だってきかれなかったから



ジャージのポケットに押し込んでいたスマホが震えるのを感じたのは、居座って二時間ほどになるファミレスにて大食漢の並み居る体育会系たちがようやくデザートに取りかかった頃だった。

物言いと造作の基本が雑で、物も人もぞんざいに扱うことに定評のある彼女はしかし、スマホのマナーモードのオンオフに関してはかなり几帳面な方だ。とは言え校門を出ると同時に設定を切り替えたスマホが、着信を知らせることは滅多にないことだった。

「、電話ですか?」
「…みたいだね。ちょっと出る」
「はい」

鳴りやまないバイブ音に怪訝そうな顔をしたひとつ下の後輩に断り、席を立つ。どうしたー?と聞いてくる連中に電話だとだけ答え、レジ傍の店員に目だけで断りを入れた。ガラス戸を押し開け、いったんファミレスの外へ出る。

昼間は動けば汗ばむほどの陽気は跡形もなく、肌寒い夜気が首筋にかかるざんばらの髪を舞い上げる。傷んだそれをうっとうしげに払いながら覗き込んだ液晶画面には、つい数時間前に別れた友人の名前が表示されていた。

「…?」

真面目な性格に反して意外に連絡不精のこの友人は、用がない限りラインもメールも寄越さない。それなりの付き合いにはなるが、電話がかかってきたことは一度もないはずだ。目を眇め、通話ボタンをタップする。

「もしも、」
『っもしもし篠崎ごめん今いい?』
「あ?」

知らない人が見ればメンチ切ってんのかと聞きたくなるような応答であるが、本人としては意表を突かれて驚いただけの反応である。いつもならそのガラの悪い反応に突っ込んできたであろう友人の声には、しかし明らかにそんな軽口を叩く余裕は伺えなかった。むしろ取り乱す一歩前で辛うじて冷静を保っていることの伝わる声音に、ジャージの少女―――篠崎光琉は眉を顰めた。

「いいけど、何、どうした」
『すぐスマホで検索して欲しいことがあるの、今日話してた塾の同級生の学校』
「は?」
『お願い篠崎、なんかおかしいんだ…!』

前後関係の一切わからない唐突な要求に、とにかく一から説明しろと言いたくなったのを篠崎は一旦呑み込んだ。状況はわからないが余程切羽詰まっていることはわかる、とにかく言われた通りにしてやってから聞くのが一番だろう。思って耳元から離した液晶に、通話を維持したまま検索バーを呼び出す。

「…なんて検索すんの」
『!――――って』
「あ?」

聞き取れない。夜風の所為だろうか。彼女は舌打ちし、一度離したスマホを耳元へ戻した。

『だから、―ば―――い!』
「……?」

…なんだ?
顰めた眉の意味合いが変化する。「なんかおかしいんだ」。焦った口調で口走った友人の言葉が反芻される。だから、まではクリアに聞こえたはずの言葉が、肝心なところで聞き取れない。

『試合、観に行くって言ったんだ…!約束したのに、高校が、』
「ちょっと名字、落ち着いて喋んな。聞き取れないだろ」
『……聞き取れない?』
「、」
『篠崎、これは?今話してるのは聞こえてる?』
「…今のはわかるけど」

水を打ったような沈黙が電話線越しに張り詰めた。耳へきつく押し付けたスピーカーは、細く漏れる呼吸音を拾っている。

何か妙だ。そうでなくとも電話の向こうのただならぬ様子に、一体何事かと問い質そうとした。しかしその彼女を先んじたのは、一周回って落ち着いた、しかしそれゆえにまるで落ち着いていないことがすぐわかる声。名前は噛んで含めるように、ゆっくり口にした。

『じゃあ、もう一回聞いて、その人が通ってる高校は』

篠崎はいよいよ眉間の皺を深くした。思い出したのは慣れ親しんだカルキの匂いと、外界を遮断する水中世界。
水か、それよりもっと固形感のあるゼリーでも間に挟まれたように、くぐもった不明瞭さがひらがなの音を潰している。

事情はわからない。だが篠崎は端的に事実を告げた。


「―――聞き取れない」


電話線の向こうは今度こそ沈黙した。うそ。掠れた声で呟かれたその二語を、スピーカーは確かに拾っている。
その声は顔の見えない友人の驚愕を、そこに影を落とす絶望的な何かの色を語っていた。






****






「―――先生」

今日ほど全速力で塾に来た日はなかった。肺が痛い。息を切らしている自覚はある。でも脈打つ心臓は自転車に飛び乗る前から早鐘の如く波打っていた。背筋にじわりと滲む汗も、体の火照りから来るだけのものではなかった。

「あら名前ちゃん、こんにちは。随分お急ぎですね?」

押し開けたガラス戸の向こう、講師ブースのパソコンを前に整わない息を呑み下す。どうかしましたか。言いながら見上げてきた怪訝そうな表情は、いつもと何ら変わりなかった。


