薄い長そでのピンクのTシャツを着て、その上にシンプルなグレーのパーカーを羽織り、ロールアップしたジーパンを履くと、結衣子の身支度は完了する。

いつもよりはハッキリとしたメイクも、世間一般から言うとナチュラルメイクの部類に入る。

同世代の女性に比べて結衣子の身支度がシンプルなのは、勤務先がウナギ屋だからだろうか。

9月になって涼しくなってきたとはいえ、ウナギ屋の厨房は恐ろしいほど暑くなり、メイクをしてもすぐ落ちてしまい、格好にも構ってはいられない。



「おー、おはよう。今日はゆっくりめの出勤だな」
「島田さん、おはようございます。今日は宅配の仕事だけを任されてるので、下準備には行かなくてもいいんですよ」



玄関から出ると、ちょうど玄関先を掃除していたらしい島田に出くわす。

宅配物の件ですっかり顔と名前を一致させた二人は、ちょくちょくと朝や夕方に玄関先で会うことが多くなっていた。

しかし不思議なことに、二人が出かける時間が重なったことはない。

いってこい、と見送ってくれている島田に手を振り返して、結衣子は石畳の階段を下りていく。

この階段を行った先にはバス停があり、そこから20分ほど揺られると結衣子の勤めるウナギ屋にたどり着く。

高層ビル群の中にある大きな病院の前をバスが通り過ぎたところで、結衣子は漠然と島田のことを思う。

彼はすごく不思議な人だ。

平日の昼間には家にいるのに、休日の夜にはいなかったり。

胃腸が弱いといっていたから仕事を休職中なのだろうかとも思ったが、お金に困っている様子はあまりない。

それから、これは結衣子の休日が平日の時に気がついたのだが、島田の家にはたまに人の出入りがあるようだ。

「兄者!」と楽しげに叫ぶ少年の声がたまに聞こえるのだが、それは島田の家への来訪者のようなのだ。

うーん…不思議な人。





「結衣子ちゃん、特上ウナギ2人前、将棋会館に届けてきてくれるか?」
「将棋会館ですか、わかりました」
「そう、お得意様なんだ。頼んだよ。ああ、そうだついでに…」



将棋会館へは、結衣子の勤務先であるウナギ屋から車で10分ほど。

店主に教えてもらった渋滞にハマらない抜け道を通り、まだ温かみが伝わってくる特上のうな重を二つ重ねて将棋会館を見上げる。

緑の抜け始めた木々の葉っぱがそよぎ、将棋会館は静かにそこに佇む。

ぼちぼちと人が出てくるのは昼時だからだろうか、一人で無言のまま立ち去っていく人が多いような気がする。

悩み考えすぎて疲れたような頭をリフレッシュさせるかのような顔をして。

そんな人々とは逆の流れで将棋会館に入っていく結衣子は、ちょっとした視線を集めていた。

記者のような格好をしているわけでもなく、ナチュラルなメイクでうな重を二つ抱えて歩いている、一見すると学生にも見える女性。

受付に顔を出し、届けに来たことを名乗れば、2階にある畳部屋に案内された。

結衣子を先導するように歩いていた事務の男性が一室の前で立ち止まり、襖を開けてから「うな重を頼んだ方」と声を掛ければ、誰かが部屋の中で歓声を上げる声がした。

ちょうど陰になっていて結衣子からは見えなかったが、「うな重、うな重、うな重ちゃ〜ん」と上機嫌な声が聞こえるあたり、よほどうな重を楽しみにしていたらしい。

この会館の前から保たれていた緊張感が今の声でふっと緩んだ気がして、、結衣子は思わず小さく笑みを零した。



「それじゃ、うな重ちゃんはどこかな……っと…」
「おーい、どうした一砂。早く持ってこいって!今日は景気づけに普段なら頼まないような高級うな重食って必ず勝とうって言ったろー」
「えーと、あの…うな重どうぞ?」



喜々として部屋の中からうな重を取りに来た男は、会館の事務員の後ろに隠れていた結衣子の姿を見て愕然とする。

いつもうな重を届けに来るのは60代の主人か、その奥さんと将棋会館の中では決まっていたのだが、その定義を覆すかのように目の前でうな重を抱えているのは若い女性である。

今時珍しいとも思えるほどの黒髪を後ろでゆるく一つで束ね、ウナギ屋のエプロンを身に着けた女性の首に掛けられたネックレスのリングが光っている。

自分の姿を見たまま動かない男に首をかしげつつ、結衣子は抱えていたうな重をそっと差し出す。

その行動に急に我に帰った様子で、男はうな重を受け取ってから慌てたように口を開いた。



「あ、今から財布取ってきますんで!ちょいとお待ちくださいね!」
「え、あ、はい!」



180以上はある長身の身体を思い切り反転させ、うな重を持って部屋に戻ってくる男の姿に部屋の中にいた人影達は首をかしげる。

あんなに慌てることがどこにあるというのだろう。

試しに部屋の出入り口を見てみたが、ウナギを届けにきた人物の姿は襖の陰になって見えなかった。

財布を持ち出して襖に突進するような勢いで走っていき、男は大声で「ま、まま、松本一砂と申します!以後お見知りおきを!」と叫び、ますます部屋の中にいた者たちは何事かと顔を見合わせる。

