その扉の向こう側




乱れた呼吸のまま送り込む冷気が肺に痛い。

火照る首筋からマフラーを引き剥がす。辿り着いた駅の駐輪場で、飛び降りるように自転車を降りた。時計を確認する。10時20分。
券売機まで駆け、その前ではたと足が止まった。いくらのを買えば―――そもそも最寄りは?

スマホを取り出す指が震えている。心臓ごと。骨と神経が上手く繋がっていないようだ。検索バーに打ち込んだ高校名、祈るような思いでタップした検索結果に、思わず愕然と言葉を失った。エラー。

電波に問題は無い。他のキーワードなら検索可能だ。けれど液晶に浮かんだエラー表記は、最早文字化けした画面にすら繋がらないことを示唆していた。

「…宮城、宮城―――市立体育館って、仙台の…っ?」

駅員に聞いた方が早いか。でも新幹線に乗るならどこかでお金をおろさないと。手持ちじゃ足りないし、ああでも通帳なんて持ち歩いてない。

いや、それ以前に、よしんば新幹線に乗って着いたところで、そこは岩泉のいる宮城なんだろうか。

過ぎった考えに胸を掻き毟りたくなった。馬鹿げてる。妄想だ。SFどころかライトノベルと大差ないレベルの―――にも拘わらず、それを完全に否定するだけの根拠が手元にないのだ。

ブレザーの下で火照った体が急速に冷えてゆく。血が回らない。どうしたらいい。だって、岩泉と会えたのは塾でしか、

「―――じゅく」

授業中に微睡み、先生に当てられて飛び起きた時の様な。
強烈な眠気が瞬時に霧散するのに似た一瞬、視線と共に頭が跳ね上がった。
駅ビルの裏、両隣の建物に張り付くようにして佇む、五階建てのさびれたビル。

踵を返す。券売機に背を向け、駅構内を飛び出した。
あそこしかない。突き動かすほどの確信と衝動が、ローファーの足を加速させる。

息を切らして飛び込んだビルに人気はなかった。薄暗いエントランスには駅周りの喧騒が嘘かのように、陰りを帯びた静寂が詰め込まれている。
静まり返った階段を駆け上る。肺が痛い。重くなる脚を叱咤して、リノリウムの廊下を駆ける。

授業時間とは程遠い。開室時間でさえ何時間も先だ。けれど飛びついたガラス戸は、呆気なく私を中へ通した。

「…っ!?」

誰かいるのか。とっさに見回す室内に、けれど人の気配は伺えない。
窓辺から差し込むはずの陽光はブラインドに遮られ、淡い陰影を落とすにとどまっている。
がちゃり。背後で扉の合わせ目が噛み合う音がして、私は反射的に振り向いた。手放したところからゆっくり戻ったんだろう、ドアが閉じている。白く反射したガラス戸の向こうは、やはり伺い知れない。

吸い寄せられるように足が動いた。乱れた呼吸と靴音がやけに響く。
ずっと不思議だった。歩み寄ったガラス戸に目一杯顔を近づける。

いつもそうだ。でも今は違う。蛍光灯も陽光もないのに、硝子戸は白く反射している。

向こう側が見えないのは、何故なんだ。

「……お願い」

誰へともわからない、絞り出したのは懇願だった。
冷たい扉に額を押し付ける。乱れた息も心音も呑み込んで、祈るように目を閉じた。
ここしかない。「ここ」でなければ、ゆきどまりだ。

「――――、」

割れるような耳鳴りがして、勢いよく瞼を押し上げた。

見慣れたリノリウムの床の廊下と、見覚えのない赤い自販機。扉の向こう側が、はっきり見える。

揺さぶられた脳味噌が夏の記憶を吹き零す。冷房の効いた夏の教室、並べた机。向かい合わせのノートを挟んで、彼がくれた缶ジュースの冷たさ、舌の上で弾けるレモンの炭酸。

本能がひとっとびに確信した時には、ガラス戸を押し開けていた。

吹き込んできた冷気に息を呑む。排気ガスと人の呼気に濁った都心のそれとは段違いに純度の高い、肌を切るほど鋭利な秋の気配。

赤い自販機の前に立つ。感覚的な確信に思考と言葉が追いついた。
そうだ。私の身に覚えがなく、けれど彼がジュースを買ったと言った「廊下の自販機」は、これだったのだ。


「……宮城だ、」

私の知る、じゃないかもしれない。
でも確実に、岩泉のいる、宮城だ。




****




床を打った最後の打突音が幕を下ろしたのは、息切れするほど駆け抜けた三年の月日だった。

立て続けに喝を入れられた―――それが手荒い労いでもあったことはわかってる―――背中に残る温かな痛みの上にエナメルを担ぐ。力任せに拭ったばかりの頬と目元が幾分ひりひりした。

