知恵を持つ者は醜悪な見た目だと相場が決まっている。ドン・アルルエルの言葉だ。だから人間はほかの動物に比べてぶさいくな見た目をしているのだという。
 そして人間以上の知恵をもつドンは、さらに醜悪な見た目をしている。頭部はぶよぶよと膨らんだ鼠色で、背中には戦利品の脳みそを蓄えている。見るに堪えない姿をしているというのにそれでもまだ満足していない。まだ脳みそが欲しい。
 希少な脳みそ、希少な頭脳や希少な精神をしたクラウスの脳みそにドンはご執心だ。クラウスの脳みそを手に入れるためになら、ドンはクラウスのどんな望みも聞き入れる。クラウスがゲームで逃げ切げきればどんなことでも教えてやるし、負ければ念願の脳をもらうだけだ。
 クラウスは、ドン・アルルエルに人狼チェインの取り戻し方を求めた。
「残念だけど、今回ばかりは君の求めに答えることはできないよ」
「なぜですか! ドン・アルルエル!」
「人狼の消失っていうのはね、世界をまるごと書き換えることに等しいんだ」
 その人狼を取り戻すということは、その書き換えをなかったことにするか、さらに別の形に書き換えることになる。
「世界に干渉できる力は神々の遺物のみだ。我々の領域を超えている。私と、君の領域をだよ」
 人狼が身近すぎたせいか、自分の領分を見失っていやしないかとドンはクラウスに忠告をする。人狼の消失という因果の上書きは、因果の中心にいる消えた人狼本人にしか抗うことのできないものだ。ドンの手にも余るから、教えてやれるだけの知恵を何も持っていない。
「無理に関わればこちらが上書きに巻き込まれてしまうよ。馬鹿なことをしないでくれ、君の脳は私のものだ」
 チェインを取り戻すには、世界を書き換えるに匹敵する力がいる。たとえば、レオナルドがもつ神々の義眼と同等の。ただしあれは観測手段であって、干渉の力はない。
 そんなものは都合よく転がっていたりしない。でも、とドンはいった。
「君は諦めてくれないんだろう、不可解の極みだ」
 ドンの言葉は正しい。とっかかりならばあるとクラウスは信じていた。レオナルドがチェインを覚えていることこそが、解決の糸口だと。


 一方でスティーブンは、唯一の情報源であるレオナルドを連れて人狼局に足を運んでいた。
「レオナルド君でしたね?」
「は、はい」
 穏やかな見た目の、小さな局長を前にレオナルドは心なしか緊張していた。優しそうな顔の局長の横には、怖そうないかつい男性がいたし、その後ろにはきつめの美人がずらりと並んでいた。ミヨンの姿もある。
「神々の義眼をみせてもらってもいいですか」
 ストップをかけようとしたスティーブンに大丈夫だと頷いて見せて、目を開く。局長はなるほどと呟いて思案げだ。
「最後にチェインを見たのはいつだか正確な日時がわかりますか?」
「えっと、確かひと月くらいは前だと……」
 レオナルドは普段アルバイトをしているためライブラに顔を出すのは不定期になる。チェインも主に調査や潜入の仕事で動いていることが多く、かち合わない日が続くのは珍しいことではなかった。
 ひと月という時間に、人狼たちは動揺を顕わにして顔を見合わせた。まずいことをいったのだろうか。
「それは、ちょっと長すぎますね」
 人狼の消失には、もちろん対抗手段を用意している。本人がもっとも『戻らなければ』と思う現世への楔を符牒として申告し、消失が確認され次第実行に移す手はずになっている。彼女の痕跡が世界から完全に消える前に行わなければ効果はなく、一分一秒を争う。その時間との勝負で、既にひと月もの時間が空いてしまっている。
 怖い顔をした男――次長は唸るように言った。
「チェイン・皇という人狼はたしかに存在し、我々は符牒を確認した。が、戻ってくる望みはほぼない。ひと月も無駄にして、完全に手遅れだ」
 それをなだめたのは局長だ。
「まぁまぁデリミド君。やれるだけのことはやってみようじゃないか。レオナルド君がこうしてやってきたのだって、神がまだ諦めるなといっている証拠ではないかな」
「しかし……!」
「局長好き! さすがー!」
「次長ほんと死んだらいいのに」
 渋面を作った次長に対し、後ろに並んでいた人狼たちがぱっと顔を明るくしてヤジをとばした。レオナルドもそのヤジに心の中で頷いた。ミヨンの表情も少し和らいでいて、チェインを覚えてなくても、どうでもいいというわけではないらしい。
