いわぬがはな



日曜はいつも行き場に困る。

とは言えそれは今日じゃなく明日の話だ。夏休みも半ば、学校の夏期講習は前半を終えて昨日から盆休みに入った。束の間の夏休み、と言えば聞こえは良いが、私にとっては受験に使わない日本史Tの期末考査にも並ぶ死活問題だ。

なんせこの時期と来たら図書館はすでに、塾も間もなく盆休み、ファミレスや喫茶店も夏季休暇にて大混雑する。つまるところ自習スペースが消失するのだ。
かといって家に籠もるのだけはどうしても避けたい。ので、どうするか。答えは一つ、バイトを入れる。

ともあれ今日はまだ土曜、盆休み前最後の開放日として塾の自習室は開いている。明日は朝からバイトを入れて、帰りはどこか喫茶店に寄って勉強出来るよう、ワーク類を厳選して持って行こう。明後日からはバイト先の食堂も盆休みに入るから、…どうしたものだろうか。

カレンダーを前にため息を一つ。早いとこ英単語かなんかで思考容量を埋めてしまいたい。身支度を済ませ、荷物を背負って部屋を出る。タイミングは悪かった。階段を下りたところで、まだ寝間着姿の母さんと出くわした。

「…バイト?」
「うん」

一瞬固まる空気を押し開けるように歩を進める。呼び止められる前に。思ってドアノブを握るより、しかし母の声の方が早かった。

「盆はどうするの」
「バイトする」
「三日ほどは休みじゃないの」
「課題あるから家にいるよ」
「……一人で残るつもり?」
「うん」

もう靴は履けている。あとはドアを開けて出てゆくだけだ。それを許してくれない沈黙が、会話の断絶を拒否している。

「名前、」
「行ってきます」

腫れ物に触るような声だった。そのくせ仕込まれた忌々しさの刃が透けて見える、苛立ちを秘めた呼び声だった。
張り付いた靴底を玄関から引き剥がすようにしてドアノブを握る。首を絞める沈黙、扉の閉まる音では掻き消せない棘のある声が追い縋ってきた。

「またそうやって、いつも逃げる」

閉めた戸の前で足が止まった。今すぐ振り向いてドアをこじ開け、思い切り怒鳴り声を投げ込んでやりたかった。身体を突き動かそうとする凶暴な衝動を、力いっぱい噛み締めた奥歯と瞑った眼で飲み下す。

そうだ、黙ってろ、わかってる筈だ。相手を切り裂く言葉は、同じだけ自分を貶めるのだ。







「どうかしたのか、名字」

人ひとり刺してきたみたいなカオしてんぞ。

「…、」

足を踏み入れて開口一番、何気ない真顔と共に指摘されたその言い草に咄嗟にぽかんと口が開いた。
呆気ない口調にそぐわぬ過激な比喩が頭に染みて、言い得て妙だと唇がゆがむ。我が家の天井には岩泉の片眼も先生の眼みたいに埋まっているんだろうか。

「…それは嫌だな。返り血でも見える?」
「返り血ってお前…いや、なんつうか。お前も刺されてきたって感じがする」

無理やり刻んだ笑みすら崩れた。歯に衣着せぬ指摘に強張る顔を隠せない。
そこはもう少し濁してくれたっていいんじゃないか。ふっかけたのは自分のクセして、理不尽にもそう思う。

今来たところなんだろう、彼は講師席のカウンター前に立っている。感情に対して素直なはずの岩泉の、何を考えているのかわからない視線から私を逃がしてくれたのは、カウンター席から突っ込まれるドン引きした声だった。

「…ねえ君たちソレどんな殺人談義?会って早々どんな殺伐?もうちょっと平和的に挨拶しません?」

グラスを二つ抱えた先生が引き攣った顔で私と彼を見る。黙って肩をすくめれば、先生は腕を伸ばして私の方へひとつ差し出してくれた。カラン、氷が涼やかに鳴る。

「さあ岩泉くん、先に席を取っておいで。名前ちゃんはこの前の添削返すからちょっとそこで待ってて下さいな」

言いながら講師スペースの奥へ向かう先生の瞳はきっと、調子を狂わせている私に気付いている。「奥でいいな?」と言い残して背を向けた岩泉に短く応じ、私は手の中で汗をかくグラスを見下ろした。
カフェオレだ。アイスでよかった。口をつけて喉に送る。これが胃に染みる温かさだったら、本当に無用なものが出てきてしまったに違いない。







随分と険しい顔だ。
前にも一度見たことがある。どこで降られたのか、ずぶ濡れの彼女に体操着を貸した時も、似たような顔をしていた。

そっと上目に盗み見た同い年の少女の視線は、握ったシャーペンの先に向けられていた。問題番号はことごとく赤マルが囲んでいる。調子は悪くないんだろう。だがルーズリーフに並んだ数式の、その筆跡はいつもより幾分荒れていた。


変な気を遣うなと言ってから、名字はあまり笑わなくなった。感情が出にくい、と言っていた通り、名字は基本的に小さく笑う。声を上げることは稀で、きっと俺がそれを気にしないと確信してから、口元と目だけで笑みを作ることも増えた。多分それが通常運転なんだろう。
性格が暗いわけではない。ノートのメッセージ然り、時折飛び出すウィットの利いた返し然り、打てば響くスムーズな会話はすんなり馴染んで心地いい。

