後ろ向きエンヴィ


「―――さん、…名字さん?」
「、え」
「聞いてましたか?」
「…あ…すいません」
「集中して下さいよ、問い3です」

視線が刺さる。ぴりついた空気が肌を逆なでする。黒板の前に進み出る足が重い。握ったチョークを持ち上げて、数式を見上げた頭がぐらりと揺らいだ。ちくしょう血が足りてない。ヘモグロビンをよこせ。悪態をつく余裕はあっても数字の羅列は上手く捉えられず、解法はちっとも思い浮かばない。こじ開けた唇からは自分で思う以上に不機嫌な声が出た。

「…すみません、わかりません」
「…、そうですか」

では次の人。

言い訳をさせてくれるなら昨日の起床時から喉が痛くて、ああこれは風邪を引くなと予測した通り今日は朝から身体が重かった。毎年秋口はいつもこうだ。気温の急激な変化に体がついてこず、服選びをミスって数時間ほど肌寒い思いをすれば一日寝込む熱を出す。去年や一昨年ならいい。でも今年ばかりは。なんだってこんな時に。学校を休んで授業を抜かす余裕なんてどこにもないのに。

焦る気持ちと家に居たくない思いだけで引き摺ってきた体は昼前には熱っぽくなり、鈍く疼き始めた頭は今や金づちで殴られているように痛む。板書が進まず授業が耳に入らない。書き零しばかりのノートを見下ろし、どうしようもなく惨めになる。

何が悪かったんだろう。ベストは尽くしてるつもりなのに。いいや止めろ考えたって仕方ないんだ。呑み込んでしまえ、そうして消化すればいい。お腹に収めた食べ物がいつか空っぽになるのと同じじゃないか。

チャイムが鳴る。全く追いつかなかった板書のノートを閉じ、帰り支度を始めるクラスメートに先んじて鞄を抱えて戸口へ向かう。

「名字さん、大丈夫?顔色良くないけど…」

戸の傍に座っていた女子の一人から呼び止められた。ささくれた心でも笑みを向けることができたのはきっと、その顔が本当に心配してくれているものだったからだ。

「大丈夫、ごめんね」

感染すといけない。確か彼女はあと一か月もすれば公募推薦を受けるはずなのだ。
唇を噛み締める。私にその予定はない。


無理に学校に来たところで授業に集中できるわけでも、まして回復するわけでもない。初めから休むべきだったし、今は帰って寝るのが一番だ。
わかっているのに、結局足が向かったのは自宅ではなく塾だった。

顔を合わせれば走る緊迫にも重苦しい沈黙にも棘を隠した視線にも、今や苛立つ気力もなくただ疲弊する。握ったドアノブの先の気配を探り、息をひそめて自室へ上がり、誰もいないことを確認してからリビングに降りて食事を済ませる生活は、誰にも顔を合わせないぶんずっと楽な筈なのに、心は安らぐどころかささくれ立つ一方だ。

感情の処理が追いつかない。治りきる前に瘡蓋を剥がされる擦り傷のように、消化出来ずにもたれる胃のように。


普段は家事をしに一時帰宅する分、学校から直接塾に来たのはいつぶりだろう。制服のまま、学校用の重たい鞄を引きずって、辿り着いた古びたビルの階段を這うように登る。たどり着いた廊下の先には、いつもと何ら変わりないガラス戸が蛍光灯の白い光を帯びて佇んでいる。

もたれかかった体重で押し開けるようにして踏み込めば、視界を刺すほどの眩しい白に包まれる。それが蛍光灯の白だけでなく、それを反射するブレザーの色であることに気付くのには二秒ほどの時間が必要だった。

「!よう、名字―――…」

降ってきた言葉が止まる。酷い顔をしている自覚はあった。体調的にもメンタル的にも、世間話どころか作り笑いさえ満足に出来そうにない。それが彼の眼にどう映ったのかはわからない。ただ多分、思う以上に酷い顔をしていたんだと思う。

