黙ってろ×××
泣いても笑っても時間は過ぎる。引っ掻き回されたまま収拾の付かない思考と感情を無理やり脇に押しやってでも、しなければならないことは山積みだった。
「進路を変えようと思っています」
吐き出す息に震えは無く、存外落ち着いた声を出せたことに内心安堵した。だが開口一番告げた言葉に、案の定担任は顔を曇らせた。
「…『冬まで頑張る』んじゃなかったのか?」
「それも含めて変更したいんです」
どこに変えるんだ。やや間を置いて尋ねられ、候補の大学名を挙げてゆけば、担任は今度こそはっきり眉を顰めた。
「そこまで下げることはないだろう。名字なら地方大でも、」
「夏にもお伝えしましたが、うちに下宿出来るような経済力はありません」
「奨学金は申し込む予定なんだろう?賄えない範囲じゃない」
「いいえ、それももう、借りずに済む形に収めるつもりなので」
口をつぐんだ担任によって会話が途切れる。こちらの真意を探るような視線はようやく、私が相談しに来たわけではなく、決定の報告に来たことを察したようだった。
「…親御さんの意向か?」
「いいえ、自分で。…自分で決めました」
言い直したのは一重に、それが決して自分ひとりで辿り着いた結論ではないからだった。最終的にそれが良いと決めたのは自分だが、理屈も理論もほとんど受け売りだ。
それでも親の意向に沿ったという誤解は、私の決意にも両親の思いにかけても、はっきり否定しておかなければならない。
だがその一瞬の間合いを、担任は違う解釈で受け取ったようだった。
「今じゃ学生の二人に一人が奨学金を借りる時代だ。名字の成績と家庭なら無利子で借りられる可能性は高いし、給付型の制度も始まってる」
「…」
「ニュースなんかじゃネームバリューで就職できる時代は終わったとよく聞くけどな、実際は結局ランクが高いほど就職口が広いのが現実だ」
一見、いや、事実きちんと筋の通った説得だ。毎年受験生を送り出してきた高校教諭が言う事なのだから、それも一つの事実に違いない。前までの私ならきっと気持ちが揺らいだだろう。
「国立は無理でも公立なら学費も安いし、奨学金も働き出せばすぐ返せる」
だが腹の底に落ちた碇は、蘇った言葉は、心をぴたりと据えたままだった。
「でも先生、その借金は私のものです」
奨学金なんて働き出せばすぐ返せる、国立に行かないのは勿体ない。
そういう台詞は進路指導部の常套句だよ、と肩をすくめたのは、先週の授業終わりに話をしに行った数学講師だ。
金融会社が高利の住宅ローンを勧める時でも、もう少しマシな台詞を使うだろうね。
しれっと言われた強烈過ぎる皮肉には思わず顔が引き攣ったものだ。温厚そのものたる口調と面持ちが吐いたとは思えぬ猛毒ぶりだった。
馴染みのあっけらかんとした英語講師が意外にオブラートに包んだ話し方をする一方で、あの数学講師は物腰穏やかに見えて存外言葉に遠慮がない。だが笑い飛ばすにも少々重い嘲りが単なる嘲笑でないことは、奨学金破産だ何だのニュースを少しかじればわかることだった。
『借りる者は貸す者の奴隷となる、という言葉を聞いたことはあるかい』
数学講師は私に添削済みのプリントを返しながら言った。理知的だがいつになく皮肉っぽかった声音が脳裏に再生される。
つまりわかりやすく言うとだ、名字さん。
「『負う物は少ない方が良い』、と教えてくれた人がいます」
背負うのも返すのも君だ。君以外の誰でもない。卒業したその後の人生の責任を、高校が負ってくれるわけじゃない。
ただ今年度の進学実績のエクセル表、国立進学者の欄の数値が1つ増えるだけだ。だとしたらその借金に意味はあるかい?
担任が再び黙る。私もまた受けた言葉を巡らせて沈黙した。
「偏差値が人の価値を決めるわけじゃない」。あの時胸を突いたその言葉を確信するには経験が足りず、証明するには私自身があまりに未熟過ぎる。
でもそっちの方が好きだと思った。
その素直な本音を無視しないと決めた。
「それと、―――問題は『どこに行くか』より、『何をするか』だ、とも」
高い偏差値とネームバリューで、私はきっと人生の切符が買えると思っていた。買って安心して胡坐をかきたかったんだろう。
でも多分そうじゃない。何かが何かを保証するというのは、多分そんなに単純なことじゃないのだ。
例えば、学力が進学を必ずしも保証するわけではないのと同じように。
英語講師と話した時も岩泉に窘められた時も、共通して痛感したことがある。私には多分、もっと大事ないろいろが足りてない。上手く言えないけれど、足りていないことがわかっただけでも大きな進歩で、だからこそ気づいただけで終わりにしたくない。
担任は随分長いこと黙っていた。いや、実際はものの数秒だったのかもしれない。長く感じはしたが、私はそれを待つことが出来た。
「……随分な入れ知恵をされたようだな」
諦めの混ざる、皮肉っぽい言い方だった。負け惜しみのようにも聞こえて、私は思わず口端を上げる。
思い出したのは普段の淑女然とした振る舞いを放り出し、企みの成功した悪ガキみたいにしてやったりと笑う英語講師の顔だった。
今の自分は、あの人と似たような顔をしているのかもしれない。
「私もそう思います」
***
「失礼しました」
傾斜角45度を意識して下げた頭を持ち上げ、背筋を伸ばしてドアを閉める。
土曜午前の廊下に人通りは少ない。階上からぼやけて聞こえてくる先生の声は、進学希望者のための特別講義を行うものだろう。
私も夏終わりには数学のセンター演習を申し込んでいた。でももう、どうしてもセンターで点を取らねばならない理由は無い。
コピー機や電話の操作音や人声の絶えない職員室と隔てられたその空間の、しんと冷えた空気と静寂を肺の底まで吸い込んだ。
名前ちゃん。
柔らかな笑みを帯びた声と、コーヒーの匂いが脳裏を過ぎる。振り返れば何もかもが仕組まれたように奇妙だった。
だって私は、あの英語講師の名前すら知らないのだ。
忘れたわけじゃない。思い出せないという話でもない。初めから知らなかった。その名を知らずにいることに、気づいてすらいなかったのだ。
口に出すのも荒唐無稽で手の付けられない消化不良は、当然誰に話すことも出来なかった。だって誰にどう話せばいいんだ。もっと言えば、話したところでどうにもならない。
縋るように電話したあの友人とさえ、あれ以来連絡を取っていない。向こうから連絡が来ることもなかった。
何にしたって、人ひとりの存在が跡形なく消えるなんて普通に考えればホラーかSFだ。神隠しか、狐に化かされたか、白昼夢でも見ていたか。馬鹿げていると一蹴出来るはずのそんな仮説すら否定しきれない不可解な状況で、証明できるのは手元のノートと自分の記憶だけ。
あの人は確かにあそこにいた。
そして彼も、岩泉とも、間違いなく私は出会ったのだ。
遣る瀬無さを押しのけるように言い聞かせる。唇を噛み締めて記憶の輪郭をなぞる再確認が、他でもない私自身が現実感を失いつつあることを裏付けていることには気づいていた。
呑み込んだ溜め息で重さを増した足を動かし、のろのろと下駄箱に辿り着く。今日はこのまま塾に行こう。望み薄だが、もしかしたら、今日こそ何かの痕跡を見つけられるかもしれない。
そこまで巡らせた思考は、次の瞬間根こそぎ吹っ飛ぶこととなる。
「やッッと見つけた、名字てめぇ…!」
「おっ?」
どすどすがったん。
昇降口のスノコを踏みしめる荒い足音、顔を上げるなり締め上がる首元。
何だ一体。むんずと掴まれた胸倉に、抵抗も驚愕もなく呆然とした。
だが掴み上げられた視界の先、視線だけで人を殺せそうな―――いやいっそもう二、三人殺してきたんじゃないか―――目元には嫌というほど見覚えがあった。
