人狼、と聞いて最初にレオナルドが思い浮かべたものは、大きな満月を背に小高い丘の上で遠吠えをするモンスターだ。普段は人の姿をして街にとけこみ、満月の夜にだけ狼になる狼人間のイメージが強い。
 しかしそれは大きな間違いで、人狼と狼人間はまったく別ものらしい。狼人間はそもそも未確認のモンスターだという。想像上の怪物、というのが定説だが、狼人間が実在するか・しないかは、なんでもありのHLでは明言できないので今のところ議論は保留されている。
 とにかく、人狼は狼人間と違って満月の夜に狼に変身したりはしない。遠吠えをしたりもしない。
 特定の能力を発現させた人間を、人狼と呼ぶらしい。能力は遺伝的なもので女性にしか発現しないため、「人狼とはある能力をもった女性の集団」というわけである。
 能力とは、実存希釈、質量希釈――などなどレオナルドにはよくわからないが、そこに実在するという観測手段を極限まで薄めてしまう能力らしい。透明になったり重さがなくなったり、消音、消臭なんでもござれ、壁をすりぬけたりもする。
「幽霊になったり人間に戻ったりできるイメージでいいですか」
「言いえて妙だけど、なんか微妙な例えだね」
 と返すのは、レオナルドの知っている唯一の人狼、チェイン・皇である。
 本人を前にしてそれは本当に人間なのか、とはさすがに言えなかったが、世の中には血で炎を生んだり風を編んだり氷を創る人間だっているのだ。幽霊になる人間くらいいるだろう。人狼の起源は中国というのも、さもありなん。中華四千年、かの大国ならばそういう人間の一人や二人。


 午前中にピザの配達をして、午後からライブラにやってきたレオナルドは、天井を見上げて首を傾げた。知らない女性がそこにいたからだ。
 天井から降ろされた照明機器に足のせてライブラを見下ろしている。周りの誰も彼女が見えないようで、まるで幽霊のようだと思いながら、レオナルドはたいした危機感は持たなかった。こういう姿の消し方には覚えがある。
 そもそもライブラの事務所は高度のセキリュティで守られている。彼女たち――人狼の能力の前にはどんな防壁も無意味だが、部屋全面に張り巡らされている呪術による生体認証はいかに人狼といえど突破は困難だ(不可能ではないが大変な集中力が必要、というのはチェインに聞いた)。基本的には身内の許可がないと中には入れない仕組みだった。たぶん、誰かが彼女を中に招き入れたのだろう。
 ようやく彼女も見られていることに気づいたらしく、レオナルドと目があって瞠目していた。
「あのー、はじめまして。人狼の方、ですよね」
 レオナルドの声にようやく人狼の女性が室内にいることに気づいたスティーブンは、あわただしく立ち上がり、レオナルドの視線を追って天井を見上げた。事務所のほとんどが口を半開きにして上を見ると、彼女もようやく薄めていた姿を現す。
 カールした猫っ毛をポニーテールに結び、ブラウスにワンピース、黒タイツ。シャツのボタンが大きくはずされていて、チェインよりも派手で軽率な印象を受ける人だった。
「ども、イム・ミヨンです! 人狼局から来てまーす! リーダーさんたちは昨日ぶりです!」
 元気に挨拶をすませたミヨンは、不機嫌そうに唇と突き出してレオナルドにずいっと顔を近づけた。
「おかしいなぁ、なんで見えたんだろ」
「はぁ、まぁ、これがこれなもんで」
 レオナルドはミシェーラの口真似をしながら目を開いた。青い鉱石のような目にミヨンは顔の造形をかえるくらい驚いた顔で叫び声をあげた。
 レオナルドの眼窩にはまっているこれは神々の義眼だ。幻術やまやかしの類は一切通用しない代物で、人狼の能力を上回ることは初期段階でチェイン相手に証明されている。
「チェインさんのお知り合いですか?」
 なんとなしに聞いてみたら、女性は首をかしげた。
「ううん、それ知らない人ですよぉ」
「人狼だったらみんな知り合いってわけじゃないんですね」
「はぐれ人狼もいるしねえ」
 はて、と今度はレオナルドが首をかしげる。チェインは人狼局に所属していたはずだが、レオナルドが思っていたよりも複雑な組織体形なんだろうか。
「少年」
 スティーブンが手招きをして、さらに不可解なことをいった。
「君、人狼に知り合いがいるのかい?」
「えっ?」
 知り合いも何も、ライブラには人狼局からきているチェインがいる。
「なに言ってるんですかスティーブンさん。チェインさんに失礼ですよ」
 これがザップなら彼女とまた喧嘩したのかなとしか思わなかっただろうが、言い出したのがスティーブンである。彼がこんな悪質な冗談をいうわけがない。それに、スティーブンばかりか、クラウスまでが訝しげな顔をしている。
 レオナルドはようやく冗談や食い違いでもなく、なにか可笑しな事態が起きていることを悟った。彼らの困惑した視線をうけて、まるで異世界に迷い込んだかのように、自分以外のすべてが異質で知らないものに思えてくる。
「チェインさんっすよ、人狼局からきてて、ザップさん毎日のように踏まれてたじゃないっすか! スティーブンさんだってよくチェインさんと潜入調査任してたし、クラウスさんだってよくドーナツもらって……まさか忘れちゃったんですか?」
 必死に言い募るレオナルドを誰も肯定してくれなかった。ただ申し訳なさそうに眉をさげるだけだ。みんながチェインを忘れてしまっている、その事実にレオナルドはぞっとした。真っ先に浮かんだのは、呪術やネジのような特殊な異界人の存在だ。
 でも、もしそうだったとしてレオナルドに何ができる。誰が味方になってくれる、どうやって信じてもらう。この部屋でおかしいのはレオナルドの方だ。
 光明を投げかけてくれたのは、見知らぬ人狼の彼女だった。
「うちの局長に聞いてみますかあ? たぶん、君が思ってるより単純なことかもしんないし」
「心当たりがあるんですか!」
「うん、もしかしたらその人消えちゃったのかも」
「消えた?」
 彼女たちは姿を消しては現れる。たったそれだけのこと、と思っていたが、人狼の能力はもっと深く、恐ろしいものらしい。
「人狼って、自分を消しすぎちゃったら戻れなくなって、世界からも消えちゃうの」
 姿、質量、匂い、触感、人狼はありとあらゆる知覚情報を薄める。はては『存在したという事実』すらも薄くなっていき、やりすぎれば本当に存在しなかったことにすらなってしまう。
「誰も覚えてられないから、何人の人狼が今まで消えちゃったのか、よくあることなのか珍しいことなのかもわかんないっていうかぁ」
 ときおり消えかけながらも戻ってきた人狼がいることで、そういうこともあるのだと彼女たちは留意する。
 人狼たちは消えてしまったときの対策をつくっているが、一度そうなってしまうと時間との勝負だ。『最初からいなかった』という事実が世界に上書き保存されてしまう前に対処を取らなければいけない。
「もしかしたらもう間に合わないかも」
「ま、間に合わないって、それでいいんですか」
「よかないよお。助けたいけどさあ、そのチェインさん? チェイン先輩? のことをぶっちゃけ覚えてないんだもん」
 いまいち実感が、とミヨンは半分くらい諦めている態度でもある。そんな、とレオナルドは絶句した。