ただ、本人に自覚があるかどうかは知らないが。不意に見せる感情を圧殺したような、冴え冴えと冷えた横顔は気にかかる。

ぱきん。
シャー芯の折れる音がする。はっと顔を上げた名字と目が合った。芯を折った、ただそれだけに対するにしては随分バツの悪そうな顔だ。きっとそれ以外を理由とする後味の悪さがあるんだろう。ペンを置いて身を起こす。

「休憩するか」
「…いいね」

険しいばかりだった顔に小さな笑みが戻る。俺が席を立とうとするのを制した名字は、先生からもらったグラスを手に講師スペースの方へ向かっていった。その数分後、トイレにでも行ったかと思った頃合いで、両手に白と水色の某乳酸菌飲料、500ミリボトルを握った名字が戻ってくる。

「乳酸菌大丈夫?」
「他に聞き方ねーのかよ」
「オリゴ糖好き?」
「大して変わってねーし」

にやっと笑って手渡される冷たいそれのキャップを捻る。早々に汗をかいたボトルでプリントが濡れないよう気を付けながら、俺はエナメルに手を突っ込んだ。それを見た名字が言う。

「あ、お金はいいよ、この前のお礼」
「いや、そっちじゃねえ」
「?」

引っ張り出した小袋のチョコに、名字は目を瞬かせた。「及川からこの前に礼にって」。言いながら封を切れば、しばし思案した名字は「ああ」と言う。

「英作の?いや、私の力量じゃ添削なんて呼べないのに」
「書いたそのままで提出した時より倍くらい評価上がったっつってたぞ」
「元の出来が良かったんだよ。大して直してなかったし」

わざわざありがとうって伝えておいて、と名字はチョコを摘まむ。岩泉は?と言われて一粒口に放り込んだ。好んで甘いものを食べる方じゃないがなかなか美味い。酷使した脳みそは多分、俺以上に糖分を求めているんだろう。

「…岩泉は、バレーで大学行くの?」
「あ?」

チョコを摘まむ名字を見た。もぐもぐしながらペットボトルの結露をタオルで拭く彼女と、目は合わなかった。
少し間を置き、腹に収めるだけだった現実を初めて言葉の形に切り抜く。

「…まあ、出来るならそうしてーけど。現実的には無理だろうな」

俺は推薦を貰えるような選手じゃない。心が呟いたそんな台詞は、さすがに舌には乗せなかった。でもそれが現実だ。自分の限界を悟ったような物言いはしたくないが、少なくとも現状での力量を水増しして評価するつもりはない。

名字は一瞬口を噤んだ。それは俺の返事に対する反応に困ったというより、自分の中のものを整理するために見えた。

「なら、一般入試で?」
「多分な」
「…私立?国公立?」
「一応私立」
「もう決まってるんだ」
「…決まってる、っつーか」
「?」

言葉が淀む。名字が怪訝そうに首を傾げた。だが急かすことなく俺を待つ様子に、どこから話したもんかと首裏をかく。

「及川…幼馴染。ガキんころから一緒にプレーしてるって話、書いてたろ」
「うん」
「ソイツが県内トップクラスのセッターで、すでに推薦の話がいくつか来てる」
「うん」
「…その一つがまあ、東京の私立で」


――――岩ちゃんがさ、もし希望の学部とか、条件に合うんならさ。

黄昏の中、叱られる前のガキみたいな顔をしたアイツの、整わずに言い淀んだ言葉を思い出す。
基本が事後報告、大抵のことは手前の中で勝手に自己完結させてくる及川には珍しく、ヤツ自身決めかねているまま話しているようだった。

『……いや、やっぱいい。何でもない!』

うんざりするほど顔を突き合わせてきた相棒だ。否、その幼馴染歴に頼るまでもない。
へらり、笑って仕舞われたものが何だったのか、大凡の察しはついている。


俺の隣にはいつも及川がいて、それが当たり前だった。俺にトスを上げるのが時に応じて誰に変わろうと、結局のところ俺だって、意識の根底で「俺の」セッターと認識しているのはアイツで、及川にとっての俺も多分似たようなもんだ。それがとにかく「当たり前」だったのだ。
だから、きっとアイツがそうであるように、俺もまた。

「及川のいないバレーってのが、なんつうか。…上手く想像できねぇ」

行間を省き過ぎた話が飛躍した自覚はあった。でもこぼれたその一言もまた、ここ最近心に燻らせていながら言葉にせずにいた本音だ。

「そっか」

言葉少なに頷いた名字は、それ以上を聞き出す気はないようだった。
名字は名字なりの受け取り方をしたのかもしれない。自分の思索に半身を浸したままに見えた彼女は、顔を上げて俺を見た。味のないガムを吐き出せないでいる、そんな表情から悟る。きっと名字も何かを持て余しているのだ。

「…上手く言えないんだけど」
「おう」
「ちょっと、楽になった。ありがとう」
「今の話にそんな要素あったか」
「うん」

特別なことを聞かせたわけでも、聞き役になってやったわけでもない。名字の目元に浮かんだ笑みはどこか力ないものではあったが、さっきみたいな険しい表情をしていなかった。それを確認して、俺は結露した水滴を滴らせた夏色のボトルのキャップをひねった。


180103
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -