9月中旬の気候は少しずつ涼しさを含み始め、たまにそよぐ風が心地良い。

ちょうどお向かいの『島田さん』の家の玄関に着いたときにも風が吹き、どこかの家の風鈴が鳴るのが聞こえた。

どこか物悲しい音にも聞こえる風鈴の音を聞いた後、玄関横のチャイムを押してみる。

夜にいるかいないかの人が平日の昼間にいるのだろうか。

あまり生活感は感じられないけど…。

こんなに良い天気にも関わらず布団はおろか洗濯物も干されていない軒先を見つめ、結衣子は半分諦めた気持ちで玄関先に立ちつくす。

いなかったらこの宅配便はどうしたらいいのだろう、と手に持った封筒の宛先を眺めていると、急に上から声が降ってきた。



「…おーい」
「え?うわ!」
「人の顔見るなり叫ぶのは酷いだろ…」



先ほどまではしっかり閉まっていた玄関はいつの間にか開いており、その中には少しくたびれた様子の男性が立っていた。

180センチ近くありそうな身長に、ちょっと頼りなさげな黒い髪の毛は寝ぐせ状態のまま放置され、眉間に深くしわが刻まれた男性。

お兄さんとは呼べずとも、おじさんとまでは言えない、そんな雰囲気を漂わせたこの人物。

結衣子の叫びに若干落ち込んだ様子で眉間のしわを指でなぞってなくそうとする男性にあっけにとられ、結衣子は茫然と目の前の人物の顔を見る。

その視線に気がついたのか、男性は眉間から指を離して小さく笑った。



「で?チャイム鳴らして待ってたってことは俺に用事があるんじゃないのか?」
「…あ、はい!これなんですけど」
「ん?あー、宅配便か。どうにも不定期に家にいるからダメだよな…家に居てもチャイムに気付かないときもあるし」



封筒を見たとたんにポリポリと頭を掻きだしたかと思うと、男性は「わざわざ手間かけてすまん」と結衣子の手から封筒を受け取る。

それから封筒裏の送り主の名前を見てゲッとあからさまに嫌そうな顔をし、次に結衣子の顔を見た。

そして、確認するように言った。



「お向かいに引っ越してきた子だろ?」
「え?私、会ったことないですよね?一応何度か挨拶に来たんですが、いつ来ても不在で…」
「ああ、俺が一方的に知ってるだけだと思う」



最初に「俺は島田だ、この封筒の宛先にもあるけど島田開」と前置きをしてから、男性は結衣子を知っている理由を手短に話した。

結衣子がウナギ屋から帰ってくる午後9時過ぎは、島田が家にいるときはいつも窓の外の高層ビル群を眺めている時間帯であること。

そしていつものように眺めていた時に、ちょうど3カ月ほど前から石畳の階段を上って結衣子が向かいの家に入っていくところをちょくちょく見ていたこと。

おー、向かいに人が住み始めたんだなあとは思っていたが、島田自身が家にいたりいなかったりの生活をしていたために、挨拶に来てくれても会えなかったんだろうということ。



「ついでに万が一俺が家に居ても、チャイムに気付く可能性は低いかもしれん。どうも目の前のことに集中すると他の音が聞こえなくなる癖があるらしい」
「そんなに集中できることは島田さんにはあるんですね」
「まあ、仕事だからなあ」



結衣子はまだこのときは知らない。

島田の集中しているものがなんなのか、そして仕事が何であるのか。

ただただ、初めて会った「お向かいの住人」の顔と名前を覚えようと熱心に耳を傾けていた。

田舎のような都会である階段の町で、初めて名前を名乗ってくれた島田の存在は、結衣子にとって強烈であった。

この3ヶ月間、他の住人とはすれ違ったときに挨拶を交わす程度で顔と名前を一致させることが出来ずにいたからだ。



「それで、お前の名前は?いつまでもお前じゃ失礼になるからな」
「楠木結衣子です、よろしくお願いします」
「ふーむ、初めてみた時は学生かとも思ったが違うみたいだし…楠木さんでいいか?」
「いえ、私の方が年下だと思うので『さん』は要らないです…はい」



ちょうど目にかかっていた前髪を手で振り払った後に深々と頭を下げる結衣子に、島田は少し目を見張る。

今時こんなに深く頭を下げるとは、よく出来た子だ。

自分よりは年下だろうが…坊よりは年上だろうな。

ふと頭に浮かんだまるまると太った弟弟子を思い出し、島田は小さく笑う。

それから、ゆっくりと続けた。



「そうか。じゃあこれからよろしく」
「はい、よろしくお願いします」



お互いの顔と名前を知り、二人は玄関先で別れる。

向かいの家の玄関に消える結衣子を見送り、島田も自分の家の玄関を閉める。

再び吹いた風が、風鈴を小さく鳴らしていった。

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