Solitudes. | ナノ


▼ 春と病-前編

今までは動物たちしかいなかったこの世界に、初めて人間が現れた時から、春はずっと人間を見つめていた。春の咲かせた花々を、目を輝かせて見つめる人間たちの笑顔が好きだったから。人間たちは、花を摘んでは器用に編み込み、髪飾りにして他の人間の頭に乗せる遊びを知っていた。他にも、どくだみやヨモギをすりつぶして膏薬を作ったり、オシロイバナの種を器用に割って、真白い粉を集めて絵を描いたりと、今まで春が見たこともなかったような方法で、日が暮れるまで遊び続けていた。

不思議だったのは、ひとつ前の年まで花畑ではしゃいでいた人間が、年を経るにつれて、花には見向きもしなくなっていったこと。動物たちは生まれてから還るまでずっと、花畑で過ごしているのに、人間たちはそうしない。あんなに楽しそうに声をあげていた人間たちの笑顔が、年を経るごとに消えていく。

「…ツバメさん、海の王に届けて。リスの子、これは鹿のお姫様に。そして森の王、大樹。あなたはあおいちゃんに、伝えて。春を越えて、ひとめぐり。…その間に、一体何があるの?」

ふわあ、とあくびをした春は、夏の足音を感じながら、目を閉じる。彼らが春の手紙を届けてくれるのなら、きっと、春がもう一度目覚めた時には、答えが帰ってきているはずだ。

***

「拝啓、春のこうさぎへ」

起きたばかりの春の枕元に置かれた3通の手紙は、四季の仲間からのものだった。最初に開けた手紙の冒頭を見て、春の頭には人魚の尾をした華麗な王の姿が浮かぶ。

「春をどのように過ごしているのか、俺は知らない。しかし、海に来ることのなくなった人間は、今までに数えることもかなわないほどよく見ていた。海で恐ろしい思いをしたのか、とも思ったが、目を凝らしても、見えるのは笑顔ばかり。君に返すことのできる答えはなさそうだ。…ああ、だが。海に夕日が昇り、橙の光に照らされながらこちらを振り向く人間たちは、随分と寂しそうな色をしていたよ。また来ればいいのに、と思ったものの、以降彼らを見てはいない」

海から届いた手紙を読みながら、春も夏と同じことを思う。またきたらいいのに、春も夏も簡単にその場を離れることなどないのに。手紙の中から転がり落ちた小さな貝殻は、海から華への贈りものだろうか。耳元に貝殻をあてると、遠くから波の音が聞こえた気がした。聞いたこともない音なのに、懐かしい。次に開いた手紙には、小さな赤い実が入っていた。くん、と匂いを嗅いでもなんの匂いもしないのに、口に含むと甘かった。

「拝啓、春のお姫様!」

間違いなく、姫に届いたようだった。秋が帝王の姿をとるのは、相応の事態が起こった時に限られる。秋の弱さを守るための角は、いつもは隠されどこにも見えない、

「私の季節は、いつも紅葉を見に遊びに来てくれる人間たちでいっぱいです。腕に抱かれていた小さい人間が、やがて小さな人間を抱いてもう一度来てくれることも多いです。動物たちも、楽しそう。だけど、風に乗って街へと流れていったもみじが、踏み散らされて、泥と一緒に川へと帰ってくることが最近増えました。街の並木も、枝からこぼれ落ちた銀杏が、食べられることなく捨てられたり、踏み潰されたりすることが多くなったと言っています。私たちがいつも過ごしている場所と、人間たちの過ごしている場所は、どんどん隔絶されているように思う。…もしかしたら、人間たちの街に行ってみたら何かがわかるのかもしれない」

人間の街、には背の高い建物があって、夜になっても空より低い場所で星が瞬き地面を眩しく照らすことを春は知っている。アスファルト、とよばれる石で固められた地面を無理やり割って咲いた蒲公英が、教えてくれた。蒲公英の子どもたちが白く頭をおおうと、春の知る花畑では子どもたちがこぞってその花を摘み、我先にと白い綿毛を吹いて飛ばしたものだけれど、都会ではそうではないらしい。建物の間を縫って吹きすさぶ強い風が、綿毛を思いっきり空に飛ばしてゆくのだと。でも、綿毛が根を下ろせるような柔らかい地面などないから、人間の街にはなかなか花が咲かないのだと。
もしかすれば、春は人間の街にもありったけの花を贈ることができるのかもしれなかった。
でも、人間たちは今まで春がみてきたどのような動物たちとも違う。進化のスピードは速いし、その進化の仕方も人間という種族一つに適合したあり方で、今まで春がともに生きてきた世界との断絶を望んでいるかのようだ。
それに、人間には春が見えない。見えないものを嫌う人間たちの中に、もし一人でも春が見える人間がいたなら、人間たちはその社会的な生物という側面を活かして、春を拒絶するだろう。
拒絶は、怖い。
春はただの四季のひとつ、時季のひとつに過ぎないけれど、恐怖を知らないいきものではない。しかし、探究心と天秤にかけてしまえば迷わず街に偵察を、と、つい疼いてしまうのも、また春の性だった。
秋が春に齎した重要なキーワードを胸に、いよいよ最後の手紙を広げた。冷たくて、心地の良い温度だった。追先ほどまで彼女はここにいたはずだ。