     ◇

 チェイン・皇について、話しておきたい。
 まず美人である。黒髪のボブ、珍しいパープルアイズ、パンツスーツ姿はクールすぎてちょっと話しかけづらい。
 初対面のとき、彼女が高層の窓から飛び降りてしまうのにはぎょっとした。突然現れてザップの顔面に着地する習慣も心臓に悪い。命の危機には「グッドラック」なんて言葉で見送られたし、レオナルドにとってチェインは『なんだか怖い人』だった。彼女はにこりともしなくて、さすがは秘密結社、近寄りがたい人だなと距離をとった。
 その次の印象は『かっこいい人』だ。
 ミシェーラへの仕送りが入ったレオナルドの財布がカツアゲされたことがあった。その頃はまだHLに慣れていなくて、大金を一つの財布に固めて持ち歩いたりしていたから全額盗られてしまった。
「拾ったからあげる」
 そういって、翌日に盗られたはずのレオナルドの財布を渡してきた彼女は、ひどい酒の匂いをまとっていた。いつも綺麗に整えられた髪の毛は後ろで雑に一本に結ばれているだけで、スーツにも皺がよっている。歩いている様子もふらついていて、顔色は真っ青だ。
「だ、大丈夫ですか」
「……ただの二日酔い」
 レオナルドが財布を盗ったカツアゲ犯を追いかけてぼこぼこにされたのはバーだった。財布を拾った、というのは明らかに嘘だったし、きっと何らかの手段で取り返してくれたのだということがわかった。
「ずりぃ! 拾ったんならザップ様がもらってやぶべっ!!」
 横やりをしたザップの顔を踏みつけたはいいものの、チェインは口元を抑えていてしまう。下にいるザップは盛大に慌てていた。彼女はきっと無茶をした。それなのに、自分の手柄は隠してしまう。
 
 雑貨はチェインさんにお任せするに限る、と言ったのはギルベルトだ。チューリップの葉を模した花瓶をチェインが買ってきたときのことで、それを聞いたレオナルドはどこで買ったのかを訪ねてみた。
「ミシェーラの誕生日がもうすぐなんですけど、どこを探したらいいのやらで」
「まず何をあげたいかじゃないかな」
 そういわれて、レオナルドは一度出直してプレゼントを考えるとことからはじめた。しばらくして「髪飾りにしようと思います」と言ったとき、髪の短いチェインに相談して悪かったとも思ったが、彼女はHLの雑貨店に明るく、数件の店を紹介してくれた。
 チェインを、付き合いが長くなるほどに『かわいらしい女の子』だと思うようになった。
 それがいっそう強くなったのは、彼女の恋に気づいてしまったとき。スティーブン・A・スターフェイズ。恋愛初心者のレオナルドでも彼女が内緒にしている気持ちを知ることができたのは、レオナルドも彼に恋をしていたからだ。

 レオナルドはスティーブンが好きだった。

 気づいてすぐ、チェインとライバルだなんておこがましくて恥ずかしくなった。チェインは美人で、仕事ができて、かっこよくてかわいくて。なにより女の子。スティーブンとお似合いだし、勝てる見込みなんて全然なかった。それに、彼女がいい人なのももう知ってしまっていた。
 彼女は奥手でスティーブンになかなかアピールしない。そんなところが好ましい半面でもどかしい。彼女の恋にレオナルドは自分を投影して、勝手に応援していた。どうせレオナルドの恋は叶わないけど、スティーブンの相手がチェインならいい。いや、絶対にチェインがいい。
 レオナルドが切なさを押し殺して思う――チェイン・皇はそういう人だった。




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