噛み合わないに気付かない

久々に取り出したノートは残すところ三分の一となっていた。更新された最後のページが随分遠い昔のように思えたのはきっと、この数週間は直接顔を合わせて話すことがほとんどで、ノートを介する必要が乏しかったからだ。

逆に言えば、このノートを取り出したということは顔を見る機会がなくなったということでもある。

『最近姿が見えないけど、結構忙しかったりする?』

たったその一行がどうにも上手くまとまらず、書いては消してを二度繰り返し、これはノートが真っ黒になると予見してルーズリーフに切り替え下書きを開始したのは正解だった。ただ近況を尋ねたいだけなのに、どうにも語尾が、言い回しがしっくり馴染まず決められず、散々迷ってなんとか決めた一文をノートに戻って書き込む頃にはコーヒー休憩を挟みたくなるほどぐったりしていた。

だってアレだ、下手するとまるで「なんで会えないんですか」的な感じになるじゃないか。別に怒ってないしそもそも怒る理由も権利もないけど怒ってるみたく捉えられたら由々しき誤解だし、かと言って「会えなくて寂しいです」的フレーズになると何だその女々しい系面倒女子って私の方が渋面になる。いや、結局はそうなんだけど、つまり会えないことに寂しさとは言わずとも、物足りなさのようなものは感じているわけで、その絶妙なところを伝えるにはどうすべきかと途方に暮れ。文字コミュニケーションとはかくも繊細なのである。

そんなこんなで苦労の末記した一行メッセージには、しかし実にあっさりといつも通りの返信が返ってきた。

『悪い、言ってなかったな。予選前で月曜のオフも自主練に充ててんだ』

ああそうか、そう言えばこの時期が予選だと夏休みに話を聞いていた。
都道府県によって日程は異なるそうだが、春の高校バレーに向けた地域大会の開催は主に10月から11月だという。そう言えばうちの学校もついこの間二試合を勝ち上がったんだっけ。

いや、決して興味が無いわけじゃないが、如何せん私が属するのは受験シーズン本番を迎えた進学科。そこそこのマンモス私立かつ全国クラスの強豪、毎年ブラバンとチアの揃った応援には一、二年時は参加出来たものの、流石に最終学年ともなると足が遠のいてしまうのだ。

『そっか。いつから始まるの?』
『二次予選は10月からだ。日程はまちまちだけどな』

彼から託された英文解釈にヒントと解説を書き込み、その下にメッセージを書き加える。そっか、大変なんだね。応援してる。確かに本音の筈なのに、ノートを上滑りするシャーペンの鉛にどうにも上手く感情が乗せられない。

これが声なら、もっと心の滲むトーンで届けられるのに。思った本音に複雑な気持ちになる。顔を合わせて出会うまでの数か月はこの方法で何の不都合なくやり取りが出来ていたことが信じられない。

「……会いたいなあ」

御託を並べて濁しに濁したはずの一言が、結局ぽろりと言葉になった。けれどそれは妙な感情だとか気まずさを湧かせるものではなくて、ただ単に、不意に強く、会ってたくさん話をしたいと思ったのだ。

私は話の上手い方じゃないし、彼も自分のことを話すタイプじゃない。話題に上るのは勉強とか部活とか、それぞれの友人の話なんかの当たり障りのない二階級のテーマで、でもその踏み込み過ぎない距離感が気楽で、互いに不自由していなかったんだろう。

彼は結局、推薦を受けるんだろうか。それも春高次第なのか。そもそも推薦試験っていつ頃がメジャーなんだろう。予選を勝ち抜いたとして、確か春高は一月で、ならセンターは受けるんだろうか。いや、私大の推薦だったはずだから、センターは必須じゃないのか。

聞きたいことが湯水のように溢れてくる。机を挟んでシャーペンを握っていた時間は、顔を上げれば相手がいて、一声かければ眼差しと返事が返ってきた。その気安さの価値を思い知る。一つを尋ねた答えが返ってくるのは数日後、たくさんの時間をかけても相手のごくわずかしか知れないのがこのやり取りの前提の筈なのに、つい直接会えるようになるとその難しさを忘れ、直に話を出来ることの貴重さも実感出来なくなってしまう。

岩泉の授業は水曜だ。次の返事は早くても来週の木曜になる。何を聞こう、何を話そう。思って何気なくページをめくった、その次のページの右端だった。
罫線を無視して斜めに走る走り書き。

『観に来るか、試合』

「――――ッ、」

がたん、思わず自習席を立ったのはほとんど衝動だった。そうして立ち上がったところから見下ろすノートを凝視する。見間違いじゃない。トメハネのきちんとした、しっかりした筆圧のそれは彼の字だ。

ノートを手に講師スペースに走る。数名の外の自習生が怪訝そうな顔でこちらを見たけれど、音を立てたことを謝る余裕もなくパソコン前に座る先生の姿を探した。キーボードを鳴らしていたのは私が授業でお世話になっている数学の先生だ。黒髪と黒縁メガネの奥の静かな瞳が、駆けこんできた私に軽く見開かれる。

「すみません、あのッ」
「はい?」
「岩泉…くんの、学校って、どこでしたか」
「岩泉くん?」

英語で来てる背の高い子かな。そうです、黒髪でちょっと厳つめの。
少し首を傾げ間を置く先生に焦れったくなるも、そもそも数学担当の先生は英語しか受講していない岩泉と面識がないかもしれない。察した通り、先生は少し困ったように笑った。

「うーん…ごめん、私立だったことは覚えてるんだけど、名前までは」
「…そうですか」

なら、いつもの英語の先生はいらっしゃいますか。そう聞こうとした私を先んじて、数学の先生が言葉を重ねた。

「ああでも、直接聞けるんじゃないかな」
「え?…でも今日、水曜じゃないですよね」
「そうなんだけど、」

ちらり、黒縁眼鏡の向こうの理知的な瞳が、不意に玄関口のほうへ流れる。つられるように振り向いたその時、先生にはどうしてわかったのだろうか、いつも通り蛍光灯の光の反射で向こう側の見えないガラス扉ががちゃり、音を立てた。開く戸口から吹き込む冷気、くたびれたスニーカーとくぐるように踏み込む長身。ぱちり、噛み合う視線の凛とした猫目には、見間違えようなく見覚えがあった。

「、お」
「え―――なんで?」
「大会が近いからと、今週は授業を振り替えたんですよ」

解説をくれた先生の方に相槌を打つ余裕はなかった。久方ぶりに目にする彼の姿は、これまたさらに久しぶりのジャージ姿で、当然ながらその白とミントグリーンの眩しい出で立ちの胸元には、学校名のロゴが入っていた。ローマ字の並びを追いかける。
アオバジョーサイ。

「おう、名字。なんか久しぶりだな」

靴を履き替え、こちらに近づいてきた岩泉が気軽に言う。それと同じだけ気軽な返事をする間もなく、岩泉がふと私の手元に目を落とすのがわかって、私は思わず準備しかけた気安い挨拶を飲み込んでしまった。幸い閉じたままのノート、けれど彼はそこに書いたメッセージを忘れているはずがない。
私の手の中のノートを捉えた岩泉が、一瞬動きをぎしりと止める。不自然に逸れる視線、瞬時に伝播する何とない気まずさに、ぶわり、心臓が沸き立った。

いやちょっと待ってくれ、これこういう空気になるイベントなのか。至って普通に気安く誘ったんじゃなくて?勘弁してくれ、いや別に不快とかそういう話じゃ全くないんだけど、単にそっちがそういう反応すると全然何でもないはずの話が私の中でビッグバンする準備を始めかねないわけで。

がたり、椅子が鳴る音に肩が跳ねる。二人揃ってぐるりと振り向けば、数学の先生がパソコンの前から立ち上がり、筆箱や教材を小脇に抱えたところだった。そうしていつもと何ら変わりない温度で、「あと十分ほどだから、遅れないようにね」と言い残し、講師スペースを出てゆく。自分に向かって言われたことだと気づくまでに数秒かかった私があわてて背中へ返事をすれば、挙がった片手が返事をくれる。ぱたん、講義室の戸が閉まれば、再びしんと舞い戻る沈黙。

「…観に来るか」
「!」
「初日は平日だし無理かもしんねえけど、その次は週末になる」

もともと感情豊かに話す方ではなく、けれどいつにも増して素っ気ない口調だった。彼は間違いなく私よりずっと度胸があって、それゆえに恐らく腹を括るのもきっと早い。柔らかな光沢を帯びた白のジャージ、そのお腹あたりを見つめたまま硬直しそうだった視線を引き上げた先には、息をのむほどまっすぐに私を見下ろす瞳があった。

ふっと気まずさが霧散する。それは多分、真剣な人を前にした時思わず気の引き締まるような、もっと言えば何か厳粛なものを前にした感覚に似ていた。

「うん、行く」

絶対観に行く。

頷くのに迷いはなかった。それでもこみ上げるもろもろは捉えきれなくて、かたどる言葉はたどたどしく続いた。
岩泉が少し目を大きくする。一瞬逸れた視線が戻ってきて、真一文字に結ばれた唇がふっと弧を描く。同じように緩んだ目元を見詰める時間はそれほどなかった。

「決まりな」

ふっと落ちてきた影が、不意の質量を伴って頭に乗った。手だ。理解した瞬間、くしゃり、掴むようにひと撫で、大きな手のひらの指の間を、自分の髪が滑ってゆく感覚。
踏み込んできたジャージの柔軟剤と、多分、製汗剤のシトラスの香り。脇を通り過ぎてゆく彼の背中は知っていたよりずっと大きく、取り残された体は声もなく立ち尽くす。

足音が遠ざかり、講義室の戸が開閉する音がする。そこからたっぷり五秒かけ、ようやく解凍した足が崩れ落ちそうになるのをすんでのところで堪え切った。知らず、握りこんでいたノートの表紙はひしゃげ、ざわざわと落ち着かない心臓もろとも俯かせた顔は熱い。

避けがたくビッグバン。予定外の大爆発にこの後の講義を思ってため息が出た。どう頑張っても集中できる未来がない。


180321
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