「拝啓、春兎みぃ」

冬だけは、春を名前で喚ぶ。この名も冬が春に残したものだ。遠い昔に春が殺めた白い獣達のことを、永遠に忘れることのないように。

「さて、冬は眠りの季節。冬眠する動物たちも多く、僕も彼らとうたた寝をして過ごすことが多かった。…だが、今は忙しくて眠る暇もない。というのは、僕の愛しいこの季節が、人間にとって死の季節となっているようだからだ。吹雪の荒ぶ中、人間たちはなぜか僕の森に来る。凍えてしまうだろうに、と思うかい?…どうやらそれを望んでいるようだ。どれだけ寒くても、彼らは街を歩いているし、建物の明かりが消えることもない。歩いていて、雪にうもれた人間を見つけたことも、一度ではない。君には絶対に見せたくないような風景を見てしまうことも。…冷え切った海に、落ちてゆく命はまるで流れ星のように見える。…だが、介入もできない。彼らは僕を認識することができないのだから。みぃ、もしかすれば君は人間の街に出かけるのかもしれないね。だとすれば、できるだけ足元を見るんだよ。…そして少し早いが、君にこの世界を託そう。少しでも早く春が訪れることが、救いになりはしないだろうか」

春は息をつまらせた。冬が自分を死の季節、と例えることを好んでいないことを、春は十分に知っていた。冬でなければ生きていられない獣達をこよなく愛していたのがその証拠だった。それなのに、冬は自分をいま、死を司る季節として例えているようだ。
冬は、極寒の地で一体何を見、何を得た?
春には想像もつかないような、凄惨な光景を、冬はいつから独りで抱えて生きていた?
心に雪解け水を浴びせられたようで、背筋がぶるぶると震えだした。どうして、なぜ、一体何が起こっているんだろうか。
春が知りたかったのは、どうして人間たちが花畑をあとにしてゆくか、といったことだったけれど、冬の返した答えは、それよりもずっと、重いものだった。
どうして人間たちは、この世界をあとにしてゆくのか。どうにもならない事情があるのか、それとも、四季にとっての“Beast”のような存在が、人間たちの社会の中にも存在しているのか。

「ね、あおいちゃんの手紙をくれた森の王様。いったいあなたはなにをみたの」

木は答えない。森を見渡しても、どの樹木も答えようとはしなかった。まるで口止めをされているかのように、黙り込んでいた。

「…少しだけ、人間の街に行ってくる。何かあったら、すぐに私を呼んで。かけつけるから」

春の願いに、木々は枝を揺らして答えた。春の耳がぶわり、と広がり、大きな翼となった。
両方の翼を広げて、春は春めきたった空へと羽ばたいた。桜吹雪の尾を引いて、目指すはコンクリート・ジャングル。春の大好きな花畑も、泉も、どこにもないけれど。そこにはたくさんの、数え切れないくらいに沢山の命が集っている。命の色を見ながら、春は飛んでゆく。できるだけ、今までに見たことのないような色に答えが隠されているのではないか、と、考えていた。

アスファルトは、まだ濡れていた。そこかしこで、水たまりに虹が映っている。雪は綺麗に溶けてしまっているけれど、それを流す川がない。ぴちょん、ぴちょん、ざあ、とアスファルトの下で微かに水が流れる音がする。それが人間にとっての川、なのだとしたら、時間はかかってもいつか乾くはずだ。春にいろんなことを教えてくれた蒲公英の姿を探すけれど、既にこの世界からは去ってしまったあとのようで、どこからも声は聞こえない。道路の真ん中に立ってきょろきょろと辺りを見回す春は、傍から見れば完全な不審者に相違ない姿をしているものの、道をゆく誰もが振り向いたりしない。春などそこにいないかのように、すれ違い、歩き続けてゆく。それでいい。
そうでなければ、人間たちの社会は、成りたたない。春には読めない文字、春にはわからない規則。いろんな決まりが溢れた中、やっと、春の視界に特別な色が飛び込んだ。ほとんど濁りきった黒。
柔らかそうなワンピースを着て、背筋を伸ばして歩いていた。笑顔はひとつもなかったけれど、真顔は他の人間たちと何も変わらない。ただ、ひとつ変わっていることがあったとするなら、それは、彼女の後ろに、ずるずると引きずられている、血だらけの、傷だらけの、小さな人間がいることだった。異様な光景であるはずなのに、やはりせわしなく歩き続ける人たちは振り向かない。なぜ振り向かないのか、と考え、すぐに春は理解する。

この子、私にしか見えていないんだ。

ワンピースの女性に話しかけた人がいた。

「あら、お出かけ?病気はもういいの?」

曖昧に頷く笑顔は、春の好きなそれとは全然違う色。

「病気がいいなら早く来なさいね。あなたがいないと困ってしまうの」

女性の後ろを必死に張っていた子供が、声をあげて泣く。女性は笑っているのに、子どもは酷く泣き続ける。女性に向けられた言葉が、子どもの肌を裂いたのも、子どもの首に巻き付いた紐を思い切りひっぱっていたのも、誰も、気づかない。女性は歩き続ける。子供は折れそうな足を必死にひきずって、ついてゆく。

(ねえ、もう、私が抱っこするから、)

夢中で伸ばした手はすり抜けて、子供には届かない。春が一生懸命に心を込めても、どれほど助けたいと願っても、その手は絶望的なまでに無力だった。

「ねえ、お姉さんとまって、おねえさんの子、…ううん、おねえさんが、死んじゃうよ」

女性は何も言わずに、歩き続ける。歩いて、歩いて、街の外れまで来て、綺麗なバッグの中から取り出したのは、紐だった。大きな木の下に座り込んだ彼女の心は、タールのように濃い、黒。
濁っていたなら、漉しだして洗うこともできたかもしれないのに、もう、間に合わない。
疲れたね、頑張ったよ、と女性は呟いた。
傷だらけの子供は、ロープを大切そうに抱きしめて、にこにこと笑っていた。
ここまで頑張ったね、そろそろ還ろうか。

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