「…何があった」

耳朶を打つ声で視界が霞む。突然込み上げてきた熱が眼球を容赦なく押し上げた。

何「か」ではなく、何「が」と聞くのか。恐ろしいことだ。なるほどこれがヒーローか。思って内心じゃ茶化せるのに、塗り固めた無表情はあえなく崩壊する。

持ちこたえていた水滴が散る。息を呑む音に滲む動揺、だが次の瞬間には大きな手に腕を掴まれ、踏み込んできた岩泉とすれ違いざまに視界が反転した。ガラス戸が開き、彼の背中を追いかけて跨いだばかりの敷居を超える。しんと身を包む外気は、熱で体温が上がっているんだろうか、さっきよりずっと冷たく肌を刺した。

ドアが閉まる寸前背中で聞いたのは恐らく別の塾生の声。泣き顔を見られる前に連れ出してくれたのだと気付いたのはペンキの禿げたベンチに座らされてからだ。
小銭がぶつかる音、自販機が立てる電子音。がこん。僅かな間を置いて響いたそこにぞんざいに突っ込まれた手は、小さいペットボトルを鷲掴みにして引き抜かれた。ホットレモンが投げ寄越され、徒労感に力なく沈む私の膝に着地する。そうして再び、ピ、がこん。

「こっちのがいいか」

手に取ったばかりのホットレモンは僅か五秒で回収された。代わりに両手へ押し込まれたのは同じサイズのミルクティー。やはりホット、指先に滲む人工的な温もりと、どかりと腰掛けられた反対側、体格の良い男子高生の体重で再び悲鳴を上げるベンチ。

「…、……」

ぱかり、口を開いて、けれど待ち構えたように出てきたのは情けない呼吸と、殺し損ねた嗚咽だけ。
これじゃ飲めない。そんなどうでもいいことさえ馬鹿になった涙腺には大打撃で、ぼろり、最早何を理由に出てくるのかもはっきりしない涙が溢れた。ああダメだ、いいとこなしだ。

「…出しちまえ。その方が後が楽だ」

思いの外凪いだ声が言う。淡々と素っ気なく、けれど冷たいわけじゃない。寄り添うだけの剥き身の平熱が、荒んだ心に沁みて痛い。

消化できずに焦げ付いた感情で爛れた心臓は穴だらけだ。もう嫌だ、全部が嫌だ、そうやって全部人の所為にして、世界中の不幸を背負ったような顔をしたがる幼稚なヒロイズムを、それでもまとめて受け止めてもらえた気がした。多分それが欲しかった。擁護でも同情でもない、そんな時もある、ただそう肯定してほしかった。

そうだ、まるっと吐き出した方が楽かもしれない。こんなもの抱えていたところでどうなると思ってたんだ。PHで言えば塩酸ばりの強酸性だ。だからこんなにも胃の腑が穴だらけにされるんだ。

ペットボトルを握りしめる手が濡れる。指先を温める温度を追って、垂らした頭に大きな手が降ってくる。意外なほど落ち着いた声のわりに、着地する指は随分おっかなびっくりで、力加減に迷う手のひらがようやく私の知る岩泉の色と一致した。
だってそうだろう、よく言えば実直で硬派、悪く言えば少年のままデリカシーの無いこの男の子が、失礼を承知で言うけれど、泣いてる女子を慰め慣れてるなんて似合わない。

膝元にタオルが飛んでくる。思った尻から寄越し方の雑さが男子だ。いや、思えばペットボトルが膝にダイブしてきた時点で扱いが男子だった。でもそれは小手先のテクニックや経験値を元にした慰めじゃない、剥き出しのまま差し出された優しさであることの証明だ。

投げ寄越されたに近いそれを手に取り、ちょっと考え、涙でぐしゃぐしゃの声で言う。

「…はなみずつくかも」
「あー…洗濯頼むわ」

家で一番良い柔軟剤を使おう。
心に決めて顔に押し当てる。嗚咽に自然と笑い声が混じった。大丈夫、多分もう少しすれば、いつもの大丈夫な自分に戻れる。ようやくつかんだその見込みに心の底からほっとした。


171221
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -