昔話の残滓に寄せて
「先生は、いつからご存知だったんですか」
底にブラックコーヒーが注がれたマグのもう半分を、湯気をあげるミルクで嵩増しする。一対一の割合、砂糖はあってもなくてもいい。この豆に一番合うバランスで入れたカフェオレを前に、切り出した少女の声は普段以上に落ち着いていた。
回りくどさを排した端的な問いかけだ。文法問題に躓いた時と同じ、名前はいつも自分のわからないことの中核を提出する。
だが今回ばかりは自分は、この少女が論理的に納得できるだけの理論や公式を提示する立場にいない。
「…"いつから"、と聞くあたり名前ちゃんは、私がすべての謎解きを担うキーマンであると思っているようですね」
「…実際そうですよね」
「私を買い被り過ぎですよ。ついでにそう怖い顔しないで下さいな」
苦笑する講師にしかし、名前は眉間に入れた皺を消さなかった。もってまわった言い方をするのはこの英語講師の十八番だ。舌も頭も回る彼女との会話は決して嫌いじゃないが、気を抜くとどこで何をはぐらかされるかわからないことはこの一件で嫌というほど実感している。
名前の当然の不審に、しかし講師は最早何かを隠し立てするつもりはなかった。否、彼女はもとより何かを隠してきたわけではない。ただ聞かれたこと以上に話しはしなかっただけだ。
「私も名前ちゃんと同じです。つまり、"自分が経験したこと"以上に知っていることはありません」
「……、は?」
言われた意味を考え数秒、行き当たった推測に名前は瞠目して英語講師を凝視した。湯気を立てるマグに口をつけた講師は、笑んだ眼差しだけで答えを促す。
「それじゃ―――先生も?先生も私と同じ…?」
「全く同じというわけではないんですがね」
それゆえに答え合わせが出来ないのだ。起きた事象は同一でなく、帰納するにも手元にある類例は僅か二つ。法則性を割り出して公式を構築するには手札も材料も余りに拙い。
「つまり私は、ここで起こる一連の事態のからくりを全て把握する黒幕ではありません。ただ名前ちゃんと似た"何か"に、名前ちゃんより少し早く巻き込まれただけの人間です」
その私の経験談でよければ、洗いざらいお話ししましょう。
相変わらずよどみなく、よどみない論述すぎて少々芝居がかってすら聞こえる口上でそう前置いた英語講師を、名前はしばし黙って見詰め、それから一つ頷いた。
「名前ちゃんと岩泉くんはノートでやり取りしていたようですが、私の場合はほぼ完全に文通でした」
先生がこの予備校に来たのは、高校二年の冬だったという。
私がそうであるように、先生の周囲にも同じ学校の級友はおろか、見覚えのある近隣高校の制服さえ見当たらなかったらしい。
見知らぬ相手との文通が始まったのは高校三年の春、きっかけは机に残されたプリントの切れ端の落書き。何気なく描き添えたイラストのやり取りは一言メッセージへ、最後にはレターセットを使ったやり取りに変わった。その頃には互いの学校生活や受験勉強、友人関係なんかのプライベートな話をするようになっていた。
「既視感と、同時に違和感も覚えたのはその頃です」
まず引っかかったのは筆跡だった。学校行事、所属する部活、学校にいる変わった先生。プライバシーもあるので互いに個人名を書くことは避けていたため確証はない。だが何となく覚えがあるような、けれど同時に記憶と噛みあわないような、その違和感の中核にはシャーペンが綴るその字体があった。
その違和感の正体は、ある日何気なく掃除した机の引き出しから現れたという。
「幼馴染の字に似ていたんです。中学に上がってすぐに引っ越した、同い年の」
「!じゃあ、その幼馴染さんは、遠方に引っ越してたのに―――?」
「いいえ、隣県です。それも県境でしたから、多少足を伸ばせばここにも通える距離でしたよ」
…ということは、私と岩泉のように、物理的に同じ塾に通えるはずのない者同士がこの空間だけでエンカウントした、という話ではないのか。思わず食い気味に結論を急いだ私をやんわり遮ると、先生はマグのコーヒーを一口飲み、続けていった。
「それに、幼馴染であるはずがなかったんです」
「それは…なぜ?」
「彼女は中学三年の半ばで、交通事故に遭って命を落としていましたから」
準備された言葉をそのまま音にしたような、そんな事実の提出を前に、私は思わず言葉を失った。
引き摺るような悲しみは感じられない。亡骸を前にした湿り気は無い。ただ乾いた、古いアルバムの後ろの方、ずっと昔の一ページに収めた写真を見詰めるような。
掠めるように見出したその心の凪に言葉をなくした私を気に留めることなく、先生は落ち着いた口調で語り続けた。
先生は相手の文通相手に名前を確認することはしなかった。幼馴染の筆跡も一発で照合可能なほどの癖字ではないし、きっと他人の空似(「文面なので正確には"他筆"の空似ですね」)だろう。
懐かしさと片付けるにはしっくりこない一抹の違和感をもみ消した先生は、その数か月後、その解釈を裏付けるような意外な事実を知ることになる。
「実はその子、受験生は受験生だったんですけど、高校受験を控えた中3生だったんですよ」
「え、予備校なのに?」
「私もそう思いました。この予備校に中等部なんてあっただろうかってね」
当時も今と同じく、マイナーどころか個人経営ばりの小ささとはいえ、この塾は"予備校"の看板を下げていた。その名は一般的に、大学受験を控えた高校生向けの学習塾を暗示するものだ。
「何かが奇妙しいとはっきり確信したのはその時でした」
もはや無視できないざわつきを感じたのは、しかし先生の側だけのようだった。文通相手はむしろ、数か月もの間互いを自分と同い年と思い込んでいた勘違いが大層可笑しかったらしい。どうりでたまに話が噛みあわなかったのかと、楽しそうに文字を躍らせるだけだったという。
だが文通相手の興奮が冷めやらぬうちに、事態は急展開することになる。
それは当然の流れのようでいて、今思えば仕組まれていたのではないかと疑うようなタイミングだった。まるで私と先生がそうであるように―――あるいは岩泉と私が、互いの高校名を知らずにいたように―――互いの学年に話が及んで初めて、彼女は自分が文通相手の年齢はおろか、名前も知らなかったことに気づいた。
ていうか私ら、自己紹介すらまだだったよね。
そう無邪気に綴られた下に並んだ文字に、先生は凍り付いたという。
中学校名と学年の横には、先生の幼馴染の名前があった。
「…え?」
言われた意味を考え数秒、けれど聞き返したニュアンスは最初に驚いた時とは全く違った。
異常に喉が渇いていく。耳元で鳴り響く心臓が煩い。
「先生、でもさっき―――幼馴染さんは、中学で転校したって」
「ええ」
「それで―――その数か月後には、」
「ええ、事故で死にました」
掴み取ったいびつな理解がごとりと心臓を圧迫する。そこに集まる血液が、温度を失って潮のように引いてゆく錯覚。絞り出した声が震えるのを隠せなかった。
「それじゃ、先生は」
三年前に亡くなった、幼馴染と?
宮城と東京、文字化けする検索結果。この事態に話の整合性を求める方が間違っていることは私とて経験からわかっている。
でもこれは度が過ぎている。場所云々で済む話じゃない。
だってそうだろう、それじゃ―――それじゃ本当にホラーじゃないか。
だが戦慄する私に、先生はいつもと変わらぬ―――わずかなニアミスであと少しのところを正解に行きつかなかった生徒に見せる笑顔を浮かべ、かぶりを振った。
「惜しい。正確には、"三年前、事故に遭う前、まだ生きていた時の"幼馴染です」
「!」
「彼女が事故に遭ったのは中学三年の八月末、新学期も間近の頃でした。名前がわかったのは八月半ば―――彼女の命日まで、二週間を切った頃でした」
理屈も理論もわからない。でも同姓同名の他人と考えるにも誰かの悪戯にするにも、現実があまりに出来過ぎていた、と先生は語った。
その"現実"を確かめるために、尽くせる手は尽くした。彼女の家族に連絡を取ろうとした。電話はつながらなかった。転校先の学校に問い合わせるも記録は曖昧で、確実にわかったのは同姓同名の生徒は在籍していないこと。
それでも図書館に走って三年前の新聞記事を調べれば、確かに彼女は三年前のその日、事故によって死んでいた。
「っ…」
流石にぞっとして強張った表情を見たんだろう、先生は肩をすくめ、おどけたように茶化して言った。
「うーん、こう話すとやっぱ結構ホラーですよねえ」
「わ…っらいごとじゃないですよ…!」
「うん、笑えなかった」
唐突に言葉を失った。夕焼けを浅瀬に浮かべたような眼差しだった。色の褪せたアルバムが切り取った、二度と還らない過去を覗き込むような声音だった。
数秒か、数十秒か――いや、いっそ数時間のようにも感じた――の間、言葉を切った先生は黙り込んだ。その沈黙の下でなぞった当時の感情の分だけ、先生は言葉を端折ったようだった。
「名前ちゃんは岩泉くんに会いにいこうと決めた時、新幹線のホームじゃなくて、この塾に来たんですよね」
「…電車じゃ、"岩泉のいる"宮城には行けないと思って」
「そうでしょうね。そして扉の前に立った。立って、取っ手を握った…違いますか?」
「……いいえ、合ってます」
「私も同じです。彼女の命日の前日、私もここで、同じことをしました」
さんざん考え、答えは出なかった。でも一日一日と迫るその日に、居ても立っても居られなくなった。
考えはまとまらなかった。まとまらなくても当然だった。
でも今思えば、それが運命の分かれ道だったんだろう。
「握って数秒か、どれくらいだったか…ふっとわかる瞬間があってね、『ああ今だ』っていう」
私はただ頷いた。あの確信めいた感覚に私も覚えがあることを見越していたんだろう、先生は驚くことなく、やはり準備していたようにその先を告げた。
「でもその瞬間、急に怖くなってしまったんです」
繋がったと確信したその瞬間、急に降ってわいた恐怖に立ち竦んだ。
その一瞬、わずかその一瞬で、扉はただのガラス戸に戻ってしまった。
「見抜かれたと思いましたよ」
先生は少しだけ大人だった。理屈も常識も説明できない世界に向こう見ずに飛び込めるような、ファンタジーを夢見る子どもじゃなかった。
そしてそんな大人は、そのファンタジーの常識では臆病者と同じなのだ。"余計なこと"を心配して、常識破りの"冒険"に出遅れるつまらない端役のような。
ガラスの向こうの世界はどこなのか。自分の生きる世界の三年前の過去なのか、全く別のパラレルワールドなのか。行ってどうするのか。現世なのか死後なのか。彼女の事故死を防いだ後、自分の世界はどうなるのか。そもそも戻ってこれるのか。
どれも至極真っ当で冷静な懸念事項だ。だが脳味噌を引き止める"賢しさ"は、ファンタジーには必要ない。
もう二度と扉はつながらなかったし、手紙は来なかった。
「あの時進んでいれば、どうなっていたかはわかりません」
扉の向こうは幼馴染の死ぬ前の過去だったのかもしれないし、幼馴染が死んでいないパラレルワールドだったのかもしれない。いっそ死後の世界で、自分が文通していたのは幽霊だったかもしれない。
ifの話は何百と出来る。だがどれも詮無いことだ。残る事実は一つだけ。
「私は会いに行けなかった。残った事実はそれだけです」
アルバムをそっと閉じる音が聞こえた気がした。
私を迎えた先生が、何か眩しいものを見るような顔をした理由がわかった気がした。
先生はマグを手に取り、傾けたそれを空にした。酷く喉が渇いていたことに気が付いて、私もすっかりさめたカフェオレに口をつけた。
「名前ちゃんたち二人に何も言わなかったのは、君たちが"現在"同じ"世界線"に存在していたからです。私は梟谷も青城も知っていましたし、何より君たち自身が生身の人間として互いを知っていた。まあつまり、それほど心配してなかったということですね」
「……」
「…それに、まあ。未成年の学生さんを預かる成人の講師にとって、大変な問題行動であることを承知で白状するとだ。
君たち二人の辿り着く先を、見てみたいと思ったのもあるね」
穏やかに笑んだ先生に、物語の完結を垣間見た。まだ早い。まだ駄目だ。急ぐように口を開く。
「先生」
「うん?」
「この塾、卒業して辞めたあと、また遊びに来れますよね?」
「…ここを卒業して、OBとして遊びに来た生徒さんは、私の知る限り今まで一人もいませんね」
「っ、」
「地方に進学した子もいますし、所詮予備校ですから、母校ほどの愛着はわかないでしょうし…まあ、理由は定かではありませんが」
でもどうでしょう。言い募ろうとした私を遮るように、先生はそう独り言のように続けて言った。
「遊びには来ませんでしたが、講師として戻ってきた人間なら、少なくともここにひとり」
言われて気づいて、目を見張る。先生はそんな私を見てころころ笑い、「ポストのチラシに注意ですねえ」とわかりやすいヒントをくれた。
エンドロールが見送られる。やっと心が落ち着いて、私もマグを空にした。
「じゃあ先生の名前は、その時に聞くことにします」
そう告げれば先生はちょっと驚いた顔をして、「それが賢明でしょうね」と無駄にキマったウインクを一つ寄越した。
その紳士じみた動作を被った少年の様なやんちゃさに、あの色褪せた侘しさは最早欠片も見当たらなくて、私はそのことにこっそりと安堵した。
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