翌朝レオナルドは携帯の着信音で目を覚ました。瞼が熱っぽくて、鏡を見ずとも腫れてひどい顔になっていることがわかる。
 ライブラからと思って鳴り響く着信画面をみると、知らない番号からだ。
「……ハロー?」
『やぁレオナルド君』
 聞き覚えのない男の声に親しげに呼ばれて、レオナルドは眉を寄せた。声自体は柔和な印象で不快感はなかったが、いかんせん寝不足に寝起きのダブルパンチで頭が働いていない。
「あの、どちらさまでしょう……?」
『ああ、ごめんごめん。僕です。人狼局の』
「局長!」
 名乗る前に人物が一致した。人狼局に男は二人しかいなかったし、その二人はタイプが違いすぎるから慣れない声でもどちらのものか判断することができた。
『忙しいところだったかな? すまないね朝早くに』
「い、いいえ、そんな。っていうか早くなんてないですよ!」
 着信直前に確認した時間はいつもの起床時間よりも二時間遅い。それでも眠りが足りてないのは夕べ寝付けなかったせいだ。
『君が希釈しかけたと聞いたので、ちょっと様子を窺おうかと思って。大丈夫ですか?』
「あつはい! 大丈夫です! ぴんぴんしてます!」
『そうですか。安心しました』
「なんていうか……すみません、不甲斐なくて。符牒も結局うまくいかなくて」
 ライブラの方でチェインの奪還は一時停止措置となっていることを、この優しそうな人は知っているんだろうか。
「どうして僕だけ覚えてるんでしょう。どうして僕なんですか」
 昨日の一件でくじけそうになって、重圧からスティーブンにしたのと同じ質問を局長にも投げかけた。なぜ自分だけ特別なのか。義眼をもっているからか。そそれとも、チェインを取り戻せという何者かの意思なのか。
『君は何も特別ではありませんよ』
 推測でしかないんですけど、と前置きをして局長はレオナルドの身に起こったことについて教えてくれた。たぶん、レオナルド自身も世界の書き換えには巻き込まれているのではないか、と。そう聞かれてレオナルドは一も二もなく頷いた。
『本当は君だってチェインを忘れてるんじゃないかな。神々の義眼が見て記録したものを、レオナルド君の頭が同期することで“覚えている”と錯覚したのだと僕は思っています。ええと、僕の言ってることわかりますか?』
「だ、だいたい」
『だからね、君がすることは一人で頑張ることじゃなくて、チェインのことを皆にお話しするだけでいいんです。これは本来ならチェインが一人で頑張らなければいけないことでした。君のおかげで皆で協力することができていますよ。そう気負わないでください』
 局長の言葉は穏やかで、レオナルドのささくれた内側を撫でていく。
「でもライブラはこれ以上関わらないつもりです」
 告げ口だったが言わずにはおれなかった。それでも局長は取り乱したりしない。
『それがいいでしょうね』
「そんな! だってこのままじゃまた皆忘れちゃうんです!」
『その通り、君はとても正しい。だからこそレオナルド君が必要なんです。君がいなくなっては、誰もチェインのことを思い出せなくなります。そうなると本当に助けられません。君は無理をせず書き換えに巻き込まれないことを一番に考えてください』
 指示としてはスティーブンと同じことをいっているのに、おどろくほど素直に心に入ってきた。昨晩から煮え立っていた憤りがしぼんでいく。そのかわり自分には何もできないもどかしさが浮き彫りになる。
『ところでレオナルド君、君家族は?』
「は? 一応、妹が一人……あの?」
『友達はどう? 最近会ってるかな?』
 唐突に面接みたいになった内容に首を傾げたが、話題をそらせてくれたのかもしれない。それにしてはちょっと下手だったけれど。クラウスも意識して会話を試みるとこういう面接調のものになるから、逆に親近感がわいて微笑ましい。
『恋もしてますか?』
「……はい、してます。僕、チェインさんと同じ人が好きなんです」
 だから彼女に早く戻ってきてほしい、というのは、一般的にみたら変なことだったけど、局長は鷹揚に頷いただけだった。
『今一番したいことは?』
「……その人と、仲直りがしたいです」
 チェインを諦めようとしたことは今でも認められない、レオナルドの恋を利用して操ろうとしたことも。彼はどうしようもなくクズで最低で馬鹿野郎だ。人を利用するのは常のことだし、自分を犠牲にすればいいと思っている節はあるし、冷徹に優先順位をつけてしまえるから、チェインが戻ってきた暁にはきっと昨日の決断が彼の良心を押しつぶそうとするだろう。
 そういうところを知っていて、自分もチェインもあの人を好きになった。
『趣味なんかはありますか?』
「ゲームっす。欲しい新作なかなか買えないんですけど……ありがとうございます、元気になってきました」
『いいえいいえ。今度一緒にゲームしましょう。僕得意なんですよ』
 クスっと笑いが漏れたところで、玄関の安い鉄一枚の扉がけたたましく殴られる。ドドドドン、ドドドドン、せっかちな殴り方はザップだ。放っておいたらすぐに血を応用したピッキングで入ってこようとする。
 何が困るって、ザップがピッキングする度に鍵穴が歪むらしく、正規の鍵で開けにくくなってくるところだ。
「はーい! ちょっとまってくださいよ!」
 二言三言局長に謝って通話を終わらせ、招かれざる客人を出迎えるために扉を開く。だいたい朝押しかけてくるときはレオナルドのスクーターを足にするためだったりするのだが、今日はツェッドと連れ立っていた。
「おぅ、すげー顔してんぞお前」
「うわっレオ君、大丈夫ですか」
 泣きはらした目を真っ先に心配されて、レオナルドは二人を中にいれると顔を洗いに行った。洗面台の鏡で見た自分の顔は、予想していたよりもひどい有様だ。
 目の充血はなんとかなるが、瞼の腫れはどうしようもない。じゃぶじゃぶと適当に顔を洗って戻ると、ザップは勝手知ったるレオナルドの家でベッドに座ってくつろいでいて、ツェッドは所在なさげに立っている。
「ツェッドさんもベッドでよければ座ってください」
 ワンルームしかないため二人の前でパジャマ代わりのTシャツを脱ぐことになったが、何度ピザの配達で部屋を訪れても全裸だったザップを前に遠慮もくそもない。ツェッドもあまり気にしないようだった。
「今日は二人ともどうしたんすか」
「どうしたもなのもねぇ、調査だ調査」
「調査って、なんの」
「はぁ? ばかかテメーは! チェインちゃんに決まってんだろーが!」
 チェインちゃん、という聞きなれない呼び名がすさまじい違和感を放っていたが、それ以上に調査という言葉がひっかかった。スティーブンからチェインに関しては一時停止措置を言い渡されている。
「要は気を付けりゃいいんだろ?」
「危険は理解しましたが、兄弟子一人を突っ走らせるよりはマシでしょう」
 僕らがいますよ、とツェッドまでザップの意見に肯定的な姿勢を見せている。なぜ、と眉をよせてしばらく、昨日ザップに泣き顔を見られたことを思い出した。
 それに、停止を言い渡されたときには、まだ何の行動もしていなかった二人だって、思うところがあるのかもしれない。
 しかしやる気を見せている二人に、レオナルドは言いよどむ。つい先ほど局長と無茶をしないと約束したばかりだ。
「すみません……僕ほんと役立たずで……」
「ちょ、おま、あーあーあー、だぁいじょーぶだって、関わりすぎなきゃ」
「なにかあれば事務所と人狼局の方に真っ先に連絡をいれましょう」
「俺人狼局のおねーちゃんに連絡するわ。お前事務所な。これで陰毛様が消えてもすぐ対処できるし、俺らが消えたときはレオが覚えてんだろ?」
 そういってそれぞれが携帯の短縮を設定してから、レオを連れ出すように三人で街に繰り出した。
「そもそも調査って、どうやって」
「どうもなにもねーよ」
 ザップの案は、チェインの好きな場所で好きなことを楽しくやってれば帰ってきたくなるんじゃないのか、というものだった。単純な発想だが、わかりやすい。
 それに対してツェッドの方はまた別の案だった。チェインがいたという事実をなるべくひろめ外堀を埋めていく、というものだ。“チェインが存在する”という上書きを街の人間の意識からやってみては、と思ったらしい。
「夢見がちな魚ちゃんだな。妄想が実現したらジャパンでアニメキャラがそこら中にあふれてるだろーが」
「うるさいですよ、あなたは結局自分が遊びたいだけなんじゃないですか?」
「なんだと!」
 すっかりいつも通りの雰囲気で、というよりも、二人がレオナルドを気遣ってつとめていつも通りにふるまおうとしてくれていた。ザップは常よりも突っかかってくるが、しつこさが消えていて、ツェッドの押収にも手加減がみえる。
 三人でランチでもめぐるように、チェインがよく使っていた店を練り歩いていく。一件目のバーで昼から酒を飲んでチェインの話をし、二件目の酒が豊富な食事処で昼食をとりながらチェインの噂をきいてまわり、三件目の居酒屋で酒をのみ、四件目の酒店でワインセラーを眺め。
 五件目のドーナツ屋でイートインスペースで休憩した。
 基本的にこの三人は酒に酔いやすいために、四件も回った後では全員がぐったりと机にうなだれていた。ザップは顔を真っ赤にあからめて、呻くようにして喋った。
「チェインちゃんよぉ、のんべぇじゃねーかよぉ」
 それも事実だが、この場合はレオナルドにも非があった。
「仕方ないでしょ。せいぜいが飲み会の会場紹介してもらうくらいで、チェインさんとプライベートでの付き合いなんて皆無ですよ」
「さびしいやつよの〜」
 Lサイズのバカでかいコークを飲みながらザップはレオナルドを小馬鹿にする。この後の予定も酒屋一辺倒だ。水分をとってアルコールを薄める作戦だった。
「……レオ君、チェインさんって、どんな、かんじの……うぷっ……人なんですか?」
「チェインさんはですね、ええと、アジア系でー、黒髪が肩上でー」
 言いつつ、レオナルドは紙ナプキンとアンケート用においてあるボールペンを手に取ってチェインの似顔絵を描いて見せる。
 よれた線で描かれた絵をみたザップとツェッドは、顔を見合わせて、しかめてみせた。
「へたすぎんだろ、お前それじゃわかんねーよ」
「レオ君……念写とかできないんですか……」
「そ、そこまでひどくないと思うんすけど」
 再度掲げてみせたナプキンを、ザップは握りつぶして店の端にあるゴミ箱にシュートしてしまう。
 いつも兄弟子の野蛮さをたしなめるツェッドは伏せて机にげっぷを吸い込ませるだけだ。顔色が青から緑になっている。言っては何だが、どぶ色をしている。
「顔色やべーっすよ、大丈夫っすか」
 話すのもつらいのか、返事はなく、視線だけがよこされた。今度から酒を飲ませるときには注意しなくては。
「なー胸は? 胸はどうだ、でかいか?」
「あんた頭の中そればっかかよ!」
 相変わらずのザップに、叫んだレオナルドの方が顔をしかめた。酔っぱらって大声を出すと、頭の中で響いてきつい。
 ザップは酔っ払いらしくへらへらと笑っているだけだ。
「で、どうなんだ」
「うぐっ。いっ、いいじゃないですか、そんなの」
「はは〜ん。その反応はけっこうでかいんだな」
 童貞のレオナルドに澄ました顔で知らないフリができるはずもなかった。気持ちを立て直すより早く、ザップの追撃がくる。
「腰が細くて尻がでかいのがいい女なんだけどよ」
「やーめーろー」
「じゃあ顔は美人か? かわいい系?」
 黙り込んだレオナルドに、ザップはそれでも食い下がる。3秒レオナルドの顔を見つめて、ぼそっと美人系かと断定した。見抜かれていて嫌だ。
 そして今まで以上に神妙な眼差しをした。
「最後の質問だ。チェインちゃんの唇はピンクだったか」
「はぁ?」
「いいから答えろ。昼飯の後とか、夕方なら口紅もとれてんだろ」
 糸の見えない質問に、眉を寄せながらレオナルドは口を開いた。これが最後なら、と思ったし、セクハラには思えなかった。ザップが女を選ぶ基準にも、案外かわいいところがあったんだな、くらいにしか。
「薄いピンクでしたけど」
 それがなんだ、と聞く前にザップがガッツポーズをした。過剰な反応にレオナルドもツェッドも胡乱な視線を向ける。
「いいか童貞ども、唇の色ってのはな、乳首と同じなんだよ」
「さいてーだ! この人さいってーだ! なんつーこと答えさせるんだよ!」
 頭痛すら吹き飛ばす勢いでぎゃんぎゃん吠えたレオナルドに、カウンターの方から「うるせぇ!」と注意が入る。HLの店主は迷惑な客に自分で(命の)始末をつけるタイプが多いから、慌てて口をつぐむ。
 しつこいザップに辟易しながらも、気が付けばすっかり気持ちが持ち直していていた。ただザップが「チェインちゃん、チェインちゃん」と呼ぶのはうんざりする。美人で巨乳な女の子、助ければワンチャンある! という思考が透けて見えるようだ。
(ワンチャンないだろうけど)
 むしろ嫌悪をあらわに踏まれるに決まっている。
「よし、次はどの店だ」
「えー、じゃあお酒はちょっと離れて、チャーリーにいってみましょう」
「チョコレートの店ですね」
 ブランデーとあわせて食べる、と話していたのを聞いたことがある。
 再び街にくりだしながら、途中ツェッドの携帯にギルベルトから新しい菓子受けになるような器を買ってきてほしいと連絡があった。
 ギルベルトの目に適うようなものとなると難しい。酒屋めぐりを中断して、ひとまず目に入った陶器の店に三人で足を踏み入れる。
「陶器って重くないか?」
「ザップさんが暴れるから割れるのも心配ですよね」
 プラスチックでもいいし、東洋では木でも一般的だとツェッドが提案した。店を変えてみようとしたとき、レオナルドは店の隅で見覚えのある花瓶を見つけた。以前チェインがライブラに買ってきたものだ。
「こんなとこに……」
 値段を確認したが特別高いわけではなく、レオナルドにも手が届くくらいだ。
「すみません! 僕これちょっと買ってきます!」
 花瓶を買うレオナルドに二人は不思議そうにしている。ギルベルトに頼んでまたライブラで使ってもらおう――と店を出たところで、ふたたびあの感覚に襲われた。体が薄まり意識が現実からかい離していくような浮遊感。希釈だ。
 やばい! と気づいてすぐにオナルドは目をつむってミシェーラの姿を思い浮かべた。妹の目を取り戻すこと、それがレオナルドの唯一無二の理由と後悔。けれどその瞬間、ふと考えてしまった。

 もしも最初からレオナルドがいなければ、ミシェーラの目は失われずに済んだんじゃないか?

     ◇

 ザップの血が指よりも早くポケットに入っている携帯を操作し耳元に運んだ。通話音がきれると同時、相手がハローというよりも早くザップは叫んだ。
「レオが消えてってる! なんだこれ! クスリきめたみてぇに頭ぶっ飛んでくぞ!」
 レオナルドの体の向こうがはっきり見えるにつれ、ザップの頭はぼやけてくる。ツェッドがワンテンポ遅くライブラにも連絡を入れているのを視界に捉えながら、なにもできずにレオナルドを凝視し続ける。
 怯えた顔のレオナルドが、急に悲しげで穏やかな表情になる。ミシェーラ、と小さな声が聞こえたのを最後に、ふつりと消えた。
「おい! どうすんだ! どうすりゃいい!」
『僕の方で試してみます。彼の家で落ち合いましょう』
 電話がきれて、同じく通話が終了していたツェッドをひっぱってザップは馴染みのあるオンボロアパートに向かう。ぶつかりそうな異界人を突き飛ばしながら急いでいたが、走っている途中で、どうして自分が走っているのか、どこに向かっているのかがわからなくなって足を止めた。


 家、というのは『帰ってくる』場所だ。局長はそこをレオナルドのセーブポイントとして指定した。そこで符牒を実行する。
 レオナルドの符牒は、今朝レオナルドと会話した内容から局長が作った仮初のものだ。本人が作ったわけではない符牒がどこまでの効力を発揮できるかは未知数だったが、賭けるものはこれしかない。
 ――レオナルド・ウォッチの思い人が謝る。お詫びの品は新作ゲーム。
 単純な方が効力がでやすい。思い人、というのは謎だったが、朝のうちにライブラに連絡したら、スティーブン本人が自分だと名乗りを上げた。早速彼はレオナルドのアパートに駆け込むように扉をあけて謝罪を述べた。
「僕が悪かった! 君と仲直りがしたいです!」
 しかし何も起こらない。勢いつけて開いた扉は無人の部屋に繋がっていた。日用品すらなく、本当に誰も住んでいない部屋だ。


     ◇

 ミシェーラには1つ、決めていることがある。それは罪悪感であったし、贖罪でもあり、むしろ義務だった。
 生まれつき足が動かなかった幼いミシェーラにとって、家族が自分を中心にまわっているのは当然のことだった。ただでさえ幼少というのは人の手を借りるもので、ミシェーラのように肢体不自由でなくても、一人っ子であったりすれば大概の子が自分を世界の中心に考えているのが普通だ。だからミシェーラの当時の傲慢さは当然といえば当然のことだった。
 最初にそれが崩れたのはミシェーラが4歳のときだった。レオナルドが家で母親に、クラスメイトの女の子に好きだと言われたと話していた。一番人気は足が早いリックだったけど、その子だけはレオナルドを選んだらしい。ミシェーラは真っ先に「そんなのダメよ」と主張した。私は嫌だ、と。兄はミシェーラのための存在で、他の女の子に盗られるなんて許せないことだった。
「あら、これじゃあお兄ちゃんに彼女ができたら大変ね」
 そういって笑った母の言葉が、そのときは本当に理解できなかった。お兄ちゃんには私が居るんだから、恋人なんていらないわ。
 ミシェーラが6つのとき、学校の体育祭には当然参加できなかった。しかしレオナルドはいくつかの種目に出ることになっていたし、目玉として徒競走もある。練習がしたい子は放課後残ってしていいよ、と先生がいって、クラスのほとんどが残って練習することになった。けどレオナルドは不参加だった。両親が共働きで家にいない間、ミシェーラを助けるのはレオナルドだ。他の子が毎日練習しているなか、レオナルドはシェーラの車椅子を押してまっすぐ家に帰っていた。
 結局、体育祭でレオナルドはビリだった。足は遅い方ではなかったし、クラスの平均くらいにいたレオナルドにとって初めての最下位だったけれど、兄は困ったように頭をかいて「かっこ悪い所見せちゃったな」と恥ずかしそうにした。
(私のせいよ)
 その日ミシェーラの胸に初めて暗い染みが生まれた。
 この出来事ばかりが原因ではないだろうが、結局レオナルドは今では走るのが下手くそで、ついでにいえば泳ぐのも下手くそだ。それよりのんびりとミシェーラの車椅子を押して歩くことをレオナルドは良しとした。もはやレオナルドのミシェーラへの献身は、ミシェーラにとっては兄から様々なものを奪い続けているということでもあった。
 だから境界都市で異形に遭遇した時は、ミシェーラは躊躇わなかった。
「奪うなら私から奪いなさい」
 これ以上レオナルドから何かを奪うなんて許さない。そのためなら、兄のプライド、アイデンティティ――優しさすら踏みにじったとしても。
 レオナルドがどんなに自分を責めて苦しんだとしても、ミシェーラの犠牲になって目が見えなくなったことを「よかった」と笑うよりはいい。

 視力を失う前からミシェーラは一つだけ決めていたことがある。絶対に幸せになるということだ。最後にハッピーエンドを迎えれば、きっとレオナルドの犠牲も苦しみも報われる。
 結婚式の日取りがようやく決まって、これから大量の招待状に宛名を書いていかなくてはいけない。ミシェーラは目の関係で字を書けずトビーを手伝うことができないから、手書きではなく印刷で済ませる予定でいる。それだって結構時間と手間のかかる作業で、量を考えた時はやる前から疲れたように深い息を吐いてしまったものだ。
 それでもいざリストに一人目を記入する際に、歌を口ずさむようにミシェーラはトビーを呼んだ。
「私、一番の人は絶対譲れないの」
「ははは、わかるような気がするな。当てて見せようか」
「ダメよ、私に言わせて。一番はね」


「両親よ!」
 もちろんそうだ。足が不自由な“一人娘”をここまで育ててくれて、彼らの愛情のおかげでミシェーラは卑屈になることも、できないことを足のせいにして辛い気持ちになることもなかった。
 “他に兄弟がいなかった”からというのもあるのか、運動会では毎年放送委員のミシェーラのため“だけ”に来てくれたし、ミシェーラが足に関係なく参加できる数少ない行事の音楽祭ではいつもビデオカメラを手に二人が揃って見に来てくれた。
「感謝してるの」
「そうだね」
「だから一番上はお父さんとお母さん」
 当たっていた? とトビーに聞いてみる。
「まぁ順番なんて印刷しちゃえば関係ないんだけど!」
 ミシェーラは青い虹彩の瞳で、トビーを見上げてにかっと笑った。

     ◇

 長ったらしい溜息が後ろから聞こえてきて、スティーブンは大げさに肩を跳ねさせた。なぜか見覚えのない場所にいるし、なぜか呆れられている。後ろを振り向くと、スーツを着た小さな人のよさそうな男性が肩を落としている。
 スティーブンはこの男が先日契約を結んだ人狼局の局長であることに気づいた。
「どうかされましたか、ミスター」
「ええまぁ。大事な友人の帰還に失敗しました。人狼たちは比較的影響が遅く現れますが、早晩忘れてしまうでしょう」
「それは……またお気の毒に。以前おうかがいした符牒とやらがダメだったということですか」
 局長は再び大きなため息をついた。
「わけあって僕が急ごしらえした符牒でしたがね、ダメだったようです。彼はあなたとの仲直りをしたいと言っていたのですが」
 それを聞いてスティーブンは酷く慌てた。つまり、失敗したのは目の前の彼ではなく自分だ。おまけに消えてしまったのは自分の知り合いらしい。もしかしてライブラの関係者だったのかもしれない。
「……なんというか、すみません」
「ミスタが謝ることでは」
「いえ、失敗するのも当然でしょう」
 スティーブンは自分のことがよくわかっている。きっと、“仲直り”なんて本心でしなかったのだろう。自分が何をしたか知らなくても、おそらく合理的な方法を選んだことで、諍いがおこったのだろうという予想があった。合理的とは、ときおり誰かの感情を蔑ろにする方法だ。
 そのくせ相手を感情論に持ち込んで操ろうとするスティーブンだ。ライブラのメンバーになるほど善良な人間なら、そういうスティーブンのやり口を嫌ってもおかしくない。
 それをわかっていて、スティーブンは自分の選択を悪びれたりはしない。正しくないことでも、利益を取るためには誰かがやらなきゃいけない時がある。
「何があったにしろ、僕はきっと間違っていなかった。そう思っているからです」
「ばかやろう」
 返ってきた返事に、耳を疑った。無人だった部屋に、冷蔵庫、テレビ、ゴミ箱、最低限の家具がいつの間にか現れている。生活感がなく、掃除もあまりされてないのか、ゴミ箱に入っていない紙くずが床に転がって、シーツだってぐちゃぐちゃだ。忙しい貧乏人が住む、ボロボロのアパート。
 スティーブンの胸板を殴ってきた拳は力なくて、小さく震えていた。
「……レ、オナルド?」
「あんたそういう人だよ。ちくしょう」
 因果の消失から帰還したレオナルド・ウォッチは、涙でぐちゃぐちゃになった顔でにやりと勝ち気に笑った。
「チェインさん取り戻して、絶対後悔させてやるんだからな」
 スティーブンはすべて思い返した。どうして彼と喧嘩したのか、そしてやっぱり、自分は間違っていなかったこと。
 我々はこの目を失うわけにはいかなかったし、スティーブンもレオナルドを失いたくなかった。思い切り抱きしめると、カエルがつぶれたような声をだされて、少しだけ笑った。
 遠いスイスでもミシェーラの結婚式の招待客リストの一番上に、当たり前のようにレオナルド・ウォッチの名前が記された。


