蝉時雨の絶える頃
「岩泉、少しいいか」「?ッス」
「片付けが終わってからで構わない」
陽が落ちるのが早くなった。体育館のギャラリー上方、窓から差し込む斜陽は残暑の名残を留めている。だが宮城は東北、比較的足早にやってくる夏の終わりを感じさせる眩くも淡い黄金色は確かに秋を帯びていて、得も言われぬ焦燥と寂寞を誘う。
そんな斜陽を背にした入畑監督の短い言葉に、呼び止められた岩泉は怪訝そうにしつつ頷いた。抱えたネットを手早く所定の位置に収め、最後に残っていたポールの片づけが後輩たちによって行われるのを見届けると、軽い駆け足で監督の元へ向かった。
ベンチに腰掛けバインダーを見下ろしていた入畑の視線が、足元1メーター先に止まったスパイクの爪先を捉える。立っている時でも殆どの選手を見上げることになる入畑の瞳が、肩幅の足元で逞しい体躯を危なげなく支え、両手を背に監督の言葉を待つ副主将を静かに捉えた。
「終わりました」
「うむ」
短く応じて見上げる精悍な顔つきに緊張は無い。学年が上がるにつれて凛々しさを増していったエースの、その肩書きに相応しくコート外でも迷いのない立ち姿に、入畑はいささか眩しそうに目を細めた。それはこれから告げんとする内容が、この青年がいずれこの青城のコートを去り、高校生ですらなくなる日のことを、ことのほか現実に感じさせるものであるからだった。
「岩泉。君に、推薦の話が来ている」
「…は?」
ぱちくり。きりりとしたきつめの猫目が、虚を突かれたように丸くなる。精悍になったものだと感慨深く見上げた尻から舞い戻ってきた幼げな面持ちに、入畑は思わず吹き出しそうになった。
「…俺にッスか?」
降ってきた声は歓喜というより、ほとんど困惑に近い色をしていた。驚きの表情を戸惑いへ変えた岩泉に、しかし入畑はやはりそうなるかと気付かれぬよう目を細める。
そうして視界の端に収まる体育館入口に佇み、なんとない視線を向けながらもチームメイトに促されて更衣室へ引き上げていった目前の青年の相棒には気づかないフリをして、入畑はバインダーの下にあった資料を手渡した。
「都内の私大で、去年のインカレはベスト8。ここ4、5年で一気に頭角を現してきた。去年からウチの試合にも足を運んでもらってる」
「…そんな強豪が、なんでまた俺を?」
「それは私から説明しよう」
「!」
「大丈夫、時間は取らせません」
またも驚きで顔を染めた岩泉は、きっと今度こそ本当に不意打ちだったのだろう、肩越しに唐突に飛んできた覚えのない声に肩を揺らした。振り向けば、スーツ姿ほど固くはないが、私服と呼ぶほど軽くもない服装――岩泉はそれをどう呼べばよいか知らない――をした男が、瞳の深さを穏やかな笑みに湛えて立っていた。
****
ほとんど小学校の給食以来になる向かい合わせの机に腰掛けた足が冷えるのは、きっと効き過ぎた冷房の所為だけじゃなかった。
差し出されたカラープリントのB4用紙、その右上に記されたアルファベットの表記に息が止まる。心臓が音もなく崩壊してゆく錯覚と共に、足元から奈落へと吸い込まれてゆく浮遊感。
第一志望、D判定。夏前から、伸びていないどころか下がっている。
「前提としてお伝えしますが、他学部であればB判定にもなるスコアです。ただ、心理学部は大学を問わず人気です。国立となると特にですが、倍率も偏差値も他学部を上回ります」
今年は特に人気が集まっている。例年より全体のレベルが高くて。
幾分気遣わしげな担任の声が頭をすり抜けてゆく。隣に腰掛ける母親に対するフォローでもあるんだろう、その言葉が事実であろうと、現実は変わらない。
切り替えろ。言い聞かす。実力不足はわかっていたはずだ。でも、否。三年に上がってから判定が苦しくなっている自覚は。
けど―――けれど、出来ることはすべてやってきた、その自覚もある。
最善を尽くして、それでも届かない。その能力の天井を、限界と呼ぶことも知っている。
言葉は無い。模試結果を見詰めたままの私から、担任の意識が隣の母へ移るのを察する。視線を動かさない私に、当然その表情は見えない。ただ締め付けるような沈黙の重さは、隣り合った半身を確かにじくじくと責め立てていた。
「…第二志望の私立は、偏差値では当然国立より劣りますが、名前は十分通ります。学校としてはこちらを、」
「うちに」
飛び出すように言葉が出た。母親が何か言おうとしたその寸前、封じるように区切った言葉には不思議なくらい迷いがなかった。
「うちに、私立は無理です。そんな経済的余裕はありません」
淡々と吐いた無機質なそれが母を凍り付かせる。例え担任であろうと、他人の前で家の余裕の無さを暴露されるのは屈辱であるに違いない。それが実の娘による言葉なら尚更だ。
担任の顔を見た。その表情から、その視線の先にいる母がどんな顔をしているかはすぐにわかった。
酷い八つ当たりで、当てつけで、幼稚な仕返しであることには気づいていた。スコアが伸びないのも判定が上がらないのも自分の実力不足だ。家に余裕があろうとなかろうと、国立に行けるだけの学力があれば済む話なのだ。
内臓に刻むように言い聞かせた現実が、熱を持った脳味噌を急速に冷やしてゆく。そうだ、みっともない八つ当たりだ。結局は自分の責任じゃないか。
酷いことを言った。ようやくまともな機能を取り戻した良心に安堵する傍ら、責め立てる罪悪感と自己嫌悪が私を一層惨めにさせる。それでも間に合わせの冷静さじゃ手綱を引けない感情は、駄々を捏ねるように喉元を圧迫するのをやめない。
「…冬まで、頑張ります。あと半年、それで駄目なら」
言葉が続かなかった。砂を噛むようだ。地に足つかず、見込みも危うい希望的観測。
冬まで半年頑張って、それで駄目なら。
駄目だったら、その時私はどうするんだろう。
答えが出ない。先が、見えない。
****
「随分遅かったじゃん」
「、お前まだいたのか」
「ちょっと、それが幼馴染の帰りを健気に待ってた及川さんに言う台詞!?」
「一言たりと頼んでねぇ。ついでに健気って単語に謝れ」
「全てにおいて辛辣過ぎる!」
文句を垂れる及川の視線が俺が手ぶらであることを把握するのを察する。やっぱり寄り道して正解だった。受け取った書類はすでに手元にはない。職員室から経由してきた教室の引き出しの中だ。
及川が部室で待ち構えていることを予測し、なおかつ書類を持ち帰らない選択に出た時点で、自分はこの幼馴染に対し、降ってわいた推薦の話について「真っ直ぐゆかない」感情があるんだろう。自分の深層心理には思うところはあったが、今は及川に全部を報告する気にはならなかった。
「なんの話だったの?」
「大したことじゃねえよ」
「えっもしかして大学?推薦来たとか?」
…こういう時まで無駄に鋭いのはどうにかならないものか。渋面になるのを半分堪え損ねながら突っぱねる。
「飛躍しすぎだろ。大体俺程度の選手に、」
「ちょっと、それってチームへの侮辱だよ」
「は?」
「青城のエースはそう安くない。それを務める選手なんだ、推薦が来たって何もおかしくない」
「、…」
