夏色に夢を見る



がちゃり、ガラス戸が開く音を聞いて、世界史のプリントから顔を上げた。

次の講義の10分前。靴底の擦れる音、自習スペースから僅かに顔を出し、講師スペース前の廊下を覗き込む。タイムラグは数秒、現れた横顔が私を捉える。ぱちり、きつめの猫目が瞬きひとつ、ひらりと手を振ってみせれば、ついっと上がった口角が無言の返答を寄越してきた。

言葉は無い。自習室には他に人もいるし、何より始業まで時間がない。けれど講義が終われば、彼がこちらにやってくることは暗黙の了解のうちに知っている。

仕上げたノートを今一度覗いた。直接話すようになった今も途切れないメッセージの筆跡に、自然と緩む頬を今一度引き締める。

さあ世界史だ。手始めには三十年戦争、その顛末を頭に叩き込む。





「世界史なのか」
「!」

終業のチャイムが鳴ったことに気付いていなかった。ルーズリーフを黒く埋める年号と人物名から顔を上げれば、見慣れてきた鋭い瞳が私の手元を見下ろしていた。

「そういう岩泉は日本史?」
「おう」
「なんかそれっぽいね」
「『ぽい』とかあんのかよ」

岩泉はちょっと笑って言いながら斜め向かいの席に腰を下ろす。自習室のブースの仕切りが一部除かれ、大きめのテーブルが置かれたのはごく最近のことだ。

スペースを広く取りたい人や友達と自習したい人もいると思ってね。数学の男性講師は何でもないことのように語ったけれど、私はなんとなく、いつもの英語講師の彼女が一枚噛んでいるような気がしている。つつけば藪蛇というか愉快犯じみているというか、人畜無害に見せかけて食えない所がある人なのは最近分かってきたので、今のところ無用な深追いをするつもりはないが。

「同時代に別の国で何が起きてるとか、そういうのややこしくねぇか」
「年号憶えてれば何とでもなるよ。ゴロ合わせがないとキツイけど」
「そもそもカタカナが覚えられねぇ。何だよT世U世とか」
「日本史勢ってみんなそれ言うけど、世界史陣からすれば漢字覚えられる方がすごいよ」
「つっても模試とか全部選択ばっかだろ?」
「定期考査が死ぬじゃないか…!」
「必死かよ」

全力で力説したら噴き出された。笑い事じゃない、これは死活問題なんだ。特にうちは日本史がTとUに分かれていて、例え世界史を選択したとしても日本史Tは通常科目として受け続けないといけないカリキュラムになっている。受験で使わない世界史勢からすれば負担でしかない。

それを言えば彼は驚いたようで、「随分ムダの多い話だな」と言ってのけた。ぜひうちの教師陣に言ってもらいたい。真顔で言えばまた笑われた。くしゃり、目元の鋭さを握り潰し、一文字の唇から白い歯が覗く。

「…岩泉は、よく笑うね」
「あ?」

ぽろり、思わずこぼした言葉に、浮かんだ笑みはあっさり消える。妙なものを見る目で見られたが、間違ったことを言ったとは思わなかったので、さして気まずくはならない。
精悍な面立ちをした彼は一見近寄りがたく見えて、思いの外よく笑う。「思いの外」と感じるのは多分、彼の外見に対する勝手な先入観がまだ抜けきらないのと、愛想笑いが通常装備の女子コミュニティが私の基本フィールドだからだろう。

「…ンなこと滅多に言われねぇぞ、俺」
「や、なんていうか…笑いたい時に笑ってるのがわかるっていうか」

笑いたい時に笑い、そうでない時はそうしない。ノートに浮かんだ筆跡がそうであるように、岩泉は表情も言葉も、自分の感情に対して正直につくる。
彼にとっては当たり前のことなんだろうと思ったがしかし、岩泉は怪訝にするよりむしろ、何かを納得したようだった。

「名字はそういうの、そこそこ上手そうだもんな」
「『そういうの』?」
「なんつうの、愛想笑いみたいな」
「…そんなに本心で笑ってないように見える?」
「あ?いや、空気読んで、相手にちゃんと気ィ遣えるってことだよ」
「、」
「おいか…幼馴染な、ノートにも書いてたヤツ。ソイツがそういうの無駄に上手ぇから、見ててカブる」

俺はそういうガラじゃねえから、ニコニコしてねーと離れてくようなヤツは初めっから傍にいねえんだよ。

すうっと隙間風が吹いた気がした。皮肉でも嫌味でもない、それがわかるから余計に、ばっさり切られたように感じた。
浮かべていた笑みを落とす。表情筋はあっさり元の位置に下降した。形になり切らない反発が鎌首をもたげる。けれど不意に脳裏をよぎった傷んだ茶髪に、何かがすとんと腹に収まるのを感じた。

「…昔から、感情があんまり表情に直結しないタイプなんだ。でもそういうの、女子同士だといろいろ面倒でさ」
「おう」
「反応薄いとか、楽しくなさそうとか、そう見えても気にならないならやめるよ」
「俺はもともとそういうタイプだ。変な気ィ遣われる方がやりづれえ」

あっさり言われ、応じて頷く。もう斬り捨てられたとは感じなかった。そのまましばらくルーズリーフに向き合い、シャーペンの音だけで沈黙を埋める。

三十年戦争の顛末を一から書くのはこれでもう七回目だ。世界史の暗記はいつだって出来事を経過ごとに把握するため、起こった事を順に書き出してゆく。暗記のためだからチラ裏に殴り書きでも構わない。目的はその流れを頭に叩き込むことであって、ペンだ何だを使って綺麗にノートを作ることじゃない。

不意に椅子が鳴る音がして、岩泉が席を立つ。目を上げると、「便所」と一言降ってきて、律儀なのか雑なのかわからない断りに頷きで応じた。切れた集中と降ろした視線で彼のノートを眺める。化学か。テキストはウチで使っているのと比べて問題数は少ないようだが、解説は丁寧でわかりやすい。

そうしてぼんやり化合式を見詰めていれば、スリッパが地面を擦る音と共に岩泉が戻ってきた。骨ばった大きな手が机に伸びる。ごつり、置かれた缶ジュースに顔を上げた。

「名字、炭酸平気か?」
「、いいの?」

返事は顎を揺らすだけの肯定。財布を出そうか一瞬迷い、結局好意に甘えることにした。今度必ずお礼しようと決める。

「下まで買いに行ってたの?」
「下?廊下にあるだろ、自販機」
「…自販機?」
「廊下出て真っ直ぐ、階段のすぐ傍にあんじゃねぇか」

廊下の先、階段の傍。思い出してみるもピンと来ず、「それって何色?」と聞けば、最もメジャーな赤ラベルの炭酸飲料のそれだという。どうにも覚えがないと首を傾げれば、「どんだけ興味ないんだよ」と笑われた。
なんとも納得がいかないが、確証はないので何とも言えない。肩をすくめて口をつければ、弾ける炭酸とレモンライムの香りが口いっぱいに広がった。


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