そうして春が幕開ける

『何、いきなり電話とか』
「や、なんとなく。どうしてるかなって」
『一か月でどうもこうも無いだろ』
「そんなことないでしょ。友達できた?ぼっちしてない?」
『やかましい』

きらりきらり、初夏の風に揺れる新緑から落ちる木漏れ日が、瞬くように視界を踊る。

石畳を行く足元にヒールは選ばない。授業間の10分休みで移動教室のため広々したキャンパスを横断することを考えれば、一番はスニーカー、譲歩しても踵の無いパンプスが妥当だ。
髪は染めない。爪もどうこうしようと思わない。大学生らしくなったところはと言えば、最低限のマナーとして覚えた化粧と、周囲から浮かない程度に整えた私服くらいだろう。

「これから部活?」
『まあ』
「あ、じゃあ切った方がいいか」
『別に、すぐ行くわけじゃないし』
「そう?」

電話線越しに届く声音はいつもと変わらず素っ気ない。この分だとまた一匹狼を貫いているんだろう。相変わらぬ社交性を投げ捨てたスタンスにこっそり苦笑する。
卒業して一か月、校舎から別だった高校時代も校内で会うことは滅多になかった分、別段寂しいとか、遠のいたような気はしない。
ただもう走って会いに行ける距離にはいないという事実が、どうにもまだ身に馴染まないだけだ。


二月の中旬、全額免除を前提に受けたこの中堅私大の合格通知を受け取った日をもって、私は私の受験期間に幕を下ろした。

担任に再三勧められた国立の記念受験も断った。万一受かったところでどうせ行かない大学と、学校が出したい今年度の進学実績の数字のために三月まで勉強を続けるなんて馬鹿らしい。そうして自分でも驚くほどあっさりシャーペンを手放した私に、クラスメートは意外そうにしたし、担任は苦い顔を隠さなかったが、最後には私の意思を尊重してくれた。

私より偏差値の低いクラスメートが、私が入ると決めた大学より偏差値の高いところに受かったと聞いたり、国立志望組の子らが最後まで頑張るのだと話しているのを見かけても、思っていたよりずっと何も感じないことには少し驚いた。
夏前の自分であればいちいち凹んだり気にしたりと忙しかったはずだ。割り切るのが少し上手くなったのかもしれない。メンツとかプライドとかそういうものは多分、思っているよりずっと心を窮屈にするのだ。

進学先が決まると同時に、予備校の退会手続きも滞りなく済まされた。
入会時と同じ、私と先生だけで挟んだ机の上、必要事項を記入した紙切れ一枚で、私はあの塾の生徒ではなくなった。

結局先生から親の同伴を要求されることは一度もなく、先生、つまり講師以外の塾長にあたるような人物が現れることもなかった。振り返って考えてみてもやっぱりあの塾は最後まで普通じゃない。一体どんな運営をしているのか―――いや、藪蛇だ。さわらぬ塾に祟りなし。

「篠崎、バイトとかしてる?」
『ツタヤでレジってる』
「何ソレすごいドンピシャだね。ビデオ店て一人はいるじゃん、死ぬほどやる気のないバイト」
『名字お前マジ何の電話?喧嘩売ってんなら切るよ』
「待って待って怒んないで」

噛み付くような口調に慌てて引き止める。多分これあと一回すれば本気で切られるな。その辺のさじ加減にはそれなりの慣れがある。
帰路につく学生の波、それを作る一人になりながら、最寄り駅までの短い道のりを進む。雑多に溢れる話し声にかき消されないよう、スマホをしっかり耳に押し付けた。

「チラシがさ、ポストに入ってたんだ」
『あ?何の話』
「あの塾のチラシ。講師募集っていう」
『……名字アンタ、前から思ってたけど割と真面目に阿呆だよな』
「今更気づいたの?」
『今度は神隠しにでも遭う気?』
「それは夢が広がるなあ」
『ベソかいてたヤツがよく言うよ』

電話線越しに届く呆れた声の背景に、ざり、ざり、と地面を擦る靴底の足音と、そのまた遠くに人の話し声が散るのが聞こえる。きっと彼女も気取ったヒールなんかじゃなく、底のすり減ったいつものスニーカーなんだろう。
なんとなく沈黙する電話線に懐かしさを感じると同時に、じゃあ切るよと言われるのが惜しくて話題を探していれば、不意に向こうから口火を切られた。

『で、どうなの』
「うん?」
『結局会えたわけ』

驚いた。このコミュ力を放棄した(欠如じゃない、出せばあるのを捨てたのだ)友人にも気を遣うというスキルが残されていたとは。もちろんこれを口にしたら今度こそ無言でブツ切りにされるだろうから言わないでおくけれど。

入学式を終えてしばらく、履修登録やサークル勧誘なんかでまだ慌ただしい四月の半ば、私のスマホは青葉城西高校を正常に検出した。
自己紹介時に宮城出身だと話した同学部の女の子にも確かめた。彼女は確かにその名を冠する私立校があることを肯定し、白いブレザーにキャメルのチェックという制服の特徴も一致した。

酷く動揺することはなかった。まるで最初からそうだったと言わんばかりのその正常さが何を意味するのか、正確にはわからない。何にせよ、多分今はもう、あの摩訶不思議なドアを通してでないと会いに行けないような、そんな距離にいるわけではないのだと思う。
だからと言って彼が今どこで何をしているのか、手掛かりがつかめたわけでもないのだけれど。

「…ううん、会えてない」

そっと落とすように、そう意識して紡いだ返答はしかし、思いのほか寂しげに転がった。電話越しに篠崎が言葉を呑むのを察する。込み上げるバツの悪さに電話線越しで見えているわけもないのに、何とも思っていない表情を装うあたり、私の人間の器は相変わらず小さいままだ。

ICカードを改札に遠し、駅の構内に足を踏み入れる。人にぶつからないよう気をつけながら、エスカレーターへ足を向けた。
電話越しの気配が動く。きっと数瞬もすれば、あの迷いも素っ気もない声が取り出したままの言葉を放り投げてくるだろう。

足元に気をつけて、降下する段差に足をかける。ゆっくり上昇する動きに合わせ、自然と視線が上がる。

上がって、その瞬間、息がとまった。

「―――しのざき」
『、あ?』

何か言おうとしていたはずの友人を遮る。驚くほど掠れた声が出た。どん、と揺れた心臓が、早鐘のように脈打っている。

シルバーホワイトにミントグリーンの差し色をあつらえた、柔らかな光沢を帯びるあのジャージじゃない。背負った鞄も揃いの色のエナメルじゃなく、アウトドア向けのデザインが流行りの大ぶりな黒のバックパックだ。

でも間違えない。間違えるはずがない。短い黒髪も、やや強面の精悍な顔立ちも、鋭く、けれどくしゃりと笑う時、思うよりずっと柔らかく解ける双眸が、驚きにきゅっと広がる様も。


「ごめん、やっぱ会えた」


篠崎が何か言う。言葉を拾えたのはそこまでだった。名字。声は聞こえない。でも動いた唇がかたどる音が、自分の名前であることはすぐにわかって、その瞬間凍り付いていた身体が弾かれたようにエスカレーターの人の列を飛び出した。

「いわっ…!」

降下してくる向かい、その中央に立っていた彼の姿がみるみる近付いてくる。声が追いつかない。どうしよう、どうすればいい?手摺を握りしめる。交差するエスカレーターの間は一メートルもない。いっそここを飛び越えて、

「そこ動くな、上で待ってろ!」

半分乗り出しかけた身を上から抑え込むように怒鳴られた。思わず身をすくめた自分がいかに無謀な行動に出ようとしていたかを急に理解する。同時に懐かしい声に心を打たれた。ああ彼だ。間違いなく、岩泉がそこにいる。
我に返った時には交錯した動く階段は私を上階に、彼を下階へ運び去り始めていた。

「っ…すみません、通してください!」

階段を駆け上がる。飛び出した上階、一気に視界を覆う人波に焦燥感が募った。上でって、ここで?上昇してくるエスカレーターの先に彼の姿は見えない。逸る気持ちに唇を噛み締めた。なんでこんなに混雑してるんだ――――そうだ、階段。

転がるように走り出す。揺れるリュックが煩わしい。待ってろと言われたにも関わらず、それでも何となく確信があった。多分こっちだ。こっちであってる。

エスカレーターよりずっと人の少ない階段を駆け下りる。革靴やスニーカーの足音、電話するサラリーマンやおしゃべりに忙しい主婦や女子高生の声。気を取られた一瞬で、がくり、唐突に視界がぶれた。

「っあ…!」

内臓がひゅっと一段落ち込む。踏み外した。理解した時には投げ出される体が、衝撃に備えて固くなる。本能的にきつく目を瞑った。コンマ数秒、勢いよくぶつかったのは冷たい床以外の何か。

耳元で詰まる息を拾った瞬間、背に回った腕には覚えがあった。

「…上で待ってろっつっただろうが、この阿呆…ッ!」

もう声も出なかった。

開口一番怒鳴られ、立て続けのお叱りに不満を言う事も、ごめんごめんと笑うこともままならない。視界が滲む。耳朶を震わす低音に心臓が止まりそうだ。いっそ止まってしまった方がましかと思った。

「あっはは…っ」

会えなくなるのも唐突かと思えば、再会するのもまた随分と唐突だ。何の脈絡も予兆もない、時間も日付もそれらしい関連を思いつかない。
何とも格好悪いエンディングだ。中途半端にSFのクセして、致命的に最後までキマらない。

でも構わない。何だっていいやと込み上げてくる笑いで、滲んだ声が揺れるままに絞り出す。

「岩泉、あのね」
「…おう」
「話したいことが、たくさんあるんだ」

顔を見たい。思って持ち上げた頭が、ぎゅっと肩まで押し上げられる。仕方がないから顔を見るのは諦めた。きっとこの後、いい加減にしろと怒られるほどじっくり見れる。一番伝えたかったことを伝えるのもその時でいい。

今はただ、何の脈絡もなく唐突に耳元へ落とされた、「会いたかった」の一言で十分なのだ。


180825
これにて完結。
長らくお付き合い頂きまして誠にありがとうございました。
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