沿線上の綱渡り



「『急がば回れ』、という諺の意味は覚えてますね?」
「…」
「お小言はそれで十分でしょう」

窘める口調には呆れこそ滲めど棘はない。しようのない子だ、そんな副音声が聞こえてきそうな声音に、返す言葉もなく口をつぐむ。そうでなくても泣き暮れたせいで一層重くなった頭と体じゃ、声を発するのも億劫だった。

促された助手席に大人しく収まればドアを閉められ、数拍置いて先生が運転席に乗り込んだ。伸びてきた腕がリクライニングを利かせてくれたのに甘えて体を倒せば、エンジンをかけた先生の声がかかる。

「ああ名前ちゃん、シートベルト忘れずにね」

運転ねえ、得意じゃないんですよ私。実に朗らかに恐ろしいことを言う先生に風邪とは別の寒気を感じた。冗談でしょう。こればかりは黙りかねてぐったり返せば、「いやあこれが結構マジでね」とまるで笑えない返答が返ってきた。

風邪っぴきの状態で事故死の危険とかどんな不幸のミルフィーユだ。やっぱり岩泉に送ってもらえばよかったか。いや駄目だ、同じ受験生を相手に貴重な時間を削る上に風邪菌をまき散らすなど言語道断。しかもこの眠気、道中で座り込んで行き倒れる可能性すら無きにしも。ということはやはり大人の力を借りるほかない。

猛烈な倦怠感のおかげでやや痛覚が鈍ってきた頭を揺らさないよう注意しつつ、黙ってシートベルトを締める。

「…先生」
「はい?」
「来週模試でまだ死ねないんで、お手柔らかに頼みます」
「…。うーん、そこまで言われるととても複雑…」

何とも言えずしょぼくれた声が聞こえたが返事するだけの気力が無かった。というかしょぼくれるならそんな不穏な発言しないで欲しかった。
何にせよぞくぞくする寒気がさっきから止まらない。こうなると家がどうだのは最早どうでもよくて、早く布団にくるまって泥のように眠りたかった。




『送ってく。家どこだ』

見計らったように言葉少なな申し出が飛んできたのは、手の中のペットボトルが随分温くなった頃だった。借りたタオルは重く湿って、同じだけ頭も重い。何より出しちまえと言われた通り泣き明かしたせいか酷い眠気に襲われていた。

それでも何もかも世話になるほど重篤でもないし、図々しい性分でもない。自力で帰れる。そう告げるも言った傍から立ち上がるなり頭痛でベンチに逆戻りすれば、「その状態でか」と呆れた視線とため息混じりの小言を貰った。

結局腕を掴まれ教室に戻り、「荷物を取ってくっからお前は靴履き替えてろ」と指令を下される。だがいつもなら姿を見せることのない曜日と時間帯、きっと自習かテスト勉強に来たはずの岩泉の時間をこれ以上削るわけにはいかない。どうにか彼を説得せねばと鈍い頭で必死に考えていれば、救いの手は意外なところからやってきた。
講師スペースから出てきた英語講師が、玄関に突っ立つ私に気付き声をかけたのだ。

『岩泉くんがですか?』

事情を聞いて瞬いた先生に頷けば、一瞬黙した彼女は考える素振りを見せた。そこへ私の荷物を担いだ岩泉が現れると、先生は何かを決めた様子で頷く。スラックスのポケットから抜き出した飴色のキーケースを手に、彼女は芝居がかった調子で言った。「これが大人の特権を使い時というヤツでしょう」。

『でも先生、これから授業なんじゃ』

意味を察したのは岩泉の方が早かった。怪訝そうにした彼にしかし、先生はまだ一時間ほどあるのだと首を振った。それでも幾分納得できない様子の岩泉に、「申し出はとてもありがたいんですが」と先生は困ったように言い宥めた。

『お家の方向がね、多分全然違うんですよ』

迷うといけませんから、私にお任せください。
付け加えられた言葉は実に何気なかったが、何とない不思議さでよく耳に残った。私の家は確かに住宅地の奥まったところにあるが、そんなにわかりにくい立地だろうか。