 それはそうと、スティーブンは勝手な行動をとった若い連中3人のことを、こってりと絞ることを忘れなかった。
「石抱きというんだが、日本にはいい拷問があるよなぁ」
 ぎざぎざに尖らせた地面に正座をさせてその上に重石をおく方法だ。さすがにそこまではしないが、正座させたうえで足を半分ほど凍らせる。
「やるなっていった側から言いつけを破って、ん? レオナルドが戻ってこれなかったらどうするつもりだったんだ?」
「そりゃないぜ番頭、そもそもあんたがレオを」
「誰が喋っていいといった、ザップ?」
 ザップだけ足を覆う氷を増量してやって、スティーブンはあからさまな溜息をついた。
「そもそも人狼を取り戻すのには符牒が一番効果的なんだ。本人の意思でしか帰ってこれないんだよ。君らがやったのは完全な無駄足というわけだ。あぁ本当によかった、全員無事で」
 言葉と裏腹にスティーブンは絶対零度の微笑みを浮かべている。今まさにスティーブンの手によって無事で済まされていないが、クラウスはスティーブンの言葉尻に無邪気に同調した。
「うむ、皆が無事で何よりだ」
 紙とボールペンをギルベルトが氷上の3人に渡し、スティーブン、KKにも配って回った。アンケート形式のそれは、カウンセリングのような内容になっていた。
「クラウス?」
「ミス・チェインを取り戻すために、今日のような危険はついて回るだろう。各自で符牒を作って、今後の対処にあたらなければ」
「…………クラウス僕の話きいてたかい?」
 人狼の消失に唯一抗う手段は、彼女自身が残した符牒だけだ。チェインの場合はスティーブンが部屋を訪れること。それが失敗した今、もはやライブラにとって打つ手はないし、因果律の修正に巻き込まれて世界から消されてしまうリスクの方が大きい。
「しかしスティーブン。それはミス・チェインを諦める理由にならない」
「いや、まぁ、そうなんだけど、うん」
「スティーブン、我々なら大丈夫だ」
 力強く言うクラウスに、スティーブンは顔を引きつらせた。無言の攻防がしばらく続いたあと、結局折れたのはスティーブンの方だった。
「あー総員、心して符牒をつくれ! 自分の命綱になるんだからな!」
「えこひいき半端ね〜! 僕のときと大違いだ〜!」
 レオナルドが珍しく文句をいったが黙殺する。
「あんた結局クラウスさんに背中押してほしかっただけじゃないっすか〜」
「クラウス、符牒は決まったかい? 僕は『ザップとレオナルドがキスをする』にするよ」
「無視か! っていうかなんすかその条件!」
「げー! 番頭そりゃねーっすよ!」
 悲鳴をあげた二人を放置して、クラウスはマイペースにたしなめた。
「スティーブン、符牒は人に教えてはいけない」
「はっはっは、君たちなら悪用したりバラすことはないだろ」
「それはそうだが」
 嫌がらせのついでに決めたスティーブンと違い、ツェッドやレオナルドはずいぶん悩んでいて決まらないようだった。
 レオナルドなんてミシェーラ一択だろうと思わなくもなかったが、それが裏目にでたのが先ほどの消失らしい。できればレオナルドを三度も消してしまうことは避けたい。
 早く決まったのはKKとザップで、ザップの方は汚い字で3秒で書き終えたあとは顔をでれっでれに崩していた。
「あー早くチェインちゃんに会いてーなー」
「つーかなんすかザップさん。この前からチェインちゃんチェインちゃんって。らしくねーっすよ、薄気味悪いっつーか」
「あぁん? かわいくて胸の大きい女なんだから、俺の女だろ? どう呼ぼうが勝手じゃねーか」
「どういう超理論だよ! むしろ嫌われてましたよ、あんた。毎日踏まれてました」
「刺すのに比べたら踏むなんて可愛いもんだろ。要は嫉妬してんだよ。これだから童貞ちゃんはダメだわ、わかってねーわ」
「ありねーっすよ!」
「なんでだよ! お前は俺とチェインちゃんのこと、1から10まで知ってんのか?」
「そ、そりゃあ僕は途中参加した身ですけど」
 レオナルドはおもわず口ごもってしまっていた。その口ぶりからおそらく、チェインの方がレオナルドより先にライブラにいたのだろうと推測される。たじろいだレオナルドに、ザップはいっそう調子づいている。
「まぁ一回や二回は確実にやってんよ」
 スティーブンとしては、あまり下品な発言をクラウスの前でしないでほしい。、KKやスティーブンならば猥談も下ネタもどうっていうことはないが、温室ならぬ水槽育ちのツェッドも顔をしかめている。
 レオナルドは言葉も出ないようだった。二人の関係を断言できるほど仲がよかったわけではないのかもしれない。
 スティーブンは(まぁ可能性はあるだろうな)と思った。ザップのことだ、十分にありえるだろう。

 そのとき、ザップの鼻っ柱に靴がのめりこんだ。空中から突如現れた靴底は、みるみるうちに足首がはえ、続いてスーツにつつまれた細身の足が。さらにボタンできつくしまったウェストと、はち切れそうな胸、そして最後に憤慨で真っ赤に染まった顔が現れた。黒髪のボブカットに希少なパープル・アイ。
「死ね!! くそ猿!! 二度死ね!!」
 チェインだ。あっけなく、唐突に。そしてひと月ぶりに、勢いよくザップの鼻を踏み潰した。
「チェイン……」
「スターフェイズさん違います!! この猿の言ったことは全部嘘です!! ええええええええ!!?? ど、どっどうしたんですか!?」
 何度もザップを踏みなおしていたチェインが、弁明しようとスティーブンに顔をむけて、顎が外れそうなくらいに動揺した。
 チェインの悲鳴を追って、全員の視線がスティーブンに向かう。チェインの帰還を喜ぶより前に、事務所はスティーブンの大号泣に度肝を抜かれた。




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