相対せよ、さすれば見える



「先生」
「はい?どうされました、名前ちゃん」
「心理学部があって、私でも全免取れる私大ってありますか」
「、」

握った赤ペンをノートから浮かせた英語講師が虚を突かれたように名前を見詰める。それを真っ直ぐ迎え撃てば、講師は一拍置いてペンのキャップをぱちんと嵌めた。丸付けを中断した手が、親指で奥の面談スペースを指し示す。

「コーヒーでいいかな?」
「…ご馳走になります」

一々芝居がかった仕草をする人だ。それが妙に似合うくせして笑った顔がどうにも抜けている英語講師に、名前はひとつ頷いて面談室の椅子に腰かけた。





「名前ちゃんの力なら偏差値50ほどの免除は堅いでしょう。そこから心理学部のある、かつ全額免除制度の存在する大学に絞ると、めぼしいのはこの4校です」

白紙のコピー用紙にボールペンの癖字が書き出してゆく学校名は、いわゆる中堅クラスの私大。もともと偏差値の高い私立校の進学科に通い、国公立志望である名前からすれば滑り止めにも考えていなかったラインナップのはずだ。

当然ながら国立に比べ偏差値もネームバリューも数段劣る。学年トップクラスのスコアを出すこの少女には少々屈辱だろうか。しかし英語講師が様子を伺った名前は――この講師の予想通り――すでにそれも想定していたのだろう。顔色を変えず、しかし堅い面持ちを崩すこともなくただ頷いた名前に、講師は一瞬黙し、再び口を開く。

「私大の学費は実習費や教育充実費なんかの名目で、学費とは別に上乗せがあるのがセオリーです。合計すればどこもおよそ年間100万超えが相場でしょう」

授業料を年間70万に仮定すればその他費用は約30万。今挙げた私大のどこも「授業料免除」ではカバーしていない範囲の経費だ。つまり無事全額免除をもぎ取ったとしても、この分だけは毎年支払う必要がある。

「例えばこの大学なら半期の授業料が40万、教育充実費が15万。全免で入ったとすれば一回生の前期、恐らく6月にはこの15万の支払いが必要になります。後期分はバイトで何とでもなるとして前期分、もし名前ちゃんがこれを自分で払うなら―――」
「バイト代からと、お年玉なんかの貯金を合わせればいけます」
「クリア。入学金のアテはありますか?」
「、……」
「オーケー、私立の一般入試は2月、入学金の振り込み期限は大体2月末でしょう。今ある貯金を入学金に充てて、実習費は6月までに準備するならあるいは」

入学金は20万前後、今ある貯金で数万のお釣りがくる。となると実習費の不足分を少なくとも6月までに稼ぐ必要がある。3月からバイトを詰めるとして4カ月間、否、念のため5月までの3カ月。
一か月およそ3〜4万の稼ぎか。コピー用紙に書き出されてゆく具体的かつ現実的な計算を必死で追いかけていた名前は、拓ける視界に上擦る声で頷いた。

「…行けます、シフト増やせば問題ありません」
「ならこの四校どこでも選べますね、今言った大学がトータルコスト最高値なんで。年間費用が安い順に並べればこう…差額は半期で10万ほどだね」

偏差値で言うとこの順序、まあ団栗の背比べでしょう。免除枠の広さは右から順に6、3、4、…確かここは2人、学部ごと。ただし条件の擦り合わせだけで選択しないこと。一度はオープンキャンパスに行って実際の空気を肌で感じて下さい。学生の雰囲気や校風には合う合わないがありますからね。

「それから入試日程と受験料ですが―――」
「…あの」
「はい?」
「私、志望校のこと、先生にお話ししましたか?」

ぱちぱち。そう大きくはない瞳だが、それなりの長さの睫毛をした講師が名前を見詰めて二度瞬く。とぼけたような表情だが、しかしこの講師がその実非常に演技上手であることは名前もすでに把握済みだ。

ほぼノーモーション、調査のためにパソコンの検索バーを呼び出すことすらせず提示された資料と計算式。無論一応は予備校講師、ある程度の進路指導は出来るだろうが、こうもピンポイントの情報を淀みなく説明できるものか。
むしろ前もって準備されていたといった方が納得できる。そんな名前の予感を読んだのだろう、英語講師は降参するように肩をすくめて笑った。

「いいえ、何も。国立を目指す上で滑り止めに良いところがないか、勝手なお節介で検索していただけですよ」
「……国立は、受けないかもしれません」
「…そのようですね」

講師は頷く。全額免除を前提にした私大について尋ねてきた時点で察しはついていた。名前の模試の成績が揮っていないことも確認済みだ。
粗方察しをつけられていたことを確信したのだろう、名前はようやく表情をゆがませる。講師は静かに目を細めた。ここにきてついに滲む割り切れない悔しさと葛藤。
学校違いの精悍な青年が上手くガス抜きしてくれたのは間違いないようだが、どうしたってまだ10代の子ども。気持ちを切り替えるには時間が必要だろう。

ぎしり、背もたれにもたれかかった講師は幾分冷めたコーヒーを口に運ぶ。そうして遠慮なく切り込んだ。

「偏差値の低さが気になりますか?」
「!」
「あるいはネームバリュー。中堅私立と国立じゃ雲泥の差―――と、思いますか?」
「…実際、差はありますよね」
「否定はしません」