 局長はレオナルドの両肩をたたいて激励した。
「こうして、チェイン・皇が存在したと周知されるだけでも大きな進歩だと私は思うよ」
 人狼の局長はギルベルトにタイプが似ている。にこにことして人の心配や憂鬱を溶かして温めてくれる。
「彼女たち人狼にとって、世界というのは意思の力の集まりみたいなものなんです。チェインを思う気持ちが重なり合って、彼女の帰還に繋がると一緒に信じてくれますか?」
「はい! ありがとうございます!」
「お礼を言うのはこっちの方ですよ」
 伝手をあたる約束をしてくれて、スティーブンと二人で頭をさげる。局長は厳重に保管している金庫から、君たちはこっち、と渡されたアクリル製のボードを手渡した。中に手書きのメモが挟まっている。
「これがチェインくんの符牒です」
 それを二人で覗き込んで、スティーブンは素っ頓狂な声をあげた。
「は? 俺?」
 チェインが絶対に戻らなければと思う、最大の理由――スティーブン・A・スターフェイズが部屋を急に訪ねてくる。
 クエスチョンマークを飛ばすスティーブンに、レオナルドは無言を貫いた。同じ相手に片思いしていたレオナルドには、彼女の気持ちがよくわかった。おそらく戻ってきたときに感じるであろう羞恥も、痛いくらい。好きな人が部屋をたずねてくるなんて、嬉しくってたまらないことだ。でも、それを相手に知られてしまうのは、いたたまれなくて恥ずかしい。
「やってみます」
「僕もやれるだけやってみよう」
 そういって、両手で彼女の恋心を抱えたレオナルドの肩をスティーブンが抱き寄せた。
 どきり、とチェインへの罪悪感と恋心の両方に胸がたかなる。別に取り決めをしたわけでもなく、勝手にレオナルドが身を引こうとしているだけだが、抜け駆けのようで申し訳ない。
 人狼局を後にして、符牒に記された指定の住所――チェインが住んでいた部屋に辿り着いた二人は、中から物音がするのに目を見交わした。住人がいるようだ。急に訪ねる、というミッションを空き室ならともかく知らない他人に仕掛けるのはなかなか難易度が高い。
 一瞬躊躇いをみせたスティーブンだったが、意を決して扉を前触れなしに開けた。
「こんにちはぁ! 遊びに来ましたぁ……!」
「きゃあ!」
 ドアの正面には着替え中のブロンド美女。スティーブンが確認のために勢いよくレオナルドを振り返ってきたが、レオナルドも真っ赤になりながら顔を左右に振るので精いっぱいだった。彼女はチェインとは別人で、スティーブンとレオナルドはノックもなしに着替え中に押し入った変態でしかない。
「うわぁ!」
「すみませんでした!」
 ドアを投げ返すように勢いよく閉めたあとで、再び中からドアが開いてそっと隙間から名刺が手渡された。電話番号と名前がかかれている一般的なものに「かけてね」なんてかわいらしいメッセージ付き。
 女性にとっては最低な痴漢行為のはずだが、むしろ喜ばれているようなのは、スティーブンがイケメンだったからだろう。あとは彼の身なりからお金の匂いがしてたかもしれない。騒がれなかったのは助かったけれど、なんとも言えない眼差しをレオナルドは隣の伊達男に向けてしまう。
 イケメンというのは男の敵だと思う。
 彼は苦笑いをして片手でごめんねの仕草をした。
「ランチにいかないか、少年。驕るぞ」
 レオナルドは遠慮もくそもなく頷いた。妬みとか、モーションをかけてくる女性への嫉妬とか、そういうのを飲みこんでムッツリとした顔で。
「パスタと丼ものどっちがいい?」
「丼ぶりでお願いします!」


 スティーブンに奢ってもらった食事は米の上に半熟卵でとじた肉がのせられたもので、ボリュームも申し分なく万年空腹ぎみのレオナルドの胃袋に染み渡るようだった。スティーブンは野菜が多めに乗せられたヘルシー丼で、スプーンを使って食べているレオナルドと違って器用に箸を動かしている。
「スティーブンさんって箸いつぐらいに練習したんですか?」
「なんだ急に」
「ジャパニーズやチャイニーズ食べるのにやっぱり箸ならかっこいいじゃないっすか。しかも輪ゴムとかバネの補助が付いてないやつ。でも練習するタイミング完璧に逃しちゃったんすよねー」
 レオナルドが利用するリーズナブルなチャイニーズチェーンでは、ハサミのように交差させた箸にバネがしこまれていて使いやすいが、やはりスティーブンのように本来のあり方で使える方が格好いい。
「僕の場合は子供のころだったな。血凍道の師匠に座学もマナーも一緒に習ったんだ。今度教えてやろうか」
「いいんすか?」
「厳しいぞ、僕は」
「知ってます。野菜でヘルシーメニューなのも大人の男って感じで、ほんとスゲーっすね」
 とにかく手っ取り早くカロリーをとりたいレオナルドには選べないメニューでもある。
「三十路になるとわかるよ、君も。あとこの店はドレッシングが旨い」
 スティーブンは上手に箸に挟んだ野菜をレオナルドに差し出す。
「食べてみればわかる」
 口の前にもってこられた野菜にレオナルドは衝撃を受けた。女の子同士がやるのは時々見かけるが、自分たちは男だったし、そこまで親しいかと言われれば首を傾げる。レオナルドは片思い中だからついときめいてしまったが、スティーブンはきっとこういうことを女性相手によくやっていると感じて複雑だ。
 ちょっと困ったように眉をさげたレオナルドに、スティーブンは促すように野菜を寄せてくる。
「あ、の」
 わずかな欲がレオナルドの中で頭をもたげる。
(いいのかな――ちょっとだけなら)
 野菜を食べようと口を開きかけたとき、ぱっと目の前の野菜が消えた。スティーブンは何が起こったか分からず目を白黒とさせていたが、レオナルドには間接キスを横からかすめとっていったその子がしっかり見えた。今はレオナルドの手元でもしゃもしゃと野菜をおいしそうに頬張っている。
「そ、そにっく〜〜お前〜〜」
 ソニックはちろりとスティーブンを見て、レオナルドにも向かって口を開けた。ごはんの催促だ。
「はいはい、僕ばっかいいもの食ってごめんよ」
「なんだ、いつもこうやって餌やってるのか?」
 スプーンにごはんと卵を少しのせて差し出していると、スティーブンがその様子を珍しそうに覗き込んできた。もう一度箸でつまんだ野菜を出すが腕でばってんを作って拒否されている。
「普段はどっかで勝手に食べてくるんで、こういうのは珍しいですね」
 ソニックはちらちらとスティーブンを見ては、レオナルドの肩に乗っかってきて自慢げな顔をする。味見がしたかっただけなのかとレオナルドは問いかけるが、スティーブンの方は少し口端が引きつっている。
「一本取られたなぁ」
「スティーブンさん?」
「なんでもないよ、ほらデザートもあるぞ」
「いや、まだ飯の途中っす!」
 結局ソニックの分までデザートを奢ってもらって、レオナルドは久しぶりに膨れた腹をさすって幸せな気持ちになっていたが、同時に窓の外を眺めながら寂しさも覚えていた。スティーブンとこうして関われることは滅多にない。普段なら昼ごはんを一緒にするなんて起こり得ない事態で、それはすべてチェインのことがあったからだ。小骨が引っ掛かるように、嬉しいことだけを喜ぶことはできない。
「次は何をしたらいいんでしょう」
「……人狼の消失か」
 人狼局によれば、符牒はもっとも効果的な、というよりも唯一といっていい手段だ。スティーブンとレオナルドは符牒通りにドアをあけたが、失敗だった。一か月も経っているのだから、と言えばそれまでのことで、もっと早く気付けたんじゃないか、答えの出ない自問を繰り返してしまう。
 ガラスの向こうを、チンピラ二人が通り過ぎていく。襟足以外を刈り上げたアロハシャツの男と、手下のようなオニギリ頭の二人組。異界人とすれ違っては盛大に道をあけているところを見ると、HLに来て早々何か痛い目にあったと見える。見覚えのある二人だった。
 以前ミシェーラへの仕送りが入った財布をカツアゲしたチンピラたちだ。眺めていると細目を瞬きするごとになにか映像がちらついて、目をこする。
「少年? どうした」
「なんか……なんだこれ……」
 違和感に目を閉じると、普段は制御できて瞼の裏の暗闇があるのに、みたことのない映像が残像のように見えた。さっきのチンピラ二人組がフラスコ瓶に頭を乗せただけの体で、HLの街角を跳ねている。
 目を開けると、二人にはきちんと体がある。義眼が見ているものが現実と食い違ってる。幻術を見抜くのとは勝手が違うため、もっとよくみようと今度は目を閉じながら義眼を少しだけ展開する。