やがて財布を握り締め、緊張状態の顔のまま帰ってきた男に、向かいに座っていたメガネの男がおずおずと声を掛けた。



「え、ちょっといっちゃん…どうしたの?いきなり自己紹介なんてしちゃって。これからは対局あるたびにウナギでも食べんの?」
「俺の心は今猛烈に揺れているっ!!」
「は?」
「俺にはあかりさんという方がいながら…あの素朴な子を見た瞬間に心が突き動かされたっ!」



もはや自分の世界に入っている一砂に対し、もう一人の男は訳のわからない様子で目の前にあるうな重を開く。

ほわんとした蒸気が男の顔を包み込み、目の前でいまだに自分の世界に飛んでいる友の存在も忘れ、男はメガネを曇らせながらうな重をほおばり始めた。





『松本一砂』、そう彼は名乗っただろうか。

ここは将棋会館だから、きっと彼はプロ棋士というものなのだろう。

新聞やテレビでたまに見かける、将棋というものを職業にして戦っていく人。

頭を使う職業だろうからてっきり気難しい人ばかりなのかと思っていたが、一砂のようなタイプの若い人もいるのだと結衣子は初めて知った。

そういえば、と結衣子はふと思いつく。

島田が将棋盤の前で座っている姿を想像すると、妙にしっくりくるではないか。

初めて会ったときのように眉間にシワを寄せて、じいっと将棋盤を見つめる姿。

ああピッタリだ、今度島田さんに話してみよう―…。



「あ、あの!ウナギを食べ終わったのですが!」
「え?あ!わざわざすみません、しばらく経ってから受け取りに行こうかと思っていたんですが」
「いいえ、お気になさらず!」



棋士会館の1階のロビーでうな重の空箱回収のために休憩していた結衣子は、島田が棋士だったらという想像でずいぶんと長い時間を過ごしていたらしい。

目の前にはうな重の空箱を二つ持った一砂が立っており、ソファに座っていた結衣子は慌てて立ちあがって箱を受け取った。

箱を渡してからもなかなか動こうとしない一砂に対し、結衣子は不思議そうに一砂を見上げる。

女子としてもあまり身長が高いとは言えない結衣子にとって、180を超えた一砂はちょっとした巨人にも見える。

短く整えられた黒髪に、同年代の男性に比べてもガタイのよさそうな一砂は、20代半ばくらいだろうか。

年齢は同じくらいかな、と思いながら結衣子は口を開く。



「えーと、松本さんはよくうちのウナギを食べられるんですか?棋士会館がお得意様だとは聞いたんですけど、配達しに来るのは初めてで」
「あ、はい!え、あ、いや、いつもは頼まない…です!たぶんいつも頼んでるのはもっと強い人たちかなー、なんて…ハハ…」
「あ、じゃあやっぱり松本さんはプロ棋士さんなんですね」

「え、ちょっといっちゃん…誰よ、その子…」



うな重を食べ終えるや否や、「スミス、俺が持ってってやるよ!」と男の分まで空箱を奪い去ってどこかに消えていった友の姿を探そうと、スミスと呼ばれたメガネの男は2階から1階のロビーへと降りてきていた。

そしてそのロビーで捜していた友の姿、それから友と朗らかに話す一人の女性の姿を見つけた。

小さくつぶやきながらさっと物陰に身を隠すようにしてからその場を窺うと、どうやら友である一砂が照れまくりながらいろいろと何かを話しているようだ。

その女性が着けているエプロンを見て、スミスは一砂の様子がずっとおかしかった理由がすぐにわかった。

最後に女性が一砂に向けて頭を下げ、うな重の空箱を抱えて会館から出ていく姿を見送った後に、スミスは一砂に近づいた。



「季節は秋だけど会館の雰囲気は春だねえ、一砂」
「うおっ!?」
「今度から特上とまではいかなくてもうな重頼むとあの子来てくれるってことでしょ?名前なんて言うのさ、あの子」
「なっ、貴様なんぞに結衣子さんはやらん!!」
「ふーん、結衣子ちゃんねえ」
「しまったァアアア!!」



一砂の声が会館に響く中、結衣子は次なる場所へ行こうと車のカギを回す。

お茶請けのお菓子を買ってきてほしい、とウナギ屋の主人に頼まれているのだ。

渡されたメモには『三日月堂』と書かれていた。

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