ともあれ結果から言って、先生は危険運転者とは程遠い模範的なドライバーだった。運転上手いじゃないですか。アパート前で荷物を受け取り、礼より先にこぼして言えば、「よく溝に落ちるんですよ」とニコニコ言われた。詐欺かと。もうこの人の言う事は真に受けまいと心に決めた。

全快までは二日かかった。三者面談からはまだそう時間が経っていない、正直母さんの世話になるのは気まずさからも抵抗があったが、この期に及んでそんな下らない意地を張って風邪を長引かせるわけにはいかない。
寝て食べてまた寝るに徹する。単語帳に伸びそうになる手を我慢しつつ過ごして三日目、平熱まで下がった体温計を確認し、マスクをつけて登校した。

休んでいる間のノートは、休む前に心配の言葉をかけてくれたクラスメートの女子に借りた。数学や英語は毎日授業があるから借りて帰るわけにはいかない。休み時間を返上して書き写し、世界史や生物は一日で返すと約束して持ち帰ることにする。けれど問題はやはり数学だった。欠席した授業で進んだのは微分積分。教科書と板書の数式だけではどうにも理解できない。

親しい友人がいないわけではないが、どの子をとっても皆自分のことで忙しい時期だ。岩泉にそうしたように時間を削らせるのは気が引ける。そこでふと思い当たったのは、恐らくもう既に受験戦線を離脱したと思しき天才肌の友人だった。



「というわけで微分積分教えてほしい」
「無理メンドイ」
「そこを何とかどうにか頼む」
「普通科のモブが天下の進学科に何を教えろっての」
「エッ誰が普通科の鬼だって…?」
「喧嘩売ってんのか」

頼むよ、今度購買でなんか奢るから。茶化しを仕舞って真面目に言えばぎゅっと深くなる眉間の皺、この友人がそういう類の貸し借りの形を好まないことを私はよく知っている。案の定「余計なことすんじゃないよ」という遠慮と呼ぶには当たりの強すぎる返答が返ってきた。

それでも切りそろえられた爪をした指はノートをめくり、傷んだ茶髪の下の気怠い眼差しは写しただけの数式をなぞり始めるのだから有難い。ブレないツンとデレである。

「クラスに聞ける奴はいないわけ」
「いるにはいるけど…公募前なんだ」
「あーね。つまりあたしは暇人ってか」
「えっ公募受けんの?」
「いやもう決まった」
「やっぱそうじゃんけど聞いてない!」
「今言った」

しれっと返す様子にブレはない。自慢げでなければ遠慮がちでもない。いっそ無関心かと思うほど通常運転そのものの友人に問いを重ねる。

「前言ってた推薦で?」
「まあ」
「場所は?」
「東北」
「……とうほく」

一瞬思考が停止した。せめて都道府県で言えないのかこいつは。実にざっくりした所在地申告に呆れもろとも細々聞く気も引っ込んだ。代わりに口から零れたのは「そっかあ…」という気の抜けた一言だけ。

「うん、おめ…」
「ドーモ」
「…そっかあ…」
「何」
「いや、なんか…なんか、良かったなって」
「…、……」

自分でも不思議なほど彼女の進路が決まったことにほっとしていた。それは自分のことに対するような深い安堵とは少し違う、もう少し軽くて、でもずっと手触りのいい感情だった。
友人は何とも言えない表情で私を見ていたものの、結局黙ったまま視線を切った。そうして素っ気ない声が言う。

「名字もさっさと決めてきな」
「……そうできればいいんだけどね」

返した声は自分でもはっとするほど覇気がなかった。一瞬の沈黙、けれど誤魔化す言葉を思いつく前に、友人のシャーペンがノートの上を走り出す。前置き無しの解説を慌てて覗き込めば、伸びてきた手のひらに払うように額を叩かれた。それが叱咤か励ましか判断に迷う何かであったことに気付いたのは、ノートの半分を数式が埋めた頃だった。


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