[冬]
昔、クラウスはトイプードルを飼っていた。次兄が連れ帰ってきたその犬はすでに成犬で、兄がいうにはおよそ五歳ということだった。
見た目は小さく、くるくるした黒毛の隙間からつぶらな瞳がのぞいて愛らしい。トイプードルは賢いことでも有名だ。体が小さくて盲導犬にはなれないが、見た目が可愛くて警察犬にもなれないが、賢い。
しかしクラウスの家にやってきたその犬は、前もって知っていた美点をすべて覆すほど凶暴な犬で、近づけば歯をむき出してクラウス達に噛みつこうとした。
その犬の名前は、スティーブン。
冬は食べ物がなくなる。そうすると山の獣たちは人里に下りてくるようになる。
十七のクラウスは、猟銃をかまえ茂みに身を潜めていた。
「赦したまえ――我が蛮行を」
幼いころにはじめて狩りをしたとき、長兄が言っていた言葉だ。最初は真似をしていただけだが、今ではその意味もわかるようになった。生き物を殺すのは罪だ。しかし生きるためには、何かを殺すことから逃れられない。
胸の前で十字をきって、クラウスは獣に照準をあわせる。
そばかすのある頬を刺すように、空気が冷えきっている。目元までかぶった白いコートが、クラウスの巨体と赤毛を雪に隠してくれるだろう。
少し離れた位置にいるのは、グレーの毛並みが美しい狼だ。本来狼は群れをなす生き物だが、めずらしく一匹でいる。歳をとっているからか、とても穏やかな目つきをしていた。賢く、誇りある生き方をしてきたのであろう。
せめて敬意をもって、引き金をひいた。あたりに響いた発砲音に鳥が飛び立ちにわかに騒がしくなる。クラウスの耳はくわんと馬鹿になってしばらく音が遠のいた。
隠れていた茂みから立ち上がる。しとめた狼の血で、あたりの雪がすこしずつ赤く染まっていく。死体は近くの大学の獣医科に教材として送ることになっている。
苦しめずにすんでよかった。まだ腕前が悪いときには一発で仕留められなくて、かわいそうなことをしたものだ。
苦い思い出に浸っているのもつかの間、どこかから枝をかきわけ走ってくる音がして、クラウスはぎょっと腰をかがめた。それは人が走る音ではなかった。ざざっざざっと間隔のあいた、四足の動物が走る音だ。音が重く、少し遅い。狼よりも大きな獣だ。
今日は二度の殺生になる。
猟銃を構えなおしたクラウスはしかし、倒れ伏した狼のまえに躍り出た獣に、呆然と銃口をおろすことになった。
それは四足の美しい獣ではあった。
毛は黒く長く、すこしうねりをもって背を覆っている。その獣は鈍銀の目を悲しみに濡らして狼にすがりついた。親子か兄弟なのだと思っただろう――彼が狼でさえあれば。
長い足は踵を浮かし、そのかわりに手を前について、狼の姿勢をとってはいるが、クラウスの目のまえにいるのはおそろしく整った顔と体をもつ裸の男性だった。
クラウスは慌ててその男を連れ帰った。男は人の言葉を理解せず、銃をもって火薬の匂いをまとわせるクラウスにひどく抵抗した。暴れる四肢を押さえつけることにも限界がある。手荒いとは思いつつも、頸動脈をおさえこみ気絶させてから死んだ狼と一緒に抱えて戻った。
クラウスの家は地元の名士だ。屋敷は広く、庭も広く、何人もの使用人をもちっている。そして別邸が存在する。別邸とは祖父が愛人とすごすために人目のつかない土地に建てた家だ。政略結婚をした祖父は、祖母とは別の女性を愛していて、クラウスの家ではそのことを口に出すことはかたく禁じられていた。
その別邸に、クラウスは自分の教育係であり信頼のおける執事のギルベルトだけをつれ、男と移ることにした
本邸に比べると手狭な別邸は、三人で過ごすにはちょうどいい。
クラウスが拾った裸の男は、きっと狼の群れの中で育ったのだろう。年はクラウスより少し上、二十を超えたころ。
男に服をきせ、人間の作法を教え込むつもりだ。
獣の彼を人間にするのが自分の使命のように思えたからだ。
名前を、スティーブンとつけた。
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