「島田さん、いらっしゃいますか?」
「おー、どうした?」
「今日お茶請けに買いに行ったお菓子、自分のお金でちょっと余分に買ってきてみたんです。すごく美味しそうだったから、島田さんもどうかなって」
「へえ、わざわざありがとうな」



棋士会館に初めて宅配に行った夜、階段の町に帰ってきた結衣子は自分の家に入る前に島田の家の玄関を開ける。

『チャイムじゃ気がつかないときがあるから、直接玄関開けて声掛けて入ってきてくれていいよ』

初めて会ったときに島田にそう言われたことを思い出し、結衣子が声を掛ければ島田は奥の方からゆっくりと出てきてくれた。

菓子の入った紙袋を渡せば、お礼を言って「じゃあ食べていくか」と家に上がることを勧めてくれる。

一瞬どうしようか、とも躊躇ったが、たしか明日は島田も家を空ける日のはずだ。

その前日の夜にお邪魔するのは、どうにも気が引ける。



「いえ、たしか朝に会ったときに『明日は俺も出かける』って言ってましたから、いいですよ。私も明日は下準備から行かなきゃいけないので、朝早いんです」
「…たしかに夜におっさんが若い女の子を家に連れ込んじゃマズイしな、やめとくか」
「おっさんって…島田さんまだ30代って言ってたじゃないですか」
「いやいや、結衣子から見たら十分おっさんだろ」



さらりと呼び捨てした島田に対し、結衣子は一瞬目を見開いてから小さく笑う。

「それじゃあ」と言い残して向かいの家に入っていく結衣子を見送り、島田は玄関を閉めてから呟く。

パチンと玄関の明かりを消すと、奥の障子から漏れてくる光のみが島田の表情を照らした。



「おっさん…か」



向かいの女性に持っている感情は、なんなのだろう。

ご近所さん、とはちょっと違う気がする。

そもそも他のご近所さんに関しては、顔と名前を一致させていないのだから。

仲の良いご近所さんってとこか、と自分を納得させ、島田は障子を開いた。

棋譜に取り囲まれた状態の将棋盤が、蛍光灯の光の下でひときわ輝いて見えた。





階段の町。

自分の住んでいる町がそう呼ばれていることは、島田も知っていた。

それでもこの町を選んだ理由は、長い階段を一段一段登っていった先に開けた丘があるからだ。

言いかえればいつかは頂上にたどり着くことができる、そんな言葉を体現してくれている町だからだ。

玄関を開けると、目の前に見えるのは結衣子の家だ。

どうにも結衣子の様子を見ていると彼女は一人暮らしらしいのだが、それにしては借りる家があまりに大きすぎるのではないだろうか。

今日は早く家出るって言ってたもんな、と一人考えて島田は彼女の家から視線を外して、長い階段を下りていく。

バスに揺られること30分、島田の戦いの場所である棋士会館の前でバスが停まる。

今は対局時間の真っ最中なのであろう、棋士会館のピリピリと張り詰めた雰囲気が外にかもし出されているように島田は感じた。



「あれ、島田さん。どうしたんですか、対局でもないのに会館に来て」
「ん、ちょっと過去の棋譜を取りにな…そっちこそどうしたんだ?」
「あー、ちょっと一砂が…昨日から恋煩いみたいで、棋士会館に毎日通う勢いなんですよ」
「恋煩い?」



少しゆっくりしていくか、と会館2階にある畳の敷き詰められた部屋に行けば、棋士の中でも若手に入るであろう一砂とスミスが将棋盤を間に置いて向き合っている。

とはいっても将棋を指している様子はあまりなく、一砂に関しては「うな重、うな重…」と呟いている始末である。

二人の近くにあった座布団に島田が座れば、スミスは呆れたように向かいの一砂を見た。



「昨日うな重届けてくれた子に一目ぼれらしいッス」
「…一目ぼれなあ、若くてうらやましいよ」
「島田さんだって宗谷名人と同い年じゃないですか、十分若いですよ」
「宗谷と一緒にしないでくれよ…俺なんておっさんだよ、おっさん」



ただ勝ちたくて将棋指してたら、あっという間にこんな年だもんな―…

頭の中で続けた言葉は、誰に聞かれたこともない本音。

タイトル戦の一つ、獅子王戦の始まりが数カ月後に迫っていた。

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