「先生、ここ、東京ですよね」


質問を無視して連ねた言葉に、先生がはたと動きを止めた。瞬く瞳がこちらを見据え、きょとりと首が傾げられる。

邪気は無い。でも違う。この人の瞳はいつだって私の向こうに何かを見つけていた。その何でもない、不思議そうなだけの顔にはもう誤魔化されない。

「ええと…。このビルは駅前にありますよね?名前ちゃんのおうちの最寄りの」
「…はい」
「名前ちゃんのお住まいは東京でしたね」
「……ええ、そうです」

柔らかな声が反駁を封じる。速度を上げて脈打つ心臓が身体ごと震えている。応じた声が揺れたのはそのせいだ。
怯んでなどいない。準備した言葉が王手を指そうとしている真実と、その矛盾に対して身構えているだけだ。

「なら名前ちゃん、答えはわかりきってるでしょう」

先生は柔らかく笑っている。だが私は言葉を止めなかった。


「でも先生、『ここ』、東京じゃないですよね」


積み上げてきたものを疑ったことなどなかった。
ノートのやり取りも並べた机も交わした言葉も知った温度も、全て何でもない日常の積み重ねだった。特別なことなんて一つもない。だから考えもしなかった。合わせた歯車がまるで噛み合わないことに、今の今まで気づかずにいた。


「だって奇妙しいでしょう、岩泉は」

――――岩泉は、宮城にいるのに。


練習は遅い時には八時を回ると言っていた。塾のある日でさえ七時終わり、学校を出るのは七時半で、直帰で来ても到着はせいぜい授業五分前。
その彼が、どうして東京のローカル線の、それも特急さえ停まらない駅前の予備校に通ってるんだ。新幹線でも一時間半はかかる東京に。七時半に学校を出るのに?現実的でないどころか物理的に不可能だ。

観に来るか。

言われて、驚いて、でも驚いただけで、迷うことなく頷いた。絶対観に行く。言葉少なに応じれば返ってきた小さな笑みは、瞼の裏に焼き付いた。

開催地を調べた。都内の有名な体育館、交通手段は見つかった。では試合日程とその時間は。まだ決定していないかもしれないが、調べるだけ出してみようと彼の高校名を検索し、その検索結果に戦慄した。

ことごとく文字化けしたウェブページ。


「――――先生、『ここ』、どこなんですか」


先生は笑みを消していた。足は完全に震えている。追及しているのは私に違いないのに、まるで私が追い詰められている。

液晶画面の異常性に凍り付いた。写真は正常に映らず、クリック先は全てエラー表記で埋め尽くされた。

咄嗟に電話をかけたのは別れたばかりの友人だった。私の端末がおかしいのか。きっとそうだ。そうでないはずがない。不審げに、けれど何も言わず応じてくれた友人に高校名を伝えた。

会話に支障はないはずの電話線越しに、友人ははっきりと言い切った。聞き取れない。

電話を切ったその端末で、「青葉城」で検索した。その所在地にいよいよ頭がおかしくなりそうになった。ついに血の気が引く音を聞いた。

「宮城県仙台市って…そんなわけないでしょう、」

だって、私が通っている高校は。

「梟谷は都内にあるのに?」


壮大なドッキリだった?いっそそう言ってくれた方がまだ現実味がある。でも本能はそうじゃないと確信していた。

岩泉は確かにここにいた。雑誌に乗っていたとか、検索エンジンが異常をきたすとかそれだけの話じゃない。
間違いなく彼は現実の存在で、仲間がいて人生があって、そのひとかけらたりとも嘘じゃなかった。瞳も笑みも筆跡も、過ごした時間も交わした言葉も幻などとは程遠い、全てが血の通った生身の現実だったのだ。

岩泉は確かに私の目の前にいた。東京にいるはずの私の前に。
なのにどうして、彼は宮城にいるというんだ。どうして彼の高校は正常に検索できないんだ。

チャイムが鳴る。始業開始のベルだ。
先生は時計を見上げ、穏やかに告げた。

「さあ、もう行かないと、名前ちゃん」
「先生」
「授業が始まりますよ。数学の先生がお待ちです」
「先生!」

無理をおして熱を出しみっともなく泣いた挙句、先生に車で送ってもらった日のことが頭を過ぎる。
家まで送ると申し出てくれた岩泉を止めた先生は、困った笑みを浮かべて言ったはずだ。


『お家の方向がね、多分全然違うんですよ』。

あれは一体、どういう意味だった。


「名前ちゃん」


先生が私を呼ぶ。その瞳が、私の口を噤ませた。


「今なら間に合いますから」


反駁を手のひらで覆うように、唇に指を乗せて封じるように。
その声は諭しとも懇願ともつかぬ、凪いだ静けさを纏っていた。



180426
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