──咲乃の動きが、一瞬だけ止まった。いや、正確に言うなら、強張ったという表現が正しいだろう。

 緊迫した雰囲気が、ぴしっと硬直した彼女から伝わってくる。それは見なくとも分かったものの、何が原因でそうなったのかは分からない。とりあえず、固まってしまった咲乃がもう一度叫ぶような可能性は低くなった。

「おーい、咲乃?」

 隣りのクラスの生徒が咲乃を呼ぶ。何秒かして、本人ははっと我に返った。知り合いらしく、ぱっと手を挙げて応える。

「こっ、幸輔。どうしたのよ」

「いやいや。廊下で馬鹿でかい雄叫び上げてたの、お前じゃん」

「は……はあっ? そんな声、上げてないし。何言ってんの?」

 窓から顔を出していた幸輔とやらは、一度教室に頭を引っ込めると、きちんと扉から廊下へ出てきて咲乃の前に立った。身長はそう高くない、平均だろう。だが、長身の咲乃の前では、男子の身長としては少し低く見えてしまうのも仕方ない。

 7組の窓からも幾人かが顔を出し、教室からは小枝と沙夕里、そして沙夕里に抱き付いた彼女の彼氏さんがわたしを見ていた。周りも気にせず言い合いを始めた一組の男女のそばにいることが居た堪れなくなり、静かにそこから脱出する。

 そこで思い出した。
 彼は、武道場でへらへらしながら謝っていたイケメンくんだ。しかも、恐らくだが、今朝の咲乃と小枝の口論を止める際に前髪くんが名前だけ登場させた人物でもある。

「咲乃ちゃん、滅多にないチャンスなのに」

「短気だもん、仕方ないない」

「ないなない」

 沙夕里の言葉に、小枝と癖毛くんが呼応する。どうやら、わたしだけが乗り遅れているようだった。

「……チャンス?」

 クイズのヒントを求めるかのごとく三人を見るが、彼らは黙って咲乃を眺めているばかり。シンキングタイムに入ろうとしていたわたしは、誰かの声に引き上げられた。

「やっぱりっつーか何つーか……色恋には疎いほうなんだな、椎野さんは」

「ま、」

 前髪くん。否。

「渡辺、晴一」

 ぼんやり名前を浮かべると、彼はどこか困ったように笑った。

「はい、フルネームでどうも」

 しかし、まあ待て。
 わたしが色恋に疎いだとかそのあたりのことは置いておいて、咲乃とイケメンくんはそんな関係にあったのか。それは気付かなかった。

 彼らは今でも言い争いをしているし、咲乃は彼を見たときに固まっていたし、名前を出されただけで即座に怯んだ。これは苦手な人間に見せる行動ではなかったのか。
 前髪くんは今、彼らはむしろその反対の思いで接しているという。ややこしいというか面倒というか、二人とも屈折しているのではないか。

「これは積極的にいかなきゃ駄目だな……」

「だよね、咲乃はバシバシいかなきゃ。押せ押せ。当たって砕けろー」

 前髪くんのつぶやきに応えた小枝は、エアーボクシングの真似をして握った拳を交互に突き出す。沙夕里が呆れたように「砕けてもいいの?」と尋ねた。

「うん、砕けたら拾ってボンドでくっつけるよ」

 任せて、と、意気込んで笑顔を見せた。

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