The beginning in spring.

鋏で細く切り取った封筒の端を、ゴミ箱に押し込まれた余計なプリントの隙間に差し入れた。細かく並ぶ数字を見詰め、瞼の裏に一つ一つ書き記してゆく。
点数は横ばいのままだ。ボーダーまではまだ、3割足りない。


制服のまま部屋を出て、手始めに風呂を洗い、水をためる間に食器を洗って、足早にベランダへ向かい洗濯物を取り込んだ。

台所にて手早くおにぎりを握る。中身はわかめとゴマ昆布のふたつにした。部屋に戻って学校用の鞄から不要な教科書を取り出し、今日のメニューに必要なテキストと参考書だけを詰め込む。
出発準備完了、最後にリビングに残す書置きのため、メモ用紙を引っ張り出した。

「…帰りは…10時でいいか」

何時に帰ろう、と考えたところで、どうせ閉室まで居座るのがデフォルトだ。塾に行きます、と書いた一行の下に帰宅時間を書き加える。
結局いつもと同じなら書かなくても、と思わないでもないけれど、ずっとそうしてきたものをいきなりなくして事件性でも疑われたら大変だ。迷子か失踪扱いであったとしても警察にはまだお世話になりたくない。

「行ってきます」

静まり返った玄関先でドアを閉める。共働き家庭および弟が帰宅の遅いスポーツ少年な我が家には、お姉ちゃんを送り出す声は無いのである。寂しくなんかない。いや別に泣いてなんかないから。






予備校に通い始めたのは、ちょうど一か月ほど前からだ。

駅前の全国チェーンで有名な学習塾が立ち並ぶビルをすり抜けた先に、私の通う『予備校』は存在する。カッコつきなのはそれを予備校と呼んでいいものか、一か月たった今でも若干迷うからだ。

何せ場所は駅ビルの裏に張り付くようなさびれたビル(五階建て)の四階奥、学校の教室の三分の二ほどの自習室と、同じくらいの講義室が二つきり。良く言えばコンパクトな、正直に言えば頼りなく、個人的にはモブに釣り合う地味具合。だから別に泣いてなんか以下略。

全国展開の大手とは程遠い聞いたことのない名前と、働く講師は常時二人、いても三人でいなければ一人。となれば受講できる科目は曜日ごとに固定されていて、講師も選り好みは出来ない。どう考えたって自分の進路を委ねるにはコンディションが悪い。

それでもこの予備校に入塾したのは、ポストにねじ込まれていた安っぽい一色刷りのチラシの破格の月謝と、講師と教室の持つ空気ゆえだった。

「あらこんにちは名前ちゃん」
「こんにちは」

ガラス張りの重い扉を押せば、いつもと同じスーツ姿の先生が講師スペースのに腰掛けていた。彼女の専門は英語で、数学しかとっていない私が直接授業をもってもらうことはない。けれど自習に来るたび和訳や英作文の添削はないかと声をかけてくれるこの人に、私は少なからずお世話になっている。

「おっと名前ちゃん、コーヒー飲みますか?」
「え、いいんですか?」
「それがですねえ、美味しいの見つけたんですよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」

悪戯げな子供のように笑う姿に頬がゆるむ。何かしら食べるか飲むかと構ってくれるこの人の年は聞いたことがないが、多分そんなに離れてないんじゃないだろうか。大学生でアルバイトなのか、新卒の社員なのか。教室のことをよくわかっているようなので、多分ベテランなんだとは思う。

「先生は今日授業ですか?」
「そうなんです。新しい子が来るらしくってちょっとナーバスなんですよ」
「表情筋からナーバスがログアウトしてる感じですけど」
「あらやだ失礼しちゃうわ。これでも人見知りなのよ私」

実にわざとらしい言葉遣いで言ってのけ、茶目っ気たっぷりに笑う先生からマグカップを受け取る。えこひいきになりません?尋ねれば、自習特権よ、ところころ笑われた。色濃く香る豆の香りが心地いい。

