[春]


 スティーブンの両手は普段前足として使っているためだろう、肉厚で皮が硬かった。クラウスはその両手を握り、向かいあって自分は後ろ向きに歩いた。ひっぱられて、スティーブンはよろよろと力のない足取りで前進する。
 足だけで二足歩行をするのにスティーブンはひどく心もとない顔つきをしていた。はじめの頃よりは少しだけ長く歩けるようになっていたが、まだまだ足が体を支えきれない。四足で走るのとは筋肉の使い方が根本的に違うのだ。
 10メートルも歩くと、膝が崩れ落ちてしまう。
「スティーブン、もう一度だ」
「う!」
 軽く力をいれて立たせようとすると、スティーブンは眉を吊り上げてクラウスの手をはたき落とした。
「うぅ! う〜!」
「スティーブン!」
 思わず咎めるような口調で伸ばした手に、今度は噛みついてくる。犬に言葉は通じなくても、声の調子でニュアンスは伝わるものだ。
 苛立ちが伝わってしまったのだろう。クラウスがひるんだ間にスティーブンは身をひるがえして部屋の方へ逃げていった。
 四足なんて動きにくそうに思えるが、スティーブンは長い髪をたなびかせながら、下手をすると成人男性が走るよりも早いスピードで駆けてしまう。それだけ彼の狼としての生活は長かったのだ。

 スプーンを使うのにも苦労をした。
 まずは握らせることから始まった。今まで物を掴んだことがなかったのだろう、彼は指を丸めることができなかった。
 体が狼の生活にあわせて出来上がっていた。本来なら両手であるはずの両手は、前足として使うために邪魔な指が短く、関節が曲がって固まっていた。伸ばすことができず、曲げることも僅かにしかできない。指の力自体は強いが、指先に近い第一関節と第二関節までの話で、握力自体は弱い。
 ストレッチをくりかえして握れるようになってからも、たびたびスプーンを落としてしまう。
 そのため食事中は布でスプーンを手にしばりつけた。
 クラウスが介助してやって、彼の口に食事を運んでやる。これは犬食いをさせないためでもあった。
 皿に口をつけるのと違い、少しずつしか食べられないことにスティーブンはかなり苛立って食事中に何度も唸り声をあげた。
「う〜! うおん!」
「ス、スティー、や、やめないか……!」
 スティーブンが振り回した手が何度かクラウスの顔を打った。暴れるたびにスプーンにのっていた肉や、ぶつかった皿の料理があたりに飛び散る。
 肉料理の日はまだ機嫌がいいが、野菜になると一段と酷い暴れ方をした。食事を終えるころには零した料理でどろどろになる。
 毎日クラウスは長い溜息を吐きだした。暴れるスティーブンの世話をしながら食事をすることはとてもできない。自分の食事は後回しになる。クラウスは鳴りそうな腹をおさえて、汚れたスティーブンを抱えて風呂に連れていった。もはや手足をばたつかせる彼を運ぶのにも慣れてしまっていた。
 最初の頃こそ怯えて縮こまっていたスティーブンは、風呂の中でも盛大に暴れる。泡が目に入ると痛いことを学んでからは、洗っている最中だけは大人しいが、お湯で流し終えるととにかく外に飛び出そうとした。
 それをひっ捕まえてタオルでごしごし拭いてまたワンピースを着せる。手を離してやると一目散に部屋に戻っていく。
 自分の部屋を覚えてはいるのだ。あいかわらず部屋の隅で丸まってばかりで、くつろいでいる様子はないが。
 スティーブンがいなくなってようやく、クラウスは体をあらってゆったりと湯につかる。食事もこのあとだ。
 正直、クラウスは疲れていた。
 もともと何かを世話するのは好きだ。本邸ではガーデニングを庭師ではなくクラウスがやっていた。この別邸にある花壇も、荒れていたものを整え、花木を植えた。
 ただスティーブンのことになると、彼から拒絶されるたびにごりごりと精神を削られる。
 スティーブンのほうもストレスがたまっているのは明らかだった。クラウスを見慣れたことで体を触れ合わせるのを受け入れてくれるようにはなったが、顔を合わせると鼻に皺が寄っている。一歩進んで二歩下がっているようだ。


 その日は前夜から雲ひとつない快晴で、そのせいで冷え切った朝になった。昨日までの暖かさを裏切って、久々に霜がおりた。庭の芝が朝日を反射して輝いている。
 部屋の窓をあけたクラウスは、冷気にぶるりと体を震わせた。こういった急激に温度がかわった日は植物たちの方が気になる。
 部屋の隅でスティーブンは丸まっていた身を起してクラウスをみているが、起きてすぐは食事の時間だ。唸りも暴れもしなかった。
「すまない、少し待っていてくれ。まだ準備ができていないのだ」
 なるべくギルベルトと一緒に作るように心がけているのだが、今日は彼に頼もう。クラウスは一人庭向かった。
 春にはすることが多い。たくさんの花がさく。初夏の花の球根や苗を植えて、夏の花の植える土の準備をする。雑草はこまめに抜かなければ土にある花の栄養を全てもっていってしまう。
 いつぶりだろうか。軍手をはめ、麦わら帽をかぶって庭にしゃがみ込むのは。しばらく手をかけられなかったためについ没頭して、気がつけば朝の冷たい空気も暖かくかわりはじめていた。
 ふと顔をあげたのは、食事もまだだったからだ。腹が減っていた。最近は時間がずれることも多く、ギルベルトからも苦言を貰っていた。
 じきに成人だというのに、こう不摂生ではいけない。区切りをつけるため、一度立ち上がった。抜いた草はよく日の当たるところにまとめて置いておく。干しておけば枯れて肥料にもなる。
 庭の方から土を蹴る足音がした。四足の、最近家の中でよく聞く音だ。
「スティーブン!?」
 大慌てで振り向くと、建物の陰からひょっこり体を覗かせたスティーブンが、クラウスに見つかって大慌てで裏に逃げていった。
 追いかけると逃げる、立ち止まると振り向く。かと思えば、飛んでいる蝶に飛びかかってみたり、小鳥をじっとみつめてみたり。唖然としているクラウスに、いつの間にやら現れたギルベルトがそっと耳打ちをしてきた。
「もうしわけありません。外に出られる様子はありませんでしたので」
 この場合の外というのは、門扉や塀より外ということだ。
「お食事もまだですので、じきにお部屋へ戻られるかと」
「……そうか」
 それまでは好きにさせたほうがよいという、言葉の裏にこめられている意見を、クラウスはしっかりと受け取った。
 家の中に閉じ込めてばかりいてもよくないが、スティーブンを犬のように散歩させるわけにはいかないのだ。
 なるほど良いタイミングだったのかもしれない。スティーブンは芝の上を転がってのびのと開放的にすごしている。
「しかしどうやって外に」
「お部屋の窓から出られたようです」
 確かに朝クラウス自身が窓をあけた。開けたものを閉めはしたが、鍵まではかけなかった。だからといって自分で窓を開けるとは。見よう見まねでやってのけたのだろう。きっとドアを出入りしてしまうようになるのもすぐだ。
「スティーブン」
 声をかけてみると、飛び起きる。警戒している表情ではない。少し頭を傾げてみせる。自分が呼ばれたことを理解しているのだ。それで、用事はなにかと待っている。
 クラウスは細い息を吐いた。
 これ以上何も言われないと気付いたのかスティーブンはまた一人勝手に遊び始めた。無邪気な顔をしていた。



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