走ってきたんだろうか、息を乱したそれは般若の化身、もといクラスを違えた私の友人。
「お前最近どこほっつき歩いてた、失踪事件は火サスで事足りてんだよ!」
「ンッ?」
シリアスが吹っ飛ぶ音がした。なんだコイツどこのボケかましてんだ。
「え、なに篠崎、誰が何て…ていうか火サス?それどうツッコめば正解?」
「黙んな!ラインもメールもてんで届かない、教室行けばトイレ行った、放課後行けばもう帰った、土曜でやっと―――一体どういう了見だ?」
「いや了見も何も…ちょっと待って、私を探してたってこと?」
「とぼけんのも大概にしな、鱗剥いで二枚に下ろすぞ」
「ここ築地じゃないしマグロじゃないから解体ショーは余所でやれ!」
私がとぼけてるならこいつは錯乱レベルである。そしていちいち脅しがエグい。
「ていうかラインもメールもって、そんな連絡一つも入って―――…」
言いかけて、思い切りゆがめられた篠崎の表情に尻すぼみに言葉が切れた。「本格的にSFかよ」。舌打ちが聞こえてきそうな声音が小さく吐き捨てるのに聞き返す間もなく、ぐっと声を低めた彼女が言う。
「だろうと思ったから直接捕まえに来たんだろうが」
「…地引網で?」
「東京湾に沈めてやろうか」
いっそ刺身包丁に代用できそうな視線で凄まれて戦慄した。ここまで前後関係の読めない理不尽な罵倒があるだろうか。
だが次の瞬間、私は本当の意味で戦慄することになる。
「―お―――さい」
「、」
唇が動くのは見えた。続いた声も聞き取れた。
でも最初の一言、覚えのある口の動きで紡がれたはずのひらがなが、北風にかき消されるようにして届かない。
「…その様子じゃビンゴだな」
すっと細められた色素の乏しい瞳に、言葉を返せなかった。ぐらり、揺れた心臓が、早鐘のように脈打ち始める。
断線しそうな思考回路が火花を散らしてフル回転する。
「聞き取れない」。そのわけのわからない事象が裏付けるのは何だった?
「篠崎、今…それどこで、」
「今日が試合だ」
「え?」
「11時から市立体育館。観に行くっつったんだろ、行かなくていいわけ」
相変わらず不愛想に、けれどいつもより口早に告げる友人を、私はほとんど呆然と見つめた。傷んだ髪より淡い色をした瞳は、幾ばくの緊迫を孕んで私の応答を待っている。
―――信じているのか。
骨の髄までリアリストでスーパードライなこの友人が、私の話以外に何の証言も証拠もない、どう考えたって現実離れしたこの異常事態を?
それは余程、今まで起きたわけのわからない事態よりもいっそ余程、非現実的なことに思えた。
「…篠崎、でも、言ったじゃん……宮城なんだ、東京じゃないんだよ」
「あ?だから何」
「何って…今からなんて間に合わないって!それに、検索したって文字化けするのに、本当に存在するかもわか、」
「はあ?」
心底理解できないものを見る目で睨まれ言葉がちぎれる。副音声は「お前馬鹿か?」。
いっそこっちがおかしいのかと思うほど堂々と、篠崎は切って捨てるように言った。
「ジブリもびっくりなファンタジー体験しといて今更なにガタガタ言ってんだ。このあたしが必死こいて調べたのを無駄にする気?」
容赦なく肩を殴られ一歩後退る。たじろぐ私を追い詰めるように、くんっと顎を上げた篠崎は実に尊大に、当然のように言い放った。
「もう十分SFしてんだ、その程度の奇跡起こしてきな!」
絶句した。むちゃくちゃだ。
――――無茶苦茶だけど、腹は決まった。
肩の鞄を投げ捨てる。財布とケータイだけ掴んで踵を返した。行き先変更、駅への最短ルートを割り出しながら全速力で走り出す。
その肩越し、体を捻って、昇降口に佇む友人へ叫んだ。
「ありがとう!行って来る!」
前を向き直す頭に合わせて視界を髪が翻る。最後に見えたのは寒風に茶髪を遊ばせる友人の、やれやれと言った仕草で私の鞄を担ぐ姿だった。
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