 真っ先に目に飛び込んできたのはコップを磨く異界人の顔だった。どこかのバーで、チンピラの親玉と、連れにの女性――チェインだ――に酒をだしている。ショットグラスを山積みにして酒を男と交互に飲んでいるようで、飲み比べをしているらしかった。誰の視界をみているのか分からないが、親玉が先につぶれ、顔色一つ変わらないチェインが、レオナルドの財布を手に消える。
 やっぱりチェインはレオナルドの財布を盗り返してくれていた。これはその時の映像だ。
 そして同時に疑問を抱いた。チェインの能力ならば、酒で対決なんてしなくても財布くらい穏便に取り戻せたはずだ。
 男たちはその後払えない飲み代として体のいたるところを取り上げられてフラスコ瓶の体になったようだった。それでも生きているんだからさすがHL。
 チェインは、レオナルドのために異界人のバーテンをつかって仕返しをしていた。それで財布を渡してくれた時ひどい二日酔いだったのだ。チェインが消えたことで、一件がなかったことになり、チンピラ二人は体全部そろえたままで通りを歩いている。
 世界が書き換わるっていうのがどういうことか、レオナルドはようやく実感した。チェインだけじゃなく、何もかもすべてが変えられてしまう。たった一度会っただけだろうチンピラですらだ。
「なんで僕だけ覚えてるんだろう」
「そりゃあ少年、義眼だろう」
「……っすよね」
 独り言にスティーブンが結論を返す。取り戻そう、と再度レオナルドはスティーブンと約束をした。


 店を出てから事務所までの街中を歩いて帰っていると、映像がちらちらと重なって瞬く瞬間が何度かあった。レオナルドの知らない人や、チェインと一緒に仕事をしたことがあるオフィスの窓。チンピラ二人のように見た目に大きな変化がある場合もあれば、ほとんど何が違うのかわからないときもあった。
 映像が変にダブって見えるものすべて、チェインと大なり小なり関わって上書きされたものなのかもしれない。
「あっ」
「どうした」
 見覚えのある通りにきて、レオナルドはきょろきょろと辺りを見回した。反対の通りで、チェインに紹介してもらった小物屋をみつけて、スティーブンに断りを入れて立ち寄らせてもらう。
 お店の中に入ることはしなかったが、ショーウィンドウに飾られた髪飾りは見覚えがあるものだった。ミシェーラに買った髪飾りと同じものだ。これも映像がノイズのように一瞬重なってみえた。
「ここ、前にチェインさんに教えてもらった店なんです」
「ふうん、一点ものの店だね。プレゼントには確かにいい店だ」
「えっそうなんですか?」
 スティーブンがドアのガラスに書かれた小さな文字をさす。白地のペンキで手作りのため基本的には一点ものだと書いてある。似たようなデザインはあるが、細かな配置が違うそうだ。
 改めてミシェーラにプレゼントしたバレッタをみる。同じものだと思ったが、どこか違いがあるんだろうか。間違い探しのようなつもりで、レオナルドはガラスに鼻をくっつけるほど顔を寄せた。
 神々の義眼は、まやかしを見抜くことと記録することに長けている。比べてみても違いはさっぱり見つからない。
「人狼の彼女がいなくなって、買わなかったことになったんじゃないのか?」
「え、でも」
 てっきり、レオナルド自身は世界の書き換えには関係してないと思っていた。チェインのことを覚えていたために、変化は自分以外に起こったことなのだと。
 気づいてしまってゾッと血の気がひいた。
 自分が覚えていない間に、自分の行動すら何か見えない力によって捻じ曲げられている。青くなったレオナルドは、それでも心の中で誰かに向かって「チェインさんは確かに居たんだ」と訴えた。
 そのときレオナルドを襲ったのは、感じたこともない奇妙な感覚だった。体の芯から溶けていくような、自分の境界が薄くなっていくような。下を向くと自分の体が透け始めているのが見えた。
「少年!」
 慌てたようなスティーブンの顔が見えるが、それよりも急速に意識が遠のいていく。
 消える――とわかった。
 チェインのように世界からレオナルドの存在までなかったことにされてしまう。

     ◇

「少年!」
 叫びながらスティーブンはどんどん目の前のレオナルドの体が透けていって、その顔が恐怖に歪められるのを見ているしかできなかった。
「レ……!」
 かけるべき名前も失われて、口からは息がもれるだけだった。
 どんどん少年が消えていくさなか、スティーブンは唇を震わせた。建物の何軒かは崩れ、または獣の引っかき傷のように抉れた。道路が陥没するところもあったし、歩行者の何人かは腕がなくなり、足がなくなり、存在自体が消える異界人もいた。少年の半透明になった姿すらも完全に見えなくなって、今叫ぼうとしていたことを思い出せなくなる。
(待て、だめだ)
 もはやスティーブンが感じているのは理由のわからない焦燥だけだったが、異常事態だという警報はわんわんと頭に鳴り響いていた。わからない・覚えていない、ということが取り返しのつかないことに繋がるということだけは理解している。
(何か大切なことを忘れようとしている。思いだせ。とにかく言わなければいけない)
 なにをか? 糸の先を手繰り寄せてスティーブンは叫んだ。
「い、妹をどうする気だ!!」
 ぱっとスイッチで電気が切り替わるように、びっくりしたレオナルドが目の前に現れる。自分の出した声で夢から覚めるような感覚がする。
 街に現れた爪痕は消えうせ、異変が現れた歩行者も何も気づかずに通りを歩き続けた。何事もなかったかのように元通りになった街中で、スティーブンとレオナルドだけが怯えた顔をしていた。おぼつかない足取りで近寄ったスティーブンがレオナルドの両手を確かめるように握る。思わず寄り添うようにした手はどちらのものか、小さく震えていた。
 スティーブンはすぐさまクラウスに連絡をいれ説明して、にわかに緊急収集がかかった。
 クラウスをはじめ、チェインがいなくなってしまったことにレオナルドが気づいたときその場に居合わせた者たちの他、KKとツェッド、いつも事務所につめている内輪のメンバーが集められる。二人も事情はすでに把握していて覚えていない仲間のことを心配していた。
「これは提案じゃなく、決定事項として聞いてほしい」
 そう前ふりをして重々しくスティーブンの口から飛び出した内容はレオナルドを仰天させた。
「ミス・チェインの件はいったん保留とし、今後は全員が安易に関わることを禁止する」
「スティーブンさん!?」
「先ほど少年が消えかけた。おそらく踏み込みすぎたせいだ」
「それは、でも、何が原因かもわからないじゃないですか。それなのに全部やめるって」
 食い下がったレオナルドに待ったをかけたのは、今度はクラウスだった。人狼局とは別の伝手から情報をもらったところによると、無理に関われば巻き込まれると忠告されたそうだ。唯一チェインを覚えているレオナルドの次に、彼女に親身になってくれると期待していたクラウスのそれを、まるで裏切りのように感じた。
「人狼の――名前をなんといったか」
 次から次に信じられないことを聞いて、レオナルドは混乱しながら名前を教えた。
「チェインさんです」
「うむ。その、情けないことに現状では打つ手がまだないのだ。無論ミス・チェインのために我々は全力を尽くす。しかしレオナルド君の一件がある限り、まず全員が対策をとらねば。それまで一度人狼局に任せた方がいいだろう」
「クラウスの言った通りだ。しばらくの間、勝手な行動は慎むように」
 静まり返って誰も返事をすることはなかった。こうまで言われたからには無理に調査を進める者もいないだろうが、気持ちのいい話ではない。
「少年、来てくれ」
 事務室を連れ出されて、納得がいかない顔をしていたのだろう、スティーブンから再度釘を刺された。
「君が消えかけたとき、街に起こった異変が見えていたか」
 首を振ると、建物や道路の状況、道行く人の体についてどんなことがあったかを教えてくれた。
「君がいなくなればHLは様変わりする。今までの功績を考えれば当然だな」
 半神の召喚阻止に始まり、上級ブラッドブリード密封が何度か。どれも街を壊滅しかねない事件で、レオナルドの義眼は必要不可欠のキーアイテムだった。
「ソニックだって、君と出会わなかった世界じゃ死んでるかもしれない」
 半神の鍵となっていたノミにレオナルドが気づかなかったら、あのままライブラか別の何かに殺されていた可能性は非常に高い。レオナルド自身の影響力は些細なものでも、あまりに様々な事象の要となりすぎている。
「自分の価値を今一度考えろ」
 スティーブンの言うことはきっと正しいし、ライブラの副官としての判断なのだろうとも理解できた。それでもレオナルドは唇を噛んでスティーブンを挑発的に見上げる。