豪快に脱ぎ捨てたシャツを持つ手が止まる。ベンチに腰掛けた及川を見下ろせば、その眼差しに茶化した色は見当たらなかった。一瞬消えた眉間の皺が戻ってくる。蓋をしておこうと思っていたものが、唇の端からこぼれ出た。
「…お前から見て、何を根拠にそう思うんだよ」
瞬き二つ、及川の表情が一段静かな凪となる。静かに吸い込まれた息が言葉になるまで時間はかからなかった。
「身長は確かに恵まれてないけど、ネットを十分超えるバネとブロックを吹っ飛ばすパワーがある。二枚つかれても空中姿勢とトスさえ良ければ穴を見極める眼があるし、アウトに持ってくテクニックもある―――その程度なら誰でもできるなんて言わないでよ、岩ちゃんの強みはここからなんだから」
開いた口に入れていた言葉を言い当てられ、俺は今度こそ隠さず渋面をつくる。だが一先ずぱくんと口を閉じ、着替えの手を進めつつも静聴の構えを見せれば、及川は満足そうに頷き続けた。
「俺が思う岩ちゃんの一番の強みは安定感だよ。スタミナがあるから試合後半に差し掛かってもバテないし、高さも速さも落ちてこない。基礎練しっかり積んできた分プレーの精度が高いから、凡ミスも少ないよね。
で、その全部を試合開始から終了まで持続させているのが、メンタル」
岩ちゃんって俺と並ぶと特に脳筋に見え―――ちょっイダッ殴んないでよ!最後まで聞いて!…パッと見からして頭脳派じゃなさそうじゃん、実際考えるより先に体が動くタイプだしさ。俺に対しては特に短気だし、…煩いなあそういうとこだよ!
けど実際のとこ、岩ちゃんが試合中冷静さを失うことは滅多にない。ほぼ直感と経験値だけで動いてる時でもコートの動きはいつも見えてる。常に戦況を分析して判断して、その上で味方に指示を出すだけの余裕もある。圧倒的不利な状況で折れも腐りもしないし、アウェーでも雰囲気に圧されない。
「それと岩ちゃん、怪我しないよね?」
「怪我?…まあ、でけぇのはしたことねえな」
「それ何でかわかる?」
「…。お前と違ってオーバーワークはしねえ」
「うっ…俺のことはよくてさあ!岩ちゃん体柔らかいでしょ、多分部内でもトップクラスに」
その身長で体重はそこそこあって、それで330近く跳んでる時点でもうどんなバネだよって話なんだけど―――え?あーまあ烏野のチビちゃんほどじゃないけどさ、でもチビちゃんよりタッパも重さもあって、足首も膝も痛めたことないよね。多分関節と筋肉の柔らかさかな。多少体勢崩しても上手く着地するし、かなり低くレシーブしても戻りが早い。空中姿勢の良さもそう。
「怪我しない選手ってのはそれだけで重宝されるよ。どんな主砲級でも爆弾抱えてたり、調子にムラがあると使いづらい。そこんとこ岩ちゃんはどの試合でも『普段通りかそれ以上』を保ってくる。支障が出るほど調子の悪い日がないんだ。
どの試合のどのシーンを切り取っても一定以上のパフォーマンスを維持できる選手って、実はそう多くない」
滔々とした語りが途絶える。着替えはすでに終わっている。不意にしんと戻ってきた静寂の中、俺は黙って舌を巻いた。
ガキの頃からの付き合いだ、知ってはいることだが―――相変わらず気持ち悪いほど人を見ている。だが選手としての俺がどう映っているか、それを聞いたのは初めてだ。
そして舌を巻き、返す言葉に事欠いたのは、その分析がついさっき職員室で説明された俺への推薦理由からそう遠くない内容であったからだ。
「…ま、そういうわけだからさ、俺は岩ちゃんにも十分推薦の可能性があるって言いたいわけ!なんたって俺の岩ちゃんなんだから、」
「それが、お前と別の大学でもか」
茶化しにかかった声を割ったのはほとんど衝動に近かった。作った笑みのまま一瞬硬直したヘーゼルの瞳が、さざ波立って揺れるのを見た。