「15分で撤退だよ、次の学校待たせんな!」
「「「オェーイ!」」」

凛然と響く主将の声へ、地響くような応答が返る。
息切れするほど駆け抜けた日々が終わる。その実感が、まだ湧かない。

ここで去るとは思っていなかった。あの因縁のライバル校と会いまみえることすらなく、ここで去るとは、少しも。

掌に残る最後のスパイクの重みは、千切った毛細血管ごとまだ疼いている。全力を尽くしたとは言える。だが悔いがないとは言い切れない。
敗けた試合はいつだってそうだ。どれほど全力を尽くしたからといって、悔やむべき点が無いなんて思えたことはない。全力を尽くすからこそ、勝ちたいのだ。

何気なくジャージのポケットに突っ込んだ手が、押し込んだままにしていたスマホに触れる。つるりとした液晶をなぞる指に、驚きを仕舞って凪いだ眸でしっかり頷いた少女の姿が脳裏を過ぎった。

うん、行く。――――絶対観に行く。

呑み込み損ねた溜め息がこぼれる。人より多少こざっぱりした性格に生まれてきた自負はある。細かいことに拘る性質でもない。にも関わらず、自分でも驚いたことに、この件に関しては女々しさを禁じ得ない。

「…だっせぇな…」

自信満々に観に来いと言っておいて、勝って笑顔を見せるに至らなかった。
たとえ彼女が、名字がそもそも、「ここ」に来れたと思えないとしても。


理屈で説明できない音信不通を確信したのは、名字のそれに酷似した制服の学校名を調べた、その検索結果を目にした後だ。
及川にも松川にも花巻にも頼んで、けれど出てくる結果に変わりはなかった。画像はエラー、クリック先も全て文字化けする。事情を説明せずに後輩に頼んでみても同じこと。
どう足掻いても、「そういう」意図をもって調べようとする以上、得体のしれない邪魔が入ることを認めざるを得なかった。

流行りの青春映画かとぶん投げたくなる不可思議な展開を前に、忍び寄るように現れた嫌な予感は的中した。

練習終わりに駆け込んだ予備校のいつもの机にノートはなく、カウンターには見覚えのない講師が腰掛けていた。物理を担当するというその講師は、名字のことは名前程度しか覚えはなく、英語講師も出勤していないと言った。首を傾げる彼が嘘を吐いているようには見えず、それ以上は食い下がれなかった。

戦隊モノなんかに夢中になったガキの頃はさておき、ファンタジックなメルヘン思考とは無縁の人生を送ってきた身だ。
それでも妙な直感が、これが単にタイミングが合わないだけの不在でないことを訴えていた。


「そう言えば岩泉、彼女どうなったの。あのノートの」

バスの荷台にエナメルを積み込みがてら、不意に隣にやってきた松川がタイムリーに問うてくる。無言で首を振って応じれば、眠たげな瞳を不審げにしたチームメイトが眉根を寄せるのがわかった。

「音信不通のままか…客席にもいなかったん?」
「弾幕の前列はともかく、ギャラリーまで確認する余裕はねえよ」
「ってことはやっぱ試合には呼んでたんだ」
「……」

とんだ誘導尋問である。
シリアスを被った愉快犯。思わず睨み上げたミドルブロッカーは、大人び過ぎた老け顔に大変腹立たしいニヤニヤ笑いを浮かべてこちらを見下ろしていた。野郎、さっきまでの神妙な顔はどこにやった。

「いいんでないの?時空を超えた青春ストーリー的な」
「ンな可愛気のある話か、今んとこむしろホラーだよ」
「映画化したら言えよ、最前列で観てやるから」
「俺らの身長で前列は無理っしょ。後ろにすんぞ松川、ただし真ん中な」
「下んねぇこと言ってんじゃねーぞお前ら、んで花巻てめぇはどっから湧いた」
「痛ッ、ちょ、膝はナシナシ!」

どいつもこいつも他人事だと思いやがって。いや実際他人事か。とは言え腹立たしくも、こうして茶化すヤツがいてくれるおかげで、後ろ向きに考えずに済んでいるのも事実。

それに、このタイミング―――因縁のライバルにすら届かぬまま、戦場を去るタイミングだ。どうしたって付き纏っては隙あらば胸の内を掻き裂かんとする感情から、少なくとも自校の体育館に戻るまで目を逸らしておけるなら、多少余計な盛り上がりを見せれど悪意のない茶化し程度に、目くじらを立てるのも狭量だろう。

「けど、マジで謎だったよな。ガチホラーって感じはせんけど、理屈で説明がつかねえってのがね」
「あの文字化けがなあ…」

不可解そうに言う花巻と松川につづいて、荷物を積み終わったバスに乗り込む。話し声に混じる鼻をすする音は後輩かそれとも同輩のものか。湿っぽい空気を振り払うにはもう少々時間が要るかと、自分の心境を棚に上げて考えるのは副主将の性だろう。

「全員揃った?ほらそこ、シートベルトちゃんと締めて」

及川の号令に従い、皆が座席でもぞもぞと身動きする。バスの自動ドアが閉まり、かけられたエンジンで車体が揺れた。振動する車窓から、まだ熱戦の続く体育館がゆっくりと遠ざかってゆく。

車道に出たところで一つ息を吐き、座席の背もたれに身を預けた。

その瞬間だった。


「―――待って!!」


エンジン音、話し声、外気を遮断し密室となったバスの車内。

その条件下でなぜその声が聞こえたのか、後から考えても理由はわからなかった。

振り返る。窓越しにバスの後方を見た。引き離されてゆく車道の向こう、飛び出してきた風に舞い上がる黒髪と、今にも泣き出しそうな顔。

名字。


「え?」

無意識にその名を呟いたのだろうか、隣席に座る及川が怪訝な顔で俺を見上げる。だが構っていられなかった。バスがカーブを曲がる。彼女の姿が消える。

間違いない、検索しても出てこなかった、雑誌の端のグレーの制服。

「スンマセンッ、降ろして下さい!」
「えっ岩ちゃん!?」

通路側に座る及川を飛び越え運転席に駆け寄る。最前列に腰掛けた監督が、運転手に負けないほど目を丸くしてこちらを見上げた。

「どうした岩泉、忘れ物か?」

忘れ物。
その言葉に一瞬はっとした。でも声が詰まったのは一瞬で、頷くのに迷いはなかった。

「―――はい」

言い切るタイミングで、カーブを曲がり終えたバスが減速する。赤信号を前に停車するのを待たず、ハンドルを握る運転手を強く見詰めた。困惑した視線が外れたのはきっと、監督の意向を伺うためだろう。

結果はすぐに出た。自動ドアが開けられ、ひんやりした外気が流れ込んでくる。

「学校までは?」

タラップにかけた足が止まる。最初に問いかけて以降じっと黙っていた監督は、深い色をした眼差しでこちらを見据えていた。

まともな説明もなく勝手な行動に出ようとする俺に何を察し、見透かしたのかはわからない。でも何かを察し、見透かすことが出来る人であることは、この三年間で骨身にしみて知っている。

「走って戻ります」

迷わず答えたその応答に、監督は面白そうに目を細めた。ミーティングには遅れるなよ。言い残された指示に頷き、頭を下げてバスを飛び出す。

車内で飛び交うチームメイトたちの有象無象の声を背に、来た道を一気に駆け戻る。角を曲がるまでは一分もかからなかった。

視界に飛び込んでくる、膝に手をあて、肩で息して立ち尽くす少女の姿。

「……名字か?」

聞くも愚問だった。
垂れた黒髪の下、乱れた息もそのままに、今にも倒れそうな出で立ちで顔を上げた彼女は、言葉もなくただ半分泣いたような顔で笑った。


180701
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