半回転する世界に送る

リノリウムの床を進み、ガラス戸の冷たい取っ手を掴んで押し開ける。脱いだローファーを靴箱に押し込み、巻き付けたマフラーを外す間も惜しんで、真っ直ぐに自習室へ足を向けた。
いつもの机の前に立ち、鞄を足元に置いて、深く吸い込んだ息をそのままに、引き出しに手を入れた。

触れたノートの位置に変わりはない。引っ張り出したそれのページを繰った。一番新しいページに更新の跡を探す。
最後の書き込みは私のものだけで、彼からの返答は見つからなかった。

「―――……、」

言葉にならない焦燥が一瞬、胸裏を嵐のように吹き荒れる。癇癪を起こしそうになる苛立ちは、どう考えたって式の成り立たない三角比の解答と睨み合っている時に似ていた。
それでもその納得のいかなさの矛が収まるしかないのは、この理不尽さをぶつける行き場も、解説と答え合わせをしてくれる人もいないからだ。

そこに根拠はない。でも何となく、これが単に彼が大会前で塾に来れないだけだとは思えなかった。

きっともう、『ここ』は『あちら』と繋がっていない。

あの日以来、どう時間をずらしても会えなくなったあの英語講師の存在が、その凡そSFじみた結論に現実味を帯びさせていた。





***




「国立、受けるのやめることにした」

些細な日本語にも迷って組み立てた台詞は、舌に乗った途端に溶けて、予定よりずっと拙い形で飛び出していった。


しん、と静まるリビングから無言の視線が刺さるのを感じる。驚きと疑うような眼差しに答えることなく、ラップに包まれた熱いご飯をぎゅっと握った。形を整えラップを剥き、大判の味海苔を巻き付ける。
随分前にバイト先の奥さんが握ってくれたおにぎりが美味しくて、真似し始めた私のおにぎりは、母の作るそれとは趣を異にするようになった。

「……それで、どうするの」
「青翔大で全免取る」
「ぜんめんって、」
「全額免除」
「…そんな、そう簡単に取れるものじゃないでしょう」
「模試でA判出てる。他にも二校、同じ条件で受けて、貰えるとこに入学する」

入学金、教育充実費、今のバイト代とこれまでの貯金。もう三度はルーズリーフに書き出してシミュレーションした勘定を順繰りに、ほとんど事務的に並べながら、手は休めずにおにぎりを作り終えた。
ティーバッグを落とした水筒にポットのお湯を注ぎ、蒸らす間に使った食器を手早く洗う。

「それなら奨学金も借りなくていいし、バイトで家にお金も入れられるし」

シュンの合宿代とか、ユニフォーム代とか、これからますます嵩むでしょ。

ふと思い出した弟の顔を脳裏に、何気なく付け加えて、腕時計を確認する。あと十分もすれば出発しなければ。水筒からティーバッグを引き上げ、三角コーナーに落とした。それでもまだ返事はない。
ただ感じる視線が途切れることなく向けられたままなのはわかっていた。そろそろ居心地の悪さを覚え、顔を上げる。そうして途端、虚を突かれた。

リビングからこちらを見詰める母の顔を、私は上手く捉えることができなかった。それは予期していたような、これまでと同じ、苦い本音を舌に乗せたまま押し黙った、不機嫌な顔とは何かが違っていた。

目を瞬く。見慣れたはずの母の姿が、なぜだか酷く小さく見える。水筒の蓋を閉める手が止まった。

「……何?」

引き伸ばされる沈黙に耐えかね尋ねる。意図した以上につっけんどんになった口調に、あ、と思った時にはもう遅かった。

急に胸がつぶされたような気がした。物言わぬ母の表情が、昏く沈んでゆく。
不機嫌さでも、忌々しさでもない。母を押し包む沈黙に、落ちた肩に見えたのは、胸を刺すほどの居たたまれなさだった。
言葉なく、いや違う。弁明も言い訳も呑み込んで、黙って糾弾されるまま、母は立ち尽くしている。

負い目と、不甲斐なさ。
名をつけるべきその色を見て取った瞬間、心臓が突き落とされる錯覚を覚えた。

「――――自分で決めたことだから」

飛び出た言葉は反射だった。稲妻のように駆け抜けた理解が思考を凍り付かせようとするのを、捻り出す言葉で必死に防ぐ。

「D判で国立なんて無謀だし、…実力的に無理だったんだ。それに、青翔の心理も評判悪くないし、偏差値が全部じゃないんだし」

押し潰された喉奥が言葉を出す都度痛む。積み重ねるほど下手になる。いやに饒舌な薄っぺらな言葉は、まるで自分のものじゃないみたいだった。ただ話すだけなのに、声が震えるほど冷静を保てない。

「だから別に、」

それでも唇は必死に動いた。取り繕うようなそれが自分の為でなく、母の為であることに、気づかずにはいられなかった。


「別に、……父さんと母さんの所為とか、そういうんじゃないよ」

言った瞬間、どうしてだろう、何のためだろう。
急に込み上げてきた涙が一粒、水筒を握ったままの手に落ちた。






剥き身の水筒を握って、重たい鞄におにぎりを放り込み、逃げるように飛び出した玄関前、つぶされそうで足が止まった。
詰めた息を吐き出した瞬間、呑むように堪えた涙が一気に溢れ出た。

親なんだ。
子供に金の心配なんかさせたくねぇのも、大学諦めろなんて言いたくねぇのも当たり前だろ。

蘇る厳しい声が胸を刺した。言葉選びに容赦がなくて、それでも突っぱねるにはあまりに真摯な声だった。
あの時だって胸が痛んだ。でも理解したわけじゃなかったことを思い知る。岩泉が言ったのは、こういうことだったのだ。

あの後母さんはぽつりと、受験料は出すから、とだけ言った。
私はただ頷いた。今までだったらきっとここぞとばかりにすげなく断ったその申し出を、ありがとうの一言と引き換えに受け止められた。そんなこと、少し前の私なら想像すらできないことだった。

秋風の冷たさが頬に痛い。それ以上の胸の痛さで視界が滲んでどうにもできない。気持ちの整理がつかなくて、頭の中もぐちゃぐちゃだ。

それでもたった一つ。迷子になった子どものように、身を切るほどにそれだけ願う。


岩泉に会いたい。
どうしようもなく、ただ会いたかった。


この状態で楽しくお喋りなんてできるはずない。でも何でもいい。叱られても窘められても呆れられても構わない。
私がいかに浅くて馬鹿だったか懺悔を、いや、それもいい。声を聞ければそれで。それだけでいい。

それだけなのに。

「…っ、」

でもどうして。どうすればいいというんだろう。
だってもう、彼とはきっと、ノートの上でさえ会えないのに。




***






それは本当に何気ない偶然だった。
いや、本当に『偶然』だったんだろうか。

思い出すたびに確証が薄れるのは、それが答え合わせの解説がある文法問題でも、ifルートのあるRPGゲームでもない、不可逆的な現実であるからだ。



月バリの最新刊が書店の店頭に並んだのは、県大会予選まで一週間を残そうという平日の練習帰りのことだ。

立ち寄ったついでとばかりに漫画や参考書を物色する仲間たちを横に、手に取ったそれをめくる。地方によってはすでに予選を終え、春高出場校が決まったところもある。高校数の分母の大きい関東圏なんかの激戦区になると、始まるのが早くとも決勝までが長いんだろうが―――思いながらめくっていたページが、ちょうど東京予選の途中経過と優勝候補校の特集にさしかかる。

ぱらり、何気なく指を止めたのは、見覚えのある選手名や写真が気を引いただけの話ではなかった。

「…この制服」

全国指折り、と銘打つ選手の、紙面の半分をぶち抜くスパイクモーションを捉えた写真ではない。目が留まったのはその右下、小さく切り取られた教室風景を映した一コマで談笑する生徒たちの制服だ。

特別目立つデザインじゃない。なんなら公立高校にありそうなオーソドックスなグレーのブレザースタイルに、赤のストライプのネクタイ。良くも悪くも特徴は乏しいが写真越しにも仕立てが良く、私立らしく趣味の良いセーターは色の種類が多かった。

そして既視感を覚えたのはその色合いだ。上下のライトグレーとクリーム色、首元に映えるワインレッド。

なんか、ザ・私立って感じの制服だね、岩泉んとこのって。

うちも私立だけどこんな趣味良くないな、とまじまじ眺められ、どうせ似合わねーだろ、と渋面を作ったのはいつだったか。制服で行ったということは、テスト期間だったのかもしれない。

うちより都心に馴染みそうだ。
馴染んだところでどうすんだよ。
…、確かにメリットないな。じゃあやっぱどうでもいいや。

いや、確かに言ったのは俺だが、その反応は反応で女子的にはどうなんだ。
制服がらみで勝手にふてくされていた自分が馬鹿らしくなる反応へ、半分呆れて黙った俺に、豪快な発言のわりにころころと笑った彼女は―――名字は大抵、学校終わりのまま来るんだろう、予備校で見るのはほとんどいつも制服姿だ。

その名字が纏う制服と、写真の中のグレーが酷く似ている。

「いや、んなわけ…」

ないか。そう独りごちかけて、けれど不意に言葉が止まった。

紙面に目を落とす。ここは宮城だ。そしてこの、同じWSとして悔しくもゾクゾクするほど綺麗なフォームで滞空する選手の横に並んだ高校名には、東京都の文字がくっついている。

梟谷学園。全国出場の経験も豊富な、東京都代表候補の大本命。
その学校名をなぞる胸裏に、ふと引っかかったことがあった。

――そう言えば、名字の高校はどこだったか。

あの駅前の塾に自転車で来れる距離なのだ、学校はともあれ自宅はさほど遠くないところにあるのだと思う。
そう思っていた彼女の通う高校の制服を、自分は彼女以外の姿で見かけたことがあるだろうか。

「……、」

月バリの紙面に映る写真は小さい。細部までわからない画像に頼るのをやめ、スマホを取り出し検索バーを呼び出す。

梟谷学園、制服。数秒足らずで飛んだ画面に目を疑った。


「――――なんだ、コレ」


表示不能で潰れた写真、意味を成さない文字の羅列。

文字化けしたウェブページが延々連なる画面を前に、得体の知れない気味悪さが、背筋を冷たく滑り落ちた。


180506
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