水を打ったような沈黙が張り詰める。心音一つ、呼吸一つでざらつく静けさに耳鳴りがしそうだった。
あの黄昏の帰り道、推薦の話が入ったのだと、俺に語った及川の顔を思い出す。
俺に付いてきて欲しいとか、そんな甘ったれたことを言うつもりは多分及川にもない。逆もまた然りだ。俺も及川に付いてきて欲しいとも、付いて行きたいとも思わない。
でもそれが、別々の道を選び「たい」ことを意味するかと言えば、そういうわけでも、多分ない。
スタート地点から同じだった俺たちは―――俺は及川のいないバレーを、及川は俺のいないバレーを経験したことがない。
名前にこぼした一言の通りだ。俺たちは多分、互いが存在しないコートでのバレーを、まだ上手く想像できない。この先想像できるようになるかもわからない。
それでも及川の瞳は一足先に揺れを止めた。俺を真っ直ぐ見て、及川は確かに頷いた。
「うん」
それが岩ちゃんにとって最善なら、俺はそうして欲しい。
「……そうかよ」
目を細める。唇がひん曲がるのを隠せそうにない。
ただ一つ言えるとすれば、俺はこいつが我儘でウザくてチャラくて面倒で、自分を偽るのが無駄に上手いのを知っているということだ。
****
一礼と共に教室を出た。
窓の向こうの残暑を中途半端に吸い込んだ熱気が、酷く冷えた身体を包んだ。母のスリッパの足音を背に、まだ蝉の鳴きやまない九月の校舎を抜ける。下駄箱から取り出したローファーを地面に置いた、あと数歩で学校を出るというところだった。
「駄目だったらどうするの」
口火を切った固い声に、反射で開きそうになった唇を引き結んだ。照りつける太陽が思考を溶かしにかかる。普段はもの言いたげな癖して何も言わないのに、こういう時には踏み込んでくるから嫌になる。今話せば絶対喧嘩になるに決まってるのに、どうして放っておいてくれないんだろう。
「…どうにもならないんじゃない」
「そんな他人事みたいな、」
「うん、けど、母さんには『他人事』でしょ」
溢れ出した苛立ちは言葉を尖らせ、吐き出す声をはっきり染めた。張り詰めた会話の糸が、繕う余地なくほつれて軋む。
「…どういう意味、それ」
「行かない方がいいんでしょ、大学」
沈黙がひび割れる。辛うじて繋ぎ止めた形だけの温和さが、ぎりぎりのところで会話を繋いでいる。
鳴き喚く蝉の声が脳みそを一杯に満たしてゆく。侵食する熱に抗う理性が遠い。
「…そんなこと言ってないじゃない」
「でも行けばいいとも言ってないよね」
「、」
「シュンのサッカーと違って、応援も歓迎もされてないよね」
転がり出した言葉が止まらない。それがどれほど鋭利か知っていて、故にこそ沈めてきたはずの本音が手の中で鋭利な凶器に変わる。
やめておけ、何してる。こんなこと言ったところでどうにも。
わかっていながら歯止めの利かない残忍さが、取り繕う朗らかさを嘲りへと染め上げる。
「心配しないで、全部自分でするからさ」
「…名前」
「安心して放っといてよ」
踏み出したローファーで返答を断ち切った。言ってしまった。追いつかれないよう大股で自転車置き場へ向かい、カゴに鞄を投げ込んだ。
視界が滲む。堪え切ったのは意地だった。そうだ、泣くくらいならどうして言った。叩き壊したのは自分のくせに。
力任せにペダルを踏む。照り付ける陽が眩しい。肌を焼く熱に唇を噛み、霞む視界を風に晒した。差し掛かる夕刻、すでに傾いているにも拘わらず衰えを知らない暑さで途端に汗が滲むのに、手も足も酷く震えていた。
171208