獅子王戦トーナメントが1週間後には始まる。
初詣からは数週間が経ち、結衣子と島田の距離感は去年に比べて縮まった。
しかし、それも初詣の間のことで、翌日からはまた顔を合わせたら話す程度の仲である。
とはいっても顔を合わす頻度は高くなっており、お互いに時間を気遣っているのだろうか。
今朝も結衣子と島田は顔を合わせ、一足早く結衣子の方が家の前の階段を下りて行った。
それから島田が将棋会館へいつものように向かう。
全ては、いつも通りだ。
「おはようございまーす。ずいぶん顔色良さそうですね、島田さん」
「おー、スミス。……松本の方は顔色良くなさそうだな」
「……今日こそは聞く、今日こそは…!」
「あー、コレはですね、例のウナギ屋の子に今度はバレンタインの予定を、ね。いっちゃん、ガラスのハートなくせに立ち直りも異常に早いんスよね」
会館に入る前にちょうど会った二人と挨拶を交わすも、松本の方は心ここにあらず。
ウナギ屋、という単語を聞いて島田は結衣子を思い出す。
そういえば彼女はどこで働いているのだろうか。
バスでいつも行っていると言っていたから、そこまで遠くはないはずだ。
今度坊と行く約束をしてみるか、と思いつつ島田は松本の肩をたたいた。
「頑張れよ、松本」
「はい!頑張ります!」
獅子王戦で一番最初に当たる相手の棋譜をいくつかコピーし、島田は棋士会館の2階へと上がる。
今日は獅子王戦に向けて自分の家で対策を練っている人が多いのか、人気はまばらだ。
松本とスミスを見つけ、そちらに近づけば、二人もやはり棋譜を自分の目の前に置いていた。
かと言って、その対策について話し合っている様子は微塵もない。
「あ、島田さんまた会いましたね。今日の昼飯何にしました?」
「松本の話聞いてたらウナギ喰いたくなったから久々にウナギだよ。腹痛くならなきゃいいんだが」
「まあ獅子王戦近いッスもんね、俺も久々にウナギ食べるんで不安で」
「失礼します。ウナギ頼んだ方ー!届きましたので、持ちに来てください!」
「……い、いってくる!」
「行ってらっしゃい、いっちゃん」
「応援してるぞ」
事務局の人間の呼びかけに応じ、目の前の松本が音を立てて立ち上がる。
もはや会館にいる全員が知っているのか、周りの目もどこか優しいものだ。
松本のずらした机を直しながら松本の後ろ姿を見送り、島田はふとスミスに問いかけた。
考えてみれば、松本の好きな子のことを何も知らないではないか。
姿を見ようとしてもちょうど襖の陰になっているらしく、見ることができない。
「ウナギ屋の子って、どんな子なんだ?」
「うーん、名前は知ってるんスけどね、俺もあんまり話したことなくて。なにしろいっちゃんのガードが堅いもんで」
「へえ」
「名前は結衣子ちゃんって言うんですよ、黒髪で俺やいっちゃんと同い年くらいの子です」
「………結衣子?」
妙に聞き覚えのある名前だ。
いや、聞き覚えがあるどころではない。
ウナギ屋、黒髪、名前は結衣子。
思わず腰を上げかけた島田の耳に、松本の大きな声が届く。
「あのっ、結衣子さん!バレンタインのご予定は!?」
「島田さん!?」
驚くスミスをよそに、島田は勢いよく立ちあがって歩いていく。
その様子に周りの棋士も道を空け、何事かと見守る。
松本が予定を訊いている女性が自分の知っている『結衣子』でなければいいのだ。
他の女性の、同名の人ならば。
しかし自分の隣人の『結衣子』であるならば、黙って見ているわけにはいかない。
頑張れよ、なんて応援している場合ではないのだ。
ずんずんと松本の方へ向かい、襖の陰が見える場所へと近づいていく。
隣人の結衣子であってほしくない気持ちが大きくなるにつれ、足の動きも遅くなる。
答えを待つ松本の表情を脇に捉え、ついに島田は襖の陰を見た。
「…申し訳ないんですが、今好きな……し、島田さん!?」
「…やっぱりお前だったか、結衣子」
そこにいてほしい人物だったのか、そうではなかったのか。
もちろん会えて嬉しい、しかしそれ以上に驚きがある。
そして松本への答えによっては嬉しさなどどこかに消滅するところであったが、その心配はないようだ。
目を大きく見開く彼女に、疲れたように笑いながらその頭をクシャクシャと撫でる島田、そして目の前の光景に茫然とする松本。
その三人の光景は、周りの者の視線を奪った。
「何が何だか俺にはもうよくわからない…」
スミスの呟きに、周りの者は大きく頷いたことだろう。
誰ひとりとして今の状況がよくわかっていない不思議な空間が、棋士会館の二階で広がっていた。
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