では名前ちゃん。

「その偏差値は、人の価値を表すと思いますか」

がつん。金づちで頭を殴られたような、という比喩表現の意味を初めて体験したと思った。名前は呆然と見開いた瞳で、試すような笑みを湛える講師を凝視した。

「…これは個人的な持論で、かつ受験生を前に塾講師が言うには大凡相応しくない発言であり、同時に厳然たる事実ですが。

偏差値云々吹っ飛ばして、そもそも大学なんぞ行かなくとも、人間"ちゃんと"生きていけます」

当たり前って思いますか。でもそれを認識できてる高校生って、特に進学校ですけど、殆ど絶滅危惧種なんですよ。
学生さんの世界って、私自身そうでしたが、当人が思っているほど広くないんです。偏差値の高いとこは余計に、基本が学校と家と、まあ塾程度の往復で、周りにいる大人は親か教師だけって生徒さんも少なくない。そんで、塾・予備校は言わずもがな、大抵の高校は生徒の将来と学校の実績のため、生徒に大学進学を奨励します。親も将来的な「成功」と「幸福」のため、それを望むことが多いでしょう。

「―――良い高校に行き、良い大学に入って、優良企業に就職することが人生の『成功』。それが出来ないことが『失敗』。
提供される身近な人生のサンプルがその二例だけだとすれば、無数にあるはずの他の選択肢が入る余地なく世界は閉じてゆきます。人生にはその二択しか用意されていないように『錯覚』してしまう生徒さんを、もう何人も見てきました」

でもそうじゃない。ただ知らないだけだ。何千万の人間が生きる世界と社会と人生が、それほど単純なわけがない。道は一つではなく、何か一つを踏み外しただけで全てが台無しになるほど人生は薄く脆くもない。そうあるべきでも、そうさせておくべきでもない。

「大学に行かなければ『まともに』生きていけないと思いますか。確かに一定水準以上の生活をするのに、大卒は有利かもしれません。

では、大学に行かなければ『幸せ』になれないと思いますか」

「――――、」

答えを探す間隙もなく、考えるだけの思考も追いつかない。物柔らかな口調の、抉るような問いかけを、名前はただ呆然と受け止めた。立て続けの衝撃を受け止めるのに精一杯で、返す言葉はひとつも思い浮かばなかった。

当然のものとして踏みしめてきた足場、息するように鎮座していた前提が呆気なく叩き壊されてゆく。それをもたらした薄く浮かんだ食えない笑みは、穏やかに、だが愉快気に、どこか挑むように名前を見据えている。

「思うにね、名前ちゃん。社会での成功と、人生での成功は必ずしも一致しない。
さらに言えば、世間が『幸せ』や『成功』と呼ぶものが、自分にとってそうであるとは限らないんです」

どうすれば幸せになれるかはきっと、何を幸せとするかの価値観に依存する。それを社会に、常識に決められるがままにしてはいけない。最終的にそれらの提出する定義と一致する答えになるとしても、自分の頭で考え、いろんなものを見て感じて、その結果導き出した結論でなければ意味がないはずだ。

「名前ちゃん、名前ちゃんは、どんな人になりたいですか」

高学歴のキャリアウーマンになりたいんでしょうか。それともただ、幸せになりたいんでしょうか。

「……っ」

大学の四年間はモラトリアムと呼ばれる。寝て過ごすことも勉学に費やすことも出来る人生の夏休み。だがその主眼は、主に高校三年間で狭窄した視野を広げることにも在るのかもしれない。
どんなキャリアを、就職を、だけではなく。漠然と、抽象的と言われてもいい、ただもっと広く。
どんなひとになりたいか。それをゆっくり考えるために使える時間。

「『幸せな人生』の定義は結局、自分の考え方、価値観次第です。
学歴や年収を条件とするならば、その人の人生は酷く虚しいものになるでしょう」

黙りこくったままの名前に、講師はマグのコーヒーを飲み干した。そして、「まあすべては一個人の一意見なんですけど」と改めて前置き締めくくる。

「問題は『どこに行くか』ではなく、『何をするか』ということです」

チェックメイト。何故だか聞こえたそんなフレーズに、名前は込み上げる諸々を整理出来ないまま、ようやくただ一言、「はい」とだけ口にした。

心の奥底で何かが生まれては弾けての小爆発を繰り返している。形にならず定義も出来ない、けれど眩しくて新しいその何かの感覚を一つ残らず忘れまいと、名前は冷めたコーヒーを流し込むように飲み切った。
口元を拭い、そうしてふと、心の箱を開けるように零す。

「…うち、母方の家が、極端な学歴主義で」

それはこれまで学校の担任にも友人にもこの講師にも、岩泉にすら話したことの無かったことだった。隠していたかったわけではない、ただ特別誰かに言いたいと思うことなく単に黙っていただけのことを、何故だか不意に取り出した。取り出したそのままを手に取って、初めてじっくり眺めている気がした。

「それが…すごく嫌いで、でも」

醜さを嫌悪し、窮屈さを疎んだ。こんなものに囚われてたまるかと酷く反発した。だが同族になるまいと強く意識する反面、今の今まで気づかずにいたのだ。

「―――私もおんなじだったんですね」

よく晴れた眼だ。講師は何も言わず、ただ眩しげに目を細めた。気付けた時点で、キミはもう同じじゃない。そんな一言はきっと言葉にせずとも、名前には伝わったはずだった。


180308
岩泉さん出てこなくてすみません。
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