「そうそうその子、名前ちゃんと同い年なんですよ。もし何か困ってたら助けてあげて下さいね」
「、はい」
「今日は添削ありませんか?」
「いいんですか?じゃあ、あとで持っていきます」
「いつでもどうぞ。テーブルに出しといてくださいな」

マグ片手に自習スペースに向かう。ちらほらと見える制服は同い年の塾生だろう。立地が悪いし大手でもないからだろうか、ここの生徒は私の知らない学校の人ばかりだ。さらに言えば同じ制服を複数見ることもほとんどない。これに関しては私語が起きないのでむしろ歓迎だけれど。

とりあえずいつものルーティンをこなすべく、単語帳を引っ張り出した。昨日覚えた範囲を確認し、それから今日の分に取り掛かる。小難しいことを考えずルーズリーフを埋める単調な作業は多分、私にとって自習のスイッチになっている。

一通りのノルマをこなしたころにはマグが空になっていた。時計を確認すれば19時前。もうすぐ授業が始まる頃合いだ。お礼に飴玉をいくつか掴み、マグと一緒に添削をお願いしたいプリントを持って自習室を出る。カウンターを覗けばしかし、先生の姿はなくなっていた。もう授業に入ったんだろうか。思いながら再び時計を振り仰いだその時、不意にガラス戸が押し開けられるのが聞こえた。

「、」

ぱちん、噛み合う視線に思わずたじろぐ。つんつんした黒髪と、ややつり上がったきつめの猫目。意志の強そうな瞳の真っ直ぐさに思わず息を呑み、次いで慌てて目を逸らした。代わりに目に飛び込んできたのは、白地にエメラルドグリーンが眩しいジャージと大きなエナメル。見るからに運動部とわかる出で立ちにふさわしく、ガラス戸を潜るように入ってきたその背丈は私より頭ひとつと半分は大きく見えた。

「っ、と…」

とりあえずと言った様子でガラス戸を閉じたその男の子は、しんと静まる玄関口を所在なさげに見回した。塾生、ではないのだろうか。思ってはたと思い出す。確か今日新しい子が来るって―――え、でも「子」って言うから私てっきり女の子だと。いや、確かに先生からしたら男子も女子もみんな「子」どもになるか。

「…すんません、先生って…」
「あ、多分もう授業に」
「え」

やや戸惑った様子で声をかけてきた男の子は、私の返事にその猫目を大きく見開いた。慌てて手首を確認する彼に、私は急いでフォローを入れる。

「遅刻とかじゃなくて、ここ、10分前に始まったり延長したり、結構自由なんで。講義自体はまだ始まってないと思います」
「あ、そうなんすか」

男の子はちょっと表情を緩めると、こちらに向かって歩いてくる。やはり大きい。近づけば明らかに見上げなければならない背丈にややたじろぎながら、私は廊下を覗きこむ彼に、動揺を悟られないようにしながら告げた。

「講義室はあっちで、反対に曲がれば自習室です」
「あざっす」
「いえ」

ぺこり、軽い会釈と共に講義室に消えてゆく背中を見送る。ややぞんざいな物言いと鍛えられた体躯に馴染みはないが、体育会系の感じの良い礼儀正しさは十分伝わってきた。多分あれがスタンダードなんだろう。

コーヒーのお礼と添削をお願いする旨を付箋に書き残し、プリントと一緒にカウンターの内側へ置く。戻りがてら講義室の窓を覗けば、受講者は四人。多分講義が終わればいつも通り個別指導の様相を呈してくるのだろう。塾生が少ないため自然と個人指導が手厚くなるのだ。

その真ん中程、先ほどの男の子が筆箱やノートを出すのが見えた。ジャージは脱いだのだろう、Tシャツ一枚の姿を横目に思い出す。AOBA―――アオバ。背中に見えたローマ字は途中までしか読めなかった。どこの学校なんだろう。

170807
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -