優しさだけが正義じゃない


「や」

ひょい、と片手を上げた名前は顔の下半分、否、三分の二ほどをマスクに覆われていた。それでもそこに浮かんだ笑みを岩泉が察することが出来たのは、覗いた瞳が緩やかな弧を描いているのがわかったからだ。

「もう良いのか」
「マスク装備を見逃してもらえるなら」

言いながら持ち上げたビニール袋はコンビニのそれか。中に詰め込まれたペットボトルと肉まんらしきシルエットに、相変わらず律儀なヤツだと岩泉は相好を崩して応じた。




流石に肉まんレベルとなると自習室で食べるのは気が引ける。秋も深まる11月、病み上がりには少々肌寒いだろうとやや懸念した岩泉の予想に反し、名前に続いて出た廊下の外気は冷えてはいなかった。今日は一日北風が冷たかったのだが、建物内はそう影響されなかったのかもしれない。

「肉まん派?ピザまん派?」
「名字はどっちがいい」
「どっちも好きなんだよな…」
「じゃあ肉まん」
「ん。コーヒーかお茶だと?」
「茶で」
「オッケー」

差し出されたボトルと肉まんの包みに礼を言えば、「借りが多いからね」と軽口が返ってくる。あっけらかんとした口調に重さは無いが、張り詰めた糸がぷつんと切れたように泣き出した痛々しい様は記憶に新しい。何となく言葉を返さずにいるとふと流れた沈黙に、マスクを外して肉まんにかぶりつこうとしていた名前も手を止め気まずそうに身じろいだ。

「この前はごめん、すごい迷惑かけた」
「…。とりあえずは大丈夫か」
「、うん」

とりあえずは。
名前は言葉少なにリノリウムの床を見詰めた。痛くはない。でも刺さる。何気ないその一言は恐らく無意識の選択だ。彼は多分自分の観察眼が、彼の自覚以上に鋭いことに気付いていないのだろう。

コンビニスナックは熱いうちに食べるに限る。暫くもくもくと咀嚼音だけが続き、先に食べ終わったのは岩泉の方だった。ペットボトルの蓋を捻り、半分ほど飲み干したあたりで、名前がピザまんの最後のひとかけを嚥下する。そのままコーヒーを同じく半分まで減らした名前が、ころりと転がすように言った。

「夏明けのさ、模試の判定が悪くて」

伸びないスコア、D判定。三者面談で親とギクシャクして、季節の変わり目で風邪引いた。授業も集中できず、心に余裕がまるでなかった。

「…志望校変えんのか」
「あー…変えられたらいいんだけど」
「…?」
「うち、私立にいけるだけの余裕がなくてさ」

言葉にされたことはない。だが5歳の子どもでも親の顔色は伺える。18にもなればその懐事情も、隠しきれずに透ける本音も。

両親がどこかで、自分が大学に行かず就職することを期待していることは、高校入学時点で薄々察していた。独り立ちすれば食い扶持が一人減るし、実家暮らしをするならするで家に幾らかの生活費は入る。一方大学に行けば稼ぎ手になるどころか、半期数十万の学費がかかるのだ。どちらがコスパに優れているかなど考えるまでもない。

淡々と、しかし明け透けな言葉で何かを切り付けるように語る名前の話に、岩泉は自然と眉間に皺を入れた。

「直接言われたのか、それ」
「それくらい潔ければまだ良いよ」
「…つーと?」
「金はなくてもプライドはあるからね」

岩泉は思わず名前をじっと見つめた。矢じりに似た言葉の端には、薄暗い蔑みの色が確かに滲んでいた。ペットボトルのラベルに落ちる名前の横顔は、顎までずらしたマスクの間抜けさでは誤魔化せないほど冷えていた。

「『うちにはお金がないから進学諦めて就職して下さい』なんて、普通の親でも情けないとか不甲斐ないって思うでしょ。でも中途半端に見栄は張りたい親はそれじゃ済まない」

事情を話して子供に頭を下げるだけの度量が無いだけならまだマシだ。だが両親は奨学金を利用する提案にすら快い賛成を見せなかった。理由は単純、奨学金を借りないと大学に行かせられないことを、親戚その他にどう見られるか何を言われるか、その世間体を気にしてだろう。

「あの人たち多分ね、私が自発的に進学を諦めて、自分の意志で就職を選んだってことにしてほしいんだよ」

もし名前が勉学に劣り、可も不可もない大学にしか行ける見込みがないとすれば、この流れは比較的作りやすかっただろう。だが両親には不幸にも、名前は学に励むことが苦でないタイプだった。
今より健気で空気を読めなかった中三の終わり、両親の負担を軽く出来ればと全額免除で合格したのは皮肉にも私立高校の進学科。大学進学が前提とされるコースで常に上位五本の指に入る名前が、就職という進路を選ぶとすればそれが一層異質かつ不自然になるのは言うまでもなかった。

言いたいことがあるならはっきり言えばいい。
ずっと燻らせてきた一言だ。意味ありげな目配せで、黙り込む沈黙で、進学説明会や奨学金の申し込み書類へじっとりと落とす目で、言外にかけられる圧力と無言の要求に言い知れない怒りを覚えた。
自分たちの手は汚さずに白旗を挙げさせようと言うのか。そんな狡い手には屈しない。絶対に折れてやるまい、子供じみた反抗でも構わないと意固地になって。

昏く煮立った感情が腹の底から湧き上がってくる。そしてそこに冷水に似た言葉が浴びせられたのは、次の瞬間のことだった。

「そこまで卑屈に考えることねえんじゃねえか」
「、」

今度は名前が岩泉を見やる番だった。瞠目した彼女の瞳に気付いていながら、しかし岩泉は名前の方を見ることなく、廊下の小さな小窓を見詰めていた。精悍な顔立ちの、もともと愛想に乏しい横顔に労わりや同情の色は見いだせない。どこかで期待していたそれらが見えないことに、名前は一瞬言葉を失くした。

卑屈。
何より言われたそのフレーズが、名前の甘えを鋭く指摘し、容赦なく切り捨てたのだ。

「親なんだ。子供に金の心配なんかさせたくねぇのも、大学諦めろなんて言いたくねぇのも当たり前だろ」
「…」
「奨学金だって結局返すのは本人だ。親の経済力の無さで子供に借金負わせるって考えりゃ、ホイホイ勧める方がよっぽどいい加減じゃねえか」
「…そんなの、」
「お前はちゃんと話したのか」

言いたいことがあるならはっきり言えばいい。
親に対してそう言う名前は、じゃあ本当はどうしたいか、面と向かって親に話したのか。親が本当はどう思っているのか、親の口から聞いたのか。

お前の親は、本当にお前が思ってるほど「悪者」なのか。

「…事情も知らねえヤツが何様だって思うかもしんねぇけど」

岩泉がようやく名前を見る。厳しい瞳だった。口を噤み身を固くした名前が、自己防衛もままならず次の言葉を待つしかないほどには鋭い眼だ。
けれど相手のことを糾弾し咎めたいだけの人間には出来ない、相手を本当に案じているゆえの真っ直ぐな眼差しだった。

「あんまり人を、蔑むような言い方はすんな」

それで傷つくのはお前だ。名字の気持ちがねじれるばっかだ。


容赦ない指摘だ。忌憚ない戒めだった。悪意なく真摯で、偽善なく純粋で、ゆえに受け止める他の術の無い、逃げ道のない厳しい諭し。

君に私の何がわかる。舌に張り付く癇癪じみた糾弾を言葉に出来なかったのは、彼の言葉がそれでも、自分を本当に思っての忠言であることを理解せざるを得なかったからだ。

お前のそれは甘えだ。
言外に突き付けられたその指摘は、拗ねた子どものそれと大差ない、名前の卑屈さを叱責しているのだ。

「…、……」

愕然と凍り付いた名前が見る間に萎れてゆく。ともすれば大泣きした先日よりも酷く打ちのめされた顔が、重力に負けるようにして俯いてゆく。
その様に、言ってのけた側の岩泉もまた思わず苦く顔をゆがめた。語調の柔らかい幼馴染と違い、自分の言葉が良くも悪くもストレート過ぎるきらいがあることを彼は知っている。言わねばならない、そう思って告げたことが間違っていたとは思わないものの、傷つけるような言い方になったのは他でもない自分の落ち度だ。

「…名字、俺は―――」

別にお前を責めたいわけじゃ。
言いかけた弁明の言葉をしかしぶつ切りにしたのは、ほろり、名前の眼の縁を乗り越えて転がり落ちた涙のつぶて。
ぎょっと目を見張った岩泉が凍り付くと同時に、俯く名前の顔は彼の視界から完全に見えなくなった。

「うおッ…!?すまん、悪かった、言い過ぎた!」

先ほどまでの落ち着きは見る影もなく消し飛んで、大きな手も猫目の瞳もしどろもどろに泳ぎ出した。やってしまった、しくじった。恐る恐るに触れた肩、その薄さになお狼狽する。

先日の決壊は自分の所為でない(きっかけになったのは自分だったかもしれないが)とわかっていたから焦らなかったが、当然岩泉一という人間が泣いている女子に慣れているなど(名前の予想通り)基本的に在り得ない。少々デリカシーに欠けるガキ大将気質とは言え本質は皆の認める男前の権化、女子を泣かすいじめっ子をとっちめることはあっても、自分が泣かしたことなどほとんどない人生である。

いや言うべきことではあったのだ、ただ言い方とかタイミングとか他にもあったわけで、別に泣かせたいわけじゃなかったのは本当で。
そんな目くるめく彼の大混乱と大変な後悔は、しかしまたも唐突に断絶する。

「!」

傾いだ頭が肩口に触れる。胸元から拳ひとつの距離にあるのは、居ても立ってもいられずに意味なく触れていた華奢な肩。
ぽたり、ぽたりとスラックスの太ももに感じたのは、俯いたままの彼女が落としたに違いない涙の粒だ。すぐに伸びてきてそれを拭った指の細さに、預けられた身体の頼りなさに、詰めた息を呑んだのは無意識だった。

「…悪かった」

酷くバツの悪い思いで呟いた彼の声に、しかし名前は首を振った。吐き出す息は震えていたが、嗚咽になるほど苦しげではない。鼻をすすり、涙を拭い、それでも岩泉の脚に落ちた涙の染みを指が追う。そのまま救いを求めるようにブレザーの裾を握った手に、ぐっと唇を引き結んだ岩泉は何も言わなかったが、ややあってその薄い背を、片手でさえ半分は覆えそうな小さなそれをぽんと叩いた。

岩泉。不意に、涙でよれた声が滲んだままに彼を呼ぶ。間を置いて、しかし身じろいだ彼が聞き返すよりは早く、名前は息つくように呟いた。
それは思考に編集されず、心が呟いたまま取り出しただけの言葉だった。

「…ありがとう」
「!」

同情を期待した。労いが欲しかった。
けれど、「欲しい」言葉と「必要な」諭しは、往々にして一致しないのだ。

容赦ない指摘に確かに傷つき、幼稚さを暴かれて酷く恥じ入った。それでも彼に対して理不尽な逆恨みや怒りを覚えるのではなく、ただ打ちのめされた痛みのゆえに涙を堪えられなかっただけの自分を、名前は不甲斐なく思い、それでも心底ほっとしたのだ。

180207
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -