白昼に君を見る
思えばそれはもう、これ以上なく酷いタイミングだった。
今までさんざんSFだとかライトノベルだとか、そんな言い回しでこの一連の事態を表現してきたけれど、その全部を謹んで撤回したい。これが本当のSF小説や映画なら、もっと抜群のタイミングで、準備されたシチュエーションの、運命的なエンディングを迎える筈なのだ。それこそ卒業式とか合格発表を張り出した掲示板の前なんかで、全てを清算し終わった状態の、整えられたコンディションで。
少なくとも、ローファーで疾走したせいで血の滲む踵とか、よれたネクタイとか、肩で息しても追いつかないほど乱れた呼吸とか、その全部をひっくるめたみっともない格好で、会いに来た人の乗ったバスに置いてけぼりを食らうようなクライマックスになる筈がない。
「…ごめ…っバス…行って……っ」
「いや、いい、とりあえず落ち着け」
―――いや、そうでなくとも、私のコンディションなんてどうだっていいのだ。
バレーには明るくない。あるのは勉強の合間に彼が話してくれた僅かな基本用語と、スポーツニュースなんかで少々齧った程度のにわか知識だ。
でもそれが彼にとって高校最後の試合になったことは知っている。最後にするつもりなど微塵もなかったそれが、誇りと矜持と意地をかけた文字通りの死闘だったことは、俄かの素人であっても感じ取れた。
でもそれだけだ。彼の積み上げてきたであろう年月を僅か一寸も知らない私には、かける言葉も、そうする資格もない。何かを真剣に貫いてきた人に対して、上っ面をなぞる慰めや労いはいっそ失礼だ。
眩暈がするのは酸素が足りないだけじゃない。ローファーを見詰めたまま、膝についた手も、垂らした頭も上げられない。まとまらない思考を自己嫌悪が食い潰してゆく。
「ごめん、こんな時に、勝手に…」
勢いだけで来てしまった自覚はあった。それが今になってようやく良心を呵責する。
どう考えたって最良とは言い難い、何なら迷惑と言われて当然の訪問だ。行きたいと思ったこっちのタイミングで押しかけた。会場で会うこともままならず、帰路に付くべく乗り込んだバスを降りさせた。
整理したい心も、仲間と労い合いたいであろう感情も、燻る諸々も、きっとまだ一つも片付いていないはずだ。その彼の内側へ、私の勝手な感情まで押し付けに来てしまった。
「…いや、勝手も何もお前」
けれどそんな今更の懺悔に降ってきたのは、そんなことかと言わんばかりに呆れたような声音だった。
「俺が名字に頼んだんだろ、観に来いって」
「!」
ついでにその癖、勝ってイイトコ見せらんかったしな。
ため息混じりの、けれど重々しくはない声だった。引き上げられるように視線が持ち上がる。
湿り気はなかった。引き摺るような後悔も。晴れた空に似つかわしい、さらりと吹き抜ける風のような。けれどその声音には確かに、淡く色濃い寂寥が滲んでいる。
秋風のようだ。そんな声と、そんな双眸だと、心の隅が呟いて、急に胸が苦しくなった。
「いつから居た?」
「…第二セットの半ばから」
「どうやって来たんだ」
「……ガラス戸の向こうは、宮城でした…みたいな」
「なんだそれ、本格的にジブリかよ。しかも帰るとき振り返れねぇヤツ」
吹き出すように笑った彼に、疑念や不審はまるで伺えなかった。どう考えたって現実味の無い話を、呆れた口調で、けれど可笑しそうに、彼は歯牙にもかけなかった。
「―――っ、」
唐突に涙が込み上げてきた。
自分でもわけがわからないほど唐突で、でも多分泣かずにいられる選択肢はどこにもなかった。
この人はここにいる。
初めて現実感を帯びて理解する。岩泉はここにいる。こうして、生身の人間として、確かにここで生きているのだ。
夢でもなんでもない。現実であっても、私が見ていた僅かな一面に限らない。予備校という枠の中でしか見てこなかった彼は確かに現実の存在で、でもそれは彼の存在そのものを感じ取るにはあまりに視点が乏しく、同時に固定されていた。でも今は違う。
ここにきて、彼の生きる地に足をつけて初めて、彼を私にとっての現実にすることが出来た。
彼が幼い頃から心血を注いで尽くし、高みを目指してきたものの片鱗を、僅かにだけだ、それでも本当に、手に取ることが出来たのだ。
「観れてよかった」
彼が目を丸くして硬直している。当たり前だ、観に来いとは言われていたけど押しかけたのはいきなりで、バスに乗り込む前に会い損ねて、追い掛けて、挙句突然泣き出されたら、誰だって思考が停止する。
でも言葉は止まらなかった。
「ここに来て、岩泉の、岩泉が全部を注いできたものの、一番大事な時に、ここにこれてよかった」
わずか数十分の試合で理解できることじゃないし、こんな薄っぺらい言葉で伝えられるものでもない。
でも感じ取ることのできたその僅かが、こんなにも心臓を揺さぶっているのは真実なのだ。
そのことをどうしても伝えたい。感謝と感動のすべてを込めて、ほんのわずかでも。
「…そうか」
柔らかい声がする。見詰めた彼の顔はぼやけていて、滲んだ視界を瞬かせた。
けれど視界がクリアになる前に、落ちてきた影と質量が、体温を伴って私をつかまえた。
「―――ありがとな」
触れた熱に息が詰まる。心臓が火傷しそうだった。
抱え込まれた頭、耳元に落ちる掠れた声に、もはや言葉は出なかった。
本当は私の方が山ほど感謝する理由があって、なんならそれを伝えるために走ってきたと言っていいほどで、でも今この瞬間に、突いて出たのは「この先」のことだった。
「また会える?」
岩泉に聞いたって困らせるだけだろうに、尋ねずにはいられなかった。熱を帯びた肩にうずもれた顔を上向かせ、ようやくひねり出した声は情けなく揺れている。
伝えたい感謝は山ほどあった。でもそれを告げてしまったら、果たしてしまったら、それこそエンドロールじゃないか。
「これが最後なら、そんなの絶対嫌だ…!」
行き方を調べればエラーになる。学校名は検索できない。物語の終幕、何もかも成し遂げたやり残しのない幕切れには、後日談も追加の最終章も必要ない。必要なくなってしまう。
ほとんど泣きじゃくりそうになるのを必死で堪えて呑み込んだ。背中に回った腕に力が籠もる。
「心配すんな」
間を置いて告げられる。濡れた目元を澄んだ風が撫でてゆく。
何の根拠もないはずのそれは、けれど不思議なほどに確信に満ちていた。
「次は俺が会いに行く」
きっと今、この人は笑ってる。
それがわかった瞬間、やっぱり何の根拠もなく、けれど確かに確信することができた。
また会える。どうやってかはわからないけれど、絶対に。
****
リノリウムの床には、窓枠に切り取られた黄昏時の斜陽が作る光の帯が伸びていた。
階段は静まり返っていた。そっと覗いた窓の向こうの、青々した山の稜線、眩しい夕陽に目を眇める。戻した視界がちかちかするのを、数秒目を瞑って馴染ませた。そうして、ひっそり佇む赤い自販機の前に立つ。
ブレザーのポケットに忍ばせているコインケースの硬貨を数えて、缶ジュースを一本買う。この季節にはもう厳しい冷たさをしたアルミ缶を、ポケットに無理やり押し込んだ。温かいものも買おうか迷ったけれど、結局やめておいた。
リノリウムの廊下が終わる。煌々と眩しい蛍光灯の白い光が、ガラス戸越しに足元を明るく照らす。
白く反射するガラス戸の向こうは伺えない。でもそれが透けて見えるのを待つことはなかった。
取っ手に手をかけ、押し開ける。ぶわり、吹き込んできた暖房の温かい風で前髪が浮いた。
ふと背後を振り返りそうになって、ぴたり、捻じった首を止めた。何となく、振り返ってはいけないような気がして、結局これもやめておいた。ここまで来たら最後まで、SFの定番に従っておいた方がきっと良い。
足を踏み入れ、体を押し入れる。後ろ手にゆっくり、ガラス戸を手放した。がちゃり、金具が噛み合う音がして、しん、とした沈黙が戻ってくる。
ローファーを脱ぎ、スリッパに履き替えて、講師用のカウンターに近づいた。
挽き立てのコーヒーの匂いがする。やはり彼女はそこにいた。
「こんにちは、名前ちゃん」
会いに行けましたか?
テーブルに腰掛け、マグを片手に、いつもの英語講師は微笑んで尋ねる。その穏やかなまなざしを真っ直ぐに見つめて、私は静かに頷いた。
「――――はい」
先生は穏やかな双眸に、いっそう細い笑みを浮かべた。
それはどういうわけか、眩しいものを見るような瞳だった。
180717