なんだろう。開いてみて息を呑んだ。

「…これ」

ノートの最新ページ、解答の解説すら理解できず赤ペンで書き写しただけの計算式の下。見覚えのないシャーペンの黒が、罫線いっぱいの数式で余白を埋めていた。

フリーハンドの図と矢印、それを辿った先には方程式。言葉による説明は殆ど無い。けれどずらりと並んだ式は、解答解説では省略されていたプロセスを余さず含んで解答にまで伸びている。

筆圧の濃い角ばった字は見覚えがあった。記憶より随分丁寧に書かれているが、関係詞の解説を途中まで写し、最終的に投げ出した素直な筆跡に酷似している。

数式以外に残された文字はない。名前もメッセ―ジも何も。けれど確信する。この人は私が見つけたあのノートの持ち主と同一人物だ。瞼に蘇る角ばった黒マジック―――岩泉一。名前からして、たぶん男の子。

「…こんなのあるんだ」

でもどうして私のノートだとわかったんだろう、と一瞬考え、すぐに私がしたのと同じく筆跡からかと思い至る。自慢じゃないがお世辞にも模範的とは言えない私の字には、見てそれとわかる癖がある。あのルーズリーフと並べれば一目瞭然だろう。

そんなことを考えながら、ぺらり、なんとなしにめくった次のページには、さらなる青春ストーリーばりのサプライズが待ち受けていた。
ページの隅っこ、罫線を無視して斜めに横断する、独り言に近い走り書き。

『仮定法わかんねぇ』


「ふっ…!」

数式を綴っていたそれよりやや荒れた筆跡の不機嫌そうな不満に、思わず息だけで噴き出した。気持ちがふわり、軽くなる。嬉しい話だ。これはどうやら、前回の説明がお気に召したのかもしれない。


160908
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