黎明を呑み込む

「名前ちゃん、もう上がりなさい」
「え、でもまだ」
「いいのよ、今日はお客が少ないからね」
「…、すみません、じゃあ」

戸閉まりを始める奥さんに頭を下げる。きっと切り上げた30分ぶんもお給料は支払われてしまうのだろう。そんなご夫婦だからこそ、勤務時間は一分たりと無駄にせず働こうと思っている。


下町にあるこの食堂で雇ってもらえたのは、友人の一人がここの老夫婦の自宅兼店舗の向かいに住んでいるという近くも遠い偶然の縁からだ。
仕事の内容は種類を問わない雑務一般。品出しをすることもあれば買い出しのお使いをすることもある。週に一日、大抵は三時間ほど、納品などの力仕事が多い日に合わせて働き、毎月7、8000円ほどお給料を頂いている。その大半が塾の月謝になることを知っているのは、ここの老夫婦と紹介してくれた友人だけだ。

「今から勉強か」
「、はい。お疲れさまです」

エプロンを脱いで鞄に仕舞っていれば、後ろからぶっきらぼうな声がかかった。この唐突さに慣れたのはごく最近だ。レジの奥側、暖簾のかかった奥の畳の間から、ゆっくり出てきたご主人をふり向きながら応じる。

「ご主人、今日は具合、いかがですか」
「変わらん」
「そうですか」

相変わらずの返答に苦笑する。これはもう様式美なのだ。調子が良くても悪くても、多分、返ってくる返事は変わらない。
鞄を抱えて挨拶を済ませ、店の勝手口から出ようとしたとき、奥さんがビニールの袋を差し出して言った。

「名前ちゃん、これ持って帰んなさい」
「これ…?」
「あの人が名前ちゃんにって」

白い半透明の袋から透けて見えたのはどら焼きだった。思わず顔を上げる。声を潜めた奥さんが可笑しそうに笑って付け加えた。

「年頃の娘さんには似合わないでしょうけど」
「いえ、そんな。嬉しいです。甘いもの好きなんで」
「お勉強、頑張ってね」
「はい」

三日月みたいに細まった目と、手のひらにひっかかるビニールの重みを指に馴染ませる。なんの打算も含みもない激励はいつだって気負わず頷くことが許されていて、それは本当に有難いことだ。




自転車を飛ばして予備校についたのは19時頃だった。講義は20時からだから、あと一時間は自習できる。今日はいつものノルマのあと現代文を一つと、授業後には生物のセンター用問題集を解くつもりだ。特に遺伝の分野が怪しい。

ガラス戸を押し開ければ、カウンターに人影はなかった。管理者不在を絵にしたような光景だ。わりといつものことなんだけど、ちょっと不用心すぎやしないかと思う。

人気のない自習室のいつもの場所に腰掛ける。下ろした鞄からテキストを取り出そうと背中を折り曲げて、ふと机の引き出しにノートがあるのに気づいた。忘れ物だろうか。身を起こして取り出す。角が折れた青い大学ノートの右下には、幸い名前が記してあった。

「…いわいずみ…?」

岩泉一。なんだろう。いち、と読むのは単純すぎる気がする。最近は中世的な名前も多いけど、この枠をはみ出す勢いときちんとしたトメハネの共存する字は、女の子よりかは男の子っぽいか。

ノートを手にした惰性でページをぱらつかせる。科目は英語。文法テキストを順に解いているようで、これまた威勢のいい赤マルとバツの数にはバラつきがあった。

赤字の多いページに行き当たり手をとめる。関係副詞。文法の復習中なんだろう、正答を書き直す赤ペンは不機嫌に荒れている。随分と素直な字に思わず苦笑した。私だってノート半分使って出したベクトルの答えが的外れだったりしたら、その後に書く模範解答はほぼ八つ当たりの筆跡になる。

余白の解説は参考書を写す半ばで挫折したようだった。きっと丸写しじゃなく理解しながらまとめようとしたんだろう。消し跡の残す努力の痕跡、黒鉛でぐしゃぐしゃと塗りつぶされた端っこに滲む苛立ちの名残。

ちょっと短気なタイプなんだろうか。でもわざわざ参考書の解説を写して理解しようとする真面目さと気概も伝わってくる。

「…よし、」

ルーズリーフを一枚取り出し、自前の参考書を開く。英語は得意科目だ。特に関係詞は予習復習を徹底してモノにした得点源で、英作でも使い物になりつつある。復習の機会にもちょうどいい。

カラーペンをとっかえひっかえ、できるだけシンプルに、けれど誰が見てもわかってもらえるよう意識して解説を書く。最後に半分に折り畳んだそれを付箋のノリ部分でページに張り付け、引き出しに戻した。なに、塾が同じだけで顔も知らない学生さんだ。お節介だったら捨てられてそれで終わりだし構わない。…流石に後日ゴミ箱の中でぐしゃぐしゃになってるのを発見したくはないけれど。

気合いを入れ直し、現代文のテキストを引っ張り出す。さて、授業まであと40分。




いつも通りわずか四人で受ける講義が終わり、たっぷり餡のつまったどら焼きを頬張って、閉室寸前まで粘った生物の演習はまずまずのスコアだった。だが未だ六割前後、目指すところは八割台。底上げを始めたばかりの数学がまだ足を引っ張る現状、トータルスコアで七割を超えるには他科目のブラッシュアップを外せない。

時計を確認すれば10時に迫ろうとしていた。流石にそろそろ帰らなければ。急いで勉強道具を片づけ、先生に挨拶を済ませる。気をつけて、と背中に短い気遣いをくれたのは数学担当の男性講師で、眼鏡の奥の落ち着いた眼差しにお礼を告げて頭を下げた。そうしてさあ出ようとガラス戸に手をかけた瞬間、ぶわり、目前で翻る扉の風圧で前髪が舞い上がった。

「!」
「ぅおっ、」

思わず反射で凍り付く目前で大きな体が急停止する。ほとんど胸元に飛び込むような体勢に息を呑む間に、たたらを踏んで仰け反った相手の上背に惰性だけで後退った。はたと見上げたそこには大きく見開かれた猫目。あ、この人この前の。依然見たジャージとは違う服装は何かの練習着だろうか。

「っわりィ!大丈夫、っすか」
「あ、いえ、全然」
「すんません、全然見てなくて」
「や、私の方こそすみません」

焦った様子でこちらを伺う彼に首を振る。とは言え実際あと一歩分踏み出していればガラス戸に顔面強打していたのは彼にも筒抜けで、まだ何か言いたげだった彼に「何ともないですから」と畳みかけた。

どうしたの、今日はもう講義は…。あ、いや忘れ物で。
そんなやり取りはゆっくり閉じる扉に呑み込まれ、ガラスに反射する蛍光灯が大きな背中を塗りつぶしていった。


170825
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