 消えかけたとき、レオナルドは自分の輪郭が薄まっていく感覚を初めて知った。すべてがひどく不確かで、自分の思考すら覚束なく消えていく。いくら特異能力だからって、あんな曖昧な虚実の境を気軽に行き来するチェインを心の底からおかしいと思う。レオナルドはもう二度とごめんだ。
 でも同時に、そうやって消えたチェインの心細さを思わずにはいられない。
「嫌です」
「少年、これは命令だ」
「さっき、クラウスさんがチェインさんの名前を忘れてました。それがどういうことかスティーブンさんならわかってるんじゃないですか」
「……クラウスにとっては知らない女性だ。忘れることもあるだろ、あいつだって人間だぜ」
「嘘だ。あの人が仲間だって思った人の名前を忘れるもんか」
 『チェインは存在しなかった』という世界の上書きは今もなお続行している。チェインのことを主張するレオナルドが消えかけたのは、煩わしいバグの排除といえる。
 今は小さな物忘れ程度でも、一度手を引けば、クラウスのみならずライブラのメンバー全員がチェインのことを忘れて誰も思い出さなくなるだろう。
 スティーブンの返答に一瞬逡巡するような間があったことが、彼も同じことに気づいている何よりの証拠だ。そのうえで、わざと無視した。
「チェインさんを切り捨てるつもりなんですね」
 義眼と天秤にかけて、より有益な方をとるつもりなのか。
「チェインさんはスティーブンさんのことが好きでした」
 スティーブンは一瞬声をつまらせたが、レオナルドと睨み合うばかりでお互いにひく様子がない。腹の底でマグマが煮え立つにつれ、レオナルドの声は唸り声のように低く硬質になっていく。
「そんなに義眼が大事ですか」
「ちがう!」
 耐えきれなくなったかのように、スティーブンは必死の形相でレオナルドの肩をつかんできた。
「どうしてわかってくれないんだ。君を失いたくないんだ、君が好きなんだよ! 君だって俺のことが好きじゃないか!」
 咄嗟には言われている意味が分からなくて、呆然としたレオナルドはスティーブンの為すがままだった。勢いのままにキスされ、重なっている唇を舌で舐められる。
「レオ」
 甘ったるい、好きだったはずのスティーブンの吐息がかかるのを、レオナルドは気持ち悪いと思った。
「レオナルド、僕らは両想いなんだよ」
「……だからって」
 こんな酷い告白があるだろうか。
 チェインがどんな気持ちでこの男を符牒にしたか、レオナルドがどんな気持ちで彼女の恋を見守ってきたかなんてこの男は知らないはずだ。絶対に気づかれないようにしていた。さりとて「これで手を打たないか」というように二人の気持ちを軽んじて都合がいいように扱おうとしたのは許せなかった。
「だからって……あんたを好きだった女の子を見捨てるのかよ!」
 叫ぶと同時に目の前の頬を思い切り殴り飛ばしていた。油断していたのか、非力なレオナルドのパンチでもスティーブンは後ろへよろめく。
 ぼろっと大粒の涙がせりあがってきたのを止められず、感情のまま外にこぼした。うろたえて頬の滴を救い上げようとする男の手をはたき落とす。
 そのまま無言で事務所を出ようとするレオナルドの背なかに声が追ってきた。
「レオナルド! 待機だからな!」
 途中肩がぶつかったザップが驚いて引き留めてきたが、それすら振り切るように自宅に帰った。
 荒々しくドアを閉め、靴も脱がずに飛び込んだベッドでレオナルドは丸まって泣いた。
「最低だ」
 それはスティーブンのことなのか、彼とキスをした自分のことなのか、わからなかった。ただ全部なじりたい気分だった。
 それでも考えてしまうのはスティーブンのことだった。
 また同じ局面が訪れたとき、彼はやっぱり何度でも今日と同じ決断を繰り返すだろう。覚えのない、リスクの高い構成員よりも確実な義眼を。その代わりたった一人で罪を背負って自己嫌悪に苦しんでいく。
 もっとも、クラウスがチェインの名前を思い出せなかったように、上書きが進めばその苦しみすらも忘れるだろう。
 好きだ、と言ったときの彼の顔をどうしたって思い出してしまって、目をきつくつむって追い払う。今はそんなこと